第19話 きっかけとトラウマ
「まあ、そうですよね」
苦笑する。
「いたらびっくりですよ。なかなか遭遇しないと思います」
「うん」
遮るように、木島さんがうなずいた。
ぼそりと、言う。
「キミで、ふたりめだよ」
「え」
ふたりめ?
訊き返すと、木島さんがかすかに、口角を持ち上げる。
引きつった笑み。
なぜだか胸騒ぎがした。
「どうしたんですか? 木島さん――」
「身体を洗ったら、露天風呂に行こうか」
淡々と言う。
「キミにしか、話したくないから」
「……?」
あわてて身体に塗りたくった泡。
流し終わるのが、やけに遅く感じた。
◇
まだ、外気はきんと冷えていた。
ぶるる、と身を震わせながら、こちらを振り向く。
「さむいねえ」
「寒いですね」
うふふ、と、うれしそうに笑う。
「どこに行きますか」
あたりを見回す。
打たせ湯、浅くて広い岩湯など、いくつかのスポットがあった。
「そうだねえ。――あ、あそこ」
遠くのほうに目を凝らし、指差す。
「一番上のところにある、あの樽湯に入ろうか」
「樽湯っていうんですか? あれ」
「さあ? 言ってみただけ」
他愛ない会話をしながら、足元に気をつけて登っていく。
樽湯のあたりは、屋内に比べて、えらく閑散としていた。
二人くらいしか入れない、狭いスペース。
ひとが集まって来ないことは、すぐに分かることだった。
「ここなら、落ち着いて話ができるね」
木島さんが先に入る。
軽く手を入れて温度を確かめ、よし、とちいさく呟く。
ステップに足を乗せ、ゆっくりと、全身を湯に浸からせる。
身体が軽いからだろうか、お湯はそんなにあふれなかった。
続けて、慎重に入ると、ばっしゃあぁ、と、勢いよく浴槽の縁を超えて流れ出す。
「な、なんかショックだ……」
おれ、重いんですかね、と、落ち込みながら訊くと、突如爆笑し出した。
「あはははは!」
「な、なんで笑うんですか!?」
「ご、ごめん、つい」
ひいひいと苦しそうに肩で息をしながら、口元を押さえる。
「だって、けっこう痩せてるのに、体重なんて気にしてるから。気にする必要ないよお」
「そうなんですかね」
「二人入ってるんだから、当たり前だよ、あふれて。そのぶん、体積も増えてるんだから」
「体積?」
「そ」
むかし、物理で習わなかった? あれ、理科だっけか。
覚えてないや、と、苦笑する。
「あ、なんか、黒木先生が話してたな。アルキメデスでしたっけ」
「そうそう。火曜の五限でしょ? あれには閉口したよ。すぐ脇道にそれるよね、あのヒト」
「あー。それでたまに、授業長くなりますよね」
「うんうん。課題はわりと簡単だから、助かってるけどさ」
「ですねー、……ん?」
引っかかって、質問してみる。
「あ、木島さん五限の物理、受けてるんですか?」
「うん。そうだよ」
あっさりと、肯定する。
「じゃあもしかして、おれの名前を知ってたのって――」
「予想の通り。そこで、僕は初めて、志澄を見かけてね」
目を、そっと伏せる。
「それで気になって、バレないようにさりげなく横を通って、ポータルサイトを見てるスマホ画面をのぞいたんだ」
淡々とした口ぶりで、告白する。
「ちょうど、見たのが学籍番号でログインするタイミングだったから、それを覚えといたんだけど、さすがに検索では出なくて焦ったな。いやあ、大変だったよ。後日たまたま見かけてついてったら、学習相談スペースに行ってたから、キミが帰ったあと、利用名簿を確認して突き止めたの」
「えっ……」
いきなり饒舌になったので、驚く。
――しかも。
「労力、めっちゃ使って調べてるんですね。なんかちょっと、あの……」
衝撃の事実過ぎて、言葉が出てこない。
ぱくぱく、と、金魚みたいに口が動く。
「いや、びっくりしてるみたいだね。調査方法を余すことなく開陳したのは、さすがに気持ち悪かったかな」
ごめんね、本当に――。
気まずそうに、頬を掻く。
「い、いや、いいんですけど」
首を、横に振ってみせる。
伸ばした前髪の先についた水滴が、綺麗な玉になって周囲に飛んでいく。
「どうして、そこまでしてくれたんですか?」
「……?」
木島さんが、不思議そうに首をかしげる。
「してくれた?」
「はい」
「くれた、って?」
ふつうはそこで、気味悪がるものだと思ってたんだけど。
じっと、こちらを見つめる。
「というか、前もこんなこと訊いた気がするな。なんだっけ」
「名前を知ってたとき、ですかね」
「あー。たぶんそうだね」
うんうん、と、納得したようにうなずく。
「忘れてたや。ずいぶん遠い、昔のことに思えるねえ」
「そうですね。いろいろあったし……」
困ったように、二人で笑い合う。
「で」
木島さんの顔から、笑みがしだいに引いていく。
