46 暗き洞窟は、かの邪竜の顎か
「とうとうここまで来たな」
山の斜面を登り、アグリム・ドゥガルの洞窟を目の前にして、ケンジはそんなことを呟く。
丸一年以上かけて、ようやく敵の喉下にやってきた。
この感覚は今まで味わったことのないものであった。
「粕谷、大丈夫か?」
「少し緊張はしているけど……平気だよ」
この緊張感は、まだ心地よいものだ。
これから向かう一世一代の大舞台に向けて、期待と高揚が緊張感になっているだけである。
なんなら、今が最高の状態と言えるだろう。
「行こう、カミケン。レデニアを救うための、最後の仕上げに」
「ああ。行こう」
『では、私がそれを見届けましょう』
二人の会話に、どこからか女性の声が混じる。
驚いて二人で見回すと、空から光が降ってくるのが見えた。
その光は二人の目の前に降り立つと、一度だけまばゆい光を発し、それが収まる頃にはそこに一人の女性が立っていた。
金髪のゆるいウェーブのかかった長髪、青い瞳に綺麗な肌。
身の丈を越すほどの長い杖を持ったその美女は、間違いなく泉の女神エストであった。
「エスト様!」
『久しいですね、カミヤさん。そしてケンジさん』
名前を呼ばれ、ケンジは少し顔をしかめる。
そう言えば、あの時以来、エストとは顔を合わせていなかった。
『お二人がここまで来られた事、まずは
「いえ、これが俺たちの仕事ですから」
エストへの返答は、カミケンに任せておいてよさそうだ。
多分、カミケンもケンジの心境を察して一歩前に出ているのだろう。そういう気遣いが出来る人間である。
「しかし、エスト様……泉から離れても大丈夫なんですか?」
『ええ、しばらくの間ならば、こうして泉を離れて活動することが出来るようになりました。これも、レデニアに人が集まり、私への信仰心が高まった影響でしょう』
神の力と言うのは人々の信仰心によって決まる。
レデニアに人が集まり、レデニアの周り一帯を祝福している女神であるエストに信仰が集まれば、今まで出来なかった無理も利くのだそうな。
『ここから先、アグリム・ドゥガルの討伐は過酷さを増すでしょう。しかし、ここで失敗するわけには参りません。私が微力ながらも助力し、かの邪竜を確実に討ち滅ぼすのです!』
「ありがとうございます。きっとやりとげてみせましょう」
エストの激励に、カミケンが頷いてこたえる。ケンジは黙って見ているだけだった。
さっきまでの最高の状態が、少し薄れてしまったようにも感じられた。
****
洞窟の内部へ入ると、瘴気が濃くなったのを感じる。
霊剣ファニアとエストの泉の水を使っているため、現在は瘴気の影響を受けることはないが、それでも息苦しさや異臭を感じてしまう。
「すごいな……紫色の煙りで洞窟の奥が見通せない」
「濃度が半端じゃないんだ。まともな人間なら、この中に入っただけで気絶しちゃうだろうな」
一度、瘴気を大量に吸って昏倒した事があるケンジ。その時の記憶がフラッシュバックし、少し顔色を青くする。
だが、そんな事で立ち止まってもいられない。
一行は慎重に歩を進めるのだった。
「しかし……思ったより内部構造に変化は見られないな」
カミケンが周りを見回しながらそう呟く。
確かに、瘴気の影響が一番強い場所であるはずのこの洞窟、一見して変わった様子は見られない。
『見た目には全く変わらないようですが、しかしその実、内容はかなり変わっています』
しかし、エストは少し顔をしかめて洞窟の岩壁を睨んだ。
「どういうことですか?」
『この洞窟を形成している岩壁、地面の土、その他、山の隅々まで瘴気の影響によって、この世界の岩や砂ではなくなっています』
「そんなことがわかるんですか!?」
『ええ。このまま放っておけば大規模な山崩れが起き、レデニアを土砂が飲み込んでしまうでしょう。この時期にアグリム・ドゥガルの許へたどり着けるのは、幸運だったのかもしれませんね』
