第二話 第一の【塔】セイレム(1)
とうに人を守る機能を失ったのだろう、【塔】セイレムの中は薄暗く静謐であった。外壁が崩れ落ちている箇所は雨を弾く機能は残したまま、外界の光を出迎えていた。陽光が神々しく射し込み、薄明の古城を見ているような隔世の感がある。穴だらけの外壁が太陽光の侵入を許しているため、懐中電灯が不要になる程度には明るい。
クロエは懐中電灯を切って右足の雑嚢に仕舞い込む。腰裏からぐるりと伸びて十字状に重なるベルトが、ウエストポーチと右脚に沿って縦に連なる二個のバッグを繋げている。手ぶらを好むクロエなりの、遠出用の装いだ。
円状に煉瓦を重ねて築かれた壁が、ところどころ崩れてはいるが未だ形を保っている。人間がいた頃には、きっと集会場や広場のような場所だったのだろう。苔と雑草に覆われているが、視界を妨げるものもないので、休むにはちょうど良かった。
『クロエ様、休みますか?』
「ああ、そうする」
サティに返事してすぐ、クロエはどっかりと土手に腰を下ろした。胡座をかいてから首を右方に傾けると、ごき、という小気味よい音が鳴る。聞かなかったことにして、クロエは右足のバッグから水筒を取り出して少しだけ水を飲んだ。
『足りますか』
「余裕。あんまり飲む必要もないから、この身体」
振り向くこともないまま淡々と答えつつ、水筒をバッグに戻すと、軽い柔軟体操を始める。
その時、背後からがさり、と草を退けて動く音がした。
クロエは即座に立ち上がって後ろを振り向く。この広場には背の高い植物が無いために、近寄ってくる者の姿は露わになっていた。
獣のように四つ足を付いて移動している、髪の長い少女だ。赤毛と茶髪の間くらいの色味をした髪が膝まで伸びていて、かつ四方八方にぼさぼさと跳ねていた。手入れをしたことがなく見える。少女はどこから鳴らしているか知らないが、野犬さながらにぐるぐる、と唸った。警戒して、しかし獲物を仕留める時機を狙って、徐々に接近してきている。
「……人間の子供だな。翻訳できないか?」
『試してみます。セイレム共通言語の音声周期を用いて交渉を図ります。お待ちを』
サティはそう言って近付いていき、少女に対して大人の大股三回分くらいの距離を置いた位置で停止すると、周期的な音を発生させ始めた。ブー、ブーという信号のような音の繰り返しだったが、少女の方は何かしら気付くことがあったようで、目を見開いて上体を持ち上げた。前足代わりの両腕がぐっと伸びて身体を支えている。
すると少女は先程の犬の声で、ウウ、グルル、うぉんと鳴いて、サティとコミュニケーションを取ろうとし始めた。
「何か言ってる?」
『水をくれ、と』
「なるほどね」
クロエは水筒を取り出すと、コップに一杯水を移して少女の方へと歩いて行く。サティの隣にしゃがみこんで、ほれ、と言って腕を伸ばしてコップを差し出した。
少女は恐る恐る近寄ってきて、コップに顔を近付け、犬猫と同じやり方でぺろぺろと舌を使って水を飲み始めた。
「こりゃ、親なしだな。どうやって食ってんだ、こいつは」
『今はコミュニケーションが難しい様です』
「な〜こと見れば分かる。お前の予想を聞いてんだよ、サティ」
『……この少女は推定七歳。継続的に接種できる栄養源がなければ、これほど壮健には育ちません。何者かが農耕を継続しているか、【塔】の自動生産システムが生きているか、または【塔】で管理されていた食糧用家畜が野生復帰して生態系を復活しているか……でしょうか』
サティの返してきた予想を聞きながら、クロエはじっと少女の方を見つめている。
七本の【塔】は二六〇年ほど前に、当時の技術を結集して造られた。その機構の一つが生産管理システムだ。円柱形をした【塔】は巨体の外周を取り囲むようにして、生産プラントが併設されている。農耕・畜産・水産・人工食への加工といった第一次産業は人の手を用いず、人工知能と機械による自動生産で執り行われていた。サティの言う『自動生産システム』とはこれを指す。人間が滅びても、機械による食糧生産は続いているのではないか、ということだ。
人が死んでも、人のために動き続ける機械と【塔】。取り残された少女。
コップを持った手は、少女が飲み採ろうとする水が跳ね飛んでびしょびしょになっていたが、クロエは少女が満足するまで待っていた。
水を飲み終えた少女は、信頼をしてくれたようで積極的に問い掛けに応じてくれた。
人間の言語は扱えないまでも、サティの発する音声周期に合わせて鳴こうとするので、誰かがある程度までは言葉を教えたのではないか、とクロエは勘繰っていた。
「お嬢さん。名前は?」
「う〜、ぐるる、ぐる……るる……わん!」
『翻訳不可能です』
「あ〜……じゃあ一旦ルルワでいいか。そう聞こえたからな」
「ぐる?」
「お前はルルワ。オレがルルワって言ったら呼ばれたと思いな。はい、る〜るわ」
「わん!」
「よしよし」
クロエの言うことをサティが通訳し、やや一方通行ながらに会話は成立していた。
便宜上ルルワと名付けられた少女は笑顔を見せ、クロエの方も釣られて薄く笑う。
「わん、ぐる、ぐるる」
『水、ありがとう、おいしかった、そうです』
「いえいえどうも。普段どこで水飲んでんだ?」
「うう、わん」
『……案内しようか、と』
「よろしく」
頼りにされたのが嬉しかったのか、張り切って駆けていく少女に先導され、クロエ達は広場から離れる。朽ちた建物の残骸、壊れた機械群の佇立する中を器用に避けて、少女は軽やかに進んでいく。
「オレの娘みたいだな」歩きながらクロエがぼそりと呟いた。エルゼノアからここまで数日ばかりの同行で、サティには一度も見せたことのない柔らかな眼差しが、少女へ向けられている。
『似てますか?』
「見た目は似てない。頼られると張り切るのは似てる。娘はさ、
本当に一瞬の間に、ルルワは姿を消してしまった。険しい表情になったクロエが辺りを見回したが、穴の開いた外壁から吹き抜ける風が木々を揺らして、物音を聞き分ける邪魔をした。
「うおん!」
彼方で発せられた少女の鳴き声は、何かを威嚇する類のものだった。
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