第1話

 暗い星空の下に晒されるレッドカーペットの上で直立したまま、チキンは耳裏に指を添えた。


《ターゲット様がご到着みたいだぜ。リムジンへ向かう》

《節度を持ってな。あんまり早まるんじゃねえぞ》

《ああ、わかってる》

《……お前はときに突拍子もないことをするから余計に心配だ。手はず通りにな、チキン》

《俺がいつどこで余計なことをしたってんだオウル、マリファナでもヤっちまってラリってんならオススメの精神科を紹介するぜ》

《ハッパなどやっとらんわ。よくもまあそれだけスラスラと口が回るな、お前は。コメディアンにでもなったほうがいいんじゃねえのかい》

《コメディ? 冗談じゃない。俺が愛してる映画は爆発アクションだけだぜ》

《ガッハッハ、じゃあ今度テロ系ミッションにでも当たったらダイナマイトでも持ってテロ組織に突っ込んでもらえるとありがたい》


 それだけ言うと音声通信は途切れた。


 エージェント間の通信手段は、盗聴や妨害電波の干渉を避けるため、『骨伝導ナノマシン』による特殊な無線通信方式『ボーン・Ⅱ信号』が採用されている。


 骨のあらゆる部位へと搭載されたナノマシンは発声せずとも、小さく唸るだけで、微量な骨導音をキャッチし、波形データとして相手のナノマシンへ音声データを届ける事ができる。


 たとえ粉砕骨折をしようが、体内に一五〇カ所以上も埋め込まれたナノマシンのうち送信用と受信用、二つが起動すれば音信不通になることはない。


 チキンは漆黒のスーツを翻し、対象へ足を運ぶ。

 やがてリムジンから姿を現したのは、テレビやスクリーンで何度も見てきた映画スター。


 ここ、フランジの保養都市、ラングルージュでは毎年国際映画祭が開催される。

 映画祭は最大で二週間行われ、今日はその最終日だ。


 流石は世界最大の映画祭と言われるだけのことはあり、この期間中は住居を持った人間以外の一般人は、まずこの小さな娯楽都市に入り込むことさえ許されない。選ばれしセレブたちの憩いの場というわけだ。


 世界各国から集まる製作映画関係者は、映画配給会社へ新作映画のプロモーションの場であり、エントリー作品への審査、賞の授与を行う。


 最も素晴らしい出来の作品には、この映画祭の目玉でもあるネオ・ゴールデン・サテライトと呼ばれる賞が贈られる。もし授賞するすることができれば、興行面での宣伝効果としてはこれ以上ない程のものになるだろう。


 しかし、そんな大きな映画祭であっても、やはり出来レースというものは存在するらしい。


 多額の金によって人間は今まで培ってきた文化や政治を簡単に裏切るというわけである。


 今回の映画祭に限っては、既にネオ・ゴールデン・サテライトを受賞する作品は既に決まっている。主演のジャック・コーラスはこの事実を知ってか知らずか、結果的に涙を流しながら彫像を掲げることになる。


 ――ああ、くそったれが。胸くそが悪いぜ。


 自分の大好きな映画スターのそんな側面は見たくなかった。直接的に本人と関係ない問題なのかも知れないが、それでもファンとしては正当に評価されたうえで受賞して欲しかった。


 しかしチキンは思う。自分たちも本質的にやっていることは全く変わらないではないかと。


 秘密結社に所属するエージェントであるチキンは、世界各国から金次第で世界の水面下へと潜り込み、与えられたミッションを遂行しなければならない。


 生粋のエージェントとして。


「……こちら、です」


 あまり敬語を使い慣れないせいか、無理をしている己の口調に虫酸が走る。


 チキンは映画祭に派遣された専属SPとして、誰もが知るアクション映画スター、アラスター・ブラックリーの警護に従事していた。


 俳優としての才能は間違いなく五つ星のブラックリーだが、その私生活は壊滅的だ。薬物問題で過去に四回逮捕されており、取っかえ引っかえ女優とのスキャンダルも耐えない。さらにはマフィアの祖父を持ち、背後に見え隠れする黒い力で今の対場までのし上がった。と、ゴシップ記事には書かれている。


 今回の八百長についても、その黒い力とやらが関与している可能性が高い。これだけ目立っていれば、彼らをよく思っていない輩も必然的に多くなる。


 そのためブラックリーファミリーの命を狙うものも少なくないらしく、そのため秘密結社のエージェントを極秘に雇うことにしたのだろう。


 チキンはブラックリー演じるキャラクターの口調を真似するほどに愛しているが、役者自身に関しては、別段関心が高いわけでもない。しかし、実際こうして目の辺りにしてみればどうだろう。


 常人では踏むことさえ許されないレッドカーペットを進みながら、溢れかえる報道陣に満悦の笑みを浮かべたパラディッド映画俳優を一瞥する。


 髪型は演じていた頃とまったく違うが、やはり別人とはいってもあの『ジョン・ハカード』であることに変わりはない。


 ――アンタの噂が白であることを願うばかりだぜ、ジョン。


 思考の隅でそんなことを思いながら、彼の専属SPとして、それらしい身動きをしてみる。


 両手は必ず開けておく。片手で要人を守護し、もう片方で不測の事態に対処するためだ。


 突然の奇襲に備え、視野を広く持ってから背後のSP二人とアイコンタクトを取った。


 安全を確認してから会場へのライトアップされた二四段の大階段を上がっていく。

 三時間ほど前のブリーフィングでオウルから指南を受けたが、正直SPとしての体裁などチキンにとってはどうだっていいことだった。


 これから起こる出来事を考えれば――。


 チキンは苦虫を噛むようにして、己の真のミッションを心で反芻させた。

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