土砂崩れのような自然災害となると、エストの結界でもどうすることも出来まい。
それが起こる前にここまで来られたのは、本当に
『最早一刻の猶予もありませんね。出来るだけ早急にアグリム・ドゥガルを討伐しなければなりません!』
「ええ、今日で決めてやりますよ。なぁ、粕谷」
「ああ、そうだね」
エストの混じっている会話に参加するのが嫌だったが、流石に返事をしないわけにもいかない。
出来るだけポーカーフェイスを保っておこう、と思ったケンジであったが、洞窟の奥に何かを見つけて剣を構える。
「誰かいるぞ!」
剣を抜いたケンジを見て、カミケンも周囲に視線を飛ばす。
濃い瘴気の中、確かに動く影を見つけた気がした。
そして、それは複数である。
「なんだ……魔物か?」
『どうやらそのようですね』
周りに感じられる複数の気配。
それらが大なり小なり、こちらに敵意を向けてきているのもわかる。
『恐らく、外の瘴気が
そう言ってエストが一歩前に出て、杖を高く掲げる。
『去りなさい、悪しき者たちよ! 神の光の前に、
エストの掲げた杖からまばゆい光が発される。
それは瘴気に煙った洞窟の奥の奥まで照らし出してしまうかのような、強烈な閃光であった。
その閃光が辺りを激しく照らすと、一瞬、瘴気の霧が中和されたように晴れる。
霧の中に潜んでいた異形たちは、まばゆさに目を眇めている間に光に照らされ、光を浴びた場所から塵の様になって消えて行ってしまった。
「す、すごい……」
「こんなことが出来るなら、ボクたち必要なかったんじゃ……」
『いいえ、これが通用するのは下っ端の魔物だけです。アグリム・ドゥガルやネームドの魔物、それにあなた方が先日戦っていた獅子ほどの力を持った魔物には針を刺すくらいにしか効果はないでしょう』
光が収まると、すぐに瘴気は濃さを取り戻し、目の前が紫色に煙る。
しかし、魔物の群れは消滅してしまったようだ。
「道は開けたか……」
「いや、待て粕谷」
先へ進もうとするケンジを、カミケンが止める。
彼の見据える先、瘴気の煙の中から鉄のこすれる音が聞こえてきた。
「……な、なんだ!?」
「まさか、フィーナさんが言っていた、あの……」
『嫌な雰囲気です……』
エストが眉間にしわを寄せる。声にも嫌悪感がにじんでいた。
ケンジはこんなエストに見覚えがあった。
それは確か、レデニアの領内に正教の連中が入ってきた時の事だ。
商売敵である他の神を信奉する連中を快く思わないのは当然のことであったが……。
「正教の人間がここにいるのか……?」
「忘れたのか、粕谷。神殺しの英雄は元々――」
一行が警戒している間に、こちらでも確認できる範囲に『それ』が近づいてきた。
鉄の鎧は黒く濁り、ボロボロのサーコートには角十字が描かれている。
見間違うはずもない、正教のシンボル。
そして、その人影には頭部がなく、切り取られた首の断面が痛々しく露出していた。
「――正教の騎士だ」
「アイツが、神殺しの英雄……ッ!」
のそり、と現れたその姿は、下手なホラーよりも恐怖感をあおった。
首の断面は未だ生々しく光っており、時折血の様なものが吹き出ている。
さらに言えば、剣を扱う人間として、ケンジもカミケンも理解してしまう。
よろよろと危なげな足取りの神殺しの英雄。だが、その立ち居振る舞いに一片の隙もないのだ。
少し踏み込んでしまえば、すぐに殺されてしまう。
そんな雰囲気すら感じ取ってしまう。
出発する前、『二人で力を合わせれば敵ではない』などとのたまってしまったことを、少し後悔してしまう。
この剣士は伊達ではない。英雄などと酔狂で謳われているわけではないのだ。
それを痛感した時、ケンジが一歩前に出る。
「カミケン、ボクがどうにかアイツを抑えるから、その隙に先へ行ってくれ」
「粕谷!? 何を言ってるんだ!」
「アイツは只者じゃない。ボクら二人でかかずらっていては、アグリム・ドゥガルを討ち損じるだろ。だったらここは戦力分散した方が良い」