「キミが、優しいひとだってことは、よおく分かった」
「……」
「どうして、名前を知っていたのか、っていう最初の疑問は、これで解決されたと思う。答えは、僕が事前に、キミのことが気になって嗅ぎまわっていたから」
「言い方……」
茶化すように言ったことを、すぐに後悔する。
彼は笑わなかった。
「それで次に浮かぶ疑問は、当然、たったいま白状した、一連の行動についてだろう」
おそるおそる、はい、と認める。
「そうだよね」
深呼吸をする。
深く、ふかく。
「ごめん。……少し、勇気が要る」
僕にとってこれは、トラウマを引き起こすことと、ほとんど同じ意味を持つ。
「ほとんど?」
問うと、さみしそうに微笑む。
「自業自得だからさ」
僕が悪いんだよ。
みんな、みんな。
胸に手を当てて、背を丸める。
顔を上げると、いつもの、おちゃらけた表情。
最初に会ったときと、なんら変わらない。
けれど。
これまでの前置きのせいで、それはとても脆くて、今にも壊れてしまいそうに――見えてしまった。
「さあ、そろそろ話そうか」
努めて明るい口調。
「僕のことについて。志澄には、知っておいてほしいんだ」
知らないひとの名前を、口にする。
「誰ですか?」
聞いてくれればわかる、と、にこりともせずに、即座に返す。
「小学生のときの、親友だった女の子。彼女が、純ちゃん」
遠い目をし、ひとつひとつ思い出しているような顔で、語り出す。
古いタンスの中から、ちっちゃなビー玉やおはじきを、手でつまみ上げて取り出すみたいに。
おれはそっと、その話に耳を傾けた。
◆
「僕と彼女が仲良くなったのは、一年生のとき、小学校の図書館で出会ってからだった」
彼女が手に取ろうとしていた本を、僕が取ってあげたんだよ。
ね、ベタなシチュエーションだろう?
くく、と、おかしそうに口元を隠す。
とても、楽しそうだった。
「表紙を見て、びっくりしたよ。なんと、下半身がない女のひとが、こっちに向かって、両腕で這い寄ってくる、おどろおどろしい絵が描かれていたんだ」
「それって……」
「わかるかな?」
試すような瞳で、こちらを見る。
「テケテケのことですか?」
「おお。知ってたか。意外」
目を開き、ふうん、と、感心したように鼻を鳴らす。
「そう。正解。彼女が持っていたのは、子供向けの児童文庫だった。ホラーがひときわ、有名なレーベルのね」
その絵が怖くって、思わずうわぁ、って叫んだら、びっくりして逃げそうになったんだけど、なんとか呼び止めて、いっしょに読ませてもらったんだ。
そしたら、――すっごく、おもしろかった。
両の頬をそっと、押さえる。
ほんのりと赤くなっていた。
「僕の、ホラーにハマった最初のきっかけは、それ。最初のね」
含みを持たせ、強調する。
おれは黙って、話を聴く。
「そのあと、なんとなく打ち解けておしゃべりをしていたら、その子、とってもうれしそうだったんだ。なんでも、クラス内にひとりも、友達がいなかったらしくてさ。話し相手がいないから、毎日、図書館に通っているって知った」
ちなみに。
こちらにいたずらっぽい流し目をし、手を後ろに。
する、と、下のほうに向かって、スライドさせる。
「その子は髪が、キミより若干短いけれど、とても長くって。背中の半分くらいまであって、そのまま、重そうに垂らしていたの。志澄に、似てるって言ったのは、それが主な理由」
「……なるほど」
相槌を、ようやっと打てた。
木島さんは特に反応することなく、にこにことたのしそうに笑っている。
子どもにでも戻ってしまったような、無邪気さ。
出会ったときよりも、数段、さらに純度が高い。
「……」
そこに少しばかり、狂気に近いものを感じてしまい、彼から、目を離せなくなる。
「顔とかは、似てたんですか?」
「んーん。全然。髪型とかあと、雰囲気とかかな」
さらりと答える。
「そうですか」
沈黙。
彼が話を再開するのを、じっと待つ。
口を挟むことがなぜか、さっきからやけに、憚られた。
懐かしそうな彼の目は、どちらかというとおれよりも、その子――思い出のなかの彼女へと、向けられている気がしてならなかった。
「それでね」
彼は続ける。
どこか、タガが外れたように、目を限界までほそめながら。
「初めは、木島くん、
『おうみがみ、って、言いにくいでしょう。純、でいいよ』
「そう彼女が、切り出してきたんだ。それで、名前で呼び合うようになった」
まあ当然、周りからは、ウワサされてたね。
付き合ってるとか、まあ、いろいろと――。
くすくすと笑い、そんな感じじゃないのにねえ、と、鼻息を洩らす。
静かに、心臓が跳ねた。
「……分かります。おれも、ありましたから」
「おや。そうなのかい