まず間違いなく、神殺しの英雄は只者ではない。
先ほどのエストの光によって消し飛ばされていないだけで、ネームドと同等以上の敵であるとわかる。
さらに言えばケンジでは足元にも及ばないような剣術の達人であろうことも窺える。
ここで二人とも消耗してしまえば、アグリム・ドゥガル討伐どころの話ではなくなる。
それならば、カミケンだけでも先に行ってもらい、アグリム・ドゥガルを確実に討ち取る。
その方がまだ現実的だ。
「し、しかし……ッ!」
『いえ、カミヤさん。ここはケンジさんの言うとおりにしましょう』
「エスト様!?」
『私たちがアグリム・ドゥガルを討伐し、神字を刻むことが出来れば、この辺りの瘴気も晴れます。そうしたならば、この騎士も消滅ないしは弱体化するでしょう。そうすることが、ケンジさんを助けることにも繋がります』
今や魔物と化してしまった神殺しの英雄。その存在のために瘴気は必要不可欠である。
瘴気を完全消滅させることも出来れば神殺しの英雄も弱体化するはずだ。
それがケンジの助けに繋がるのも、カミケンは理解している。
だが、それでも足が止まってしまう。
「粕谷……」
「行ってくれ、カミケン。ボクにも言わせてくれよ、『人生で一度は言ってみたいセリフ』ってやつをさ」
「え……?」
「『ここは任せて、先に行け』ってね。滅多に言う機会もないんだ。ここで言えるなら千載一遇だよ」
おどけるケンジの態度に、カミケンも少し笑みを浮かべてしまう。
こうなってはケンジの覚悟を無駄には出来まい。
「粕谷……必ず、俺たち二人でレデニアに帰るんだからな」
「ああ、もちろんだ」
拳をぶつけあい、固い約束を交わした後、ケンジは剣を構え、
「じゃあ、行くぞッ!」
思い切り地面を蹴る。
一直線に神殺しの英雄へと踏み込み、大上段から剣を振り下ろした。
しかし、その一撃は英雄によって易々と受け流される。
「おっ……!?」
まるで水を斬ったかのような手応え。
すかされた事実を理解するのに、一瞬の間を挟んでしまった。
それが凍えるような背筋の寒気に変わるよりも早く、ケンジの首筋に向けて剣が振るわれていた。
「粕谷ッ!」
カミケンの声が洞窟の壁に反響する。
だが、それを聞く前に
それは最早反射のような動きであった。
身体が敵の殺意に反応し、勝手に動いたようにも思えた。
首を刎ね飛ばそうとしていた敵の剣を、身体が勝手に回避する。
頭上を掠める風斬り音が冷ややかに響いた。
「っぷぅ!」
息を抜くと共に、体勢を整える。
無理に回避した所為か、大きくバランスが崩れてしまっていた。
しかし、殺気はスッと離れる。
「余裕ってことかよ……ッ!」
わかりやすい隙に、追撃が来なかったのはどういうわけか。
神殺しの英雄はゆらゆらとした状態のまま、失った頭部でケンジを見据えていた。
「その舐めプ、後悔させてやるぞ……ッ!」
もう一度、ケンジが踏み込む。
今度は大振りではなく、英雄の足元を掬うような一撃。
低い軌道の剣閃に、英雄は少し退いた。
しかし、ケンジは間髪いれずに間合いを詰める。
回り込みつつも深く踏み込み、さらに一閃。
英雄はケンジの攻撃を易々と回避をするも、それはケンジの術中である。
回避する方向を制限するかのように誘導し、カミケンとエストが通る隙間を作ったのだ。
「カミケン、今だ!」
ケンジの合図を聞いて、カミケンとエストは洞窟の奥へと走っていった。
英雄はその姿を見ているのかもわからないが、特に止める様子もない。
「どういうつもりか知らないけど、こっちとしては好都合か」
全く考えの読めない英雄の行動であったが、結果的にこちらの思惑通りになった。
ここは状況に甘んじておくべきか。
「さぁ、ちょっとボクに付き合ってもらうぞ、神殺しの英雄」
あとはケンジが英雄を討ち取ることが出来れば万々歳なのだが――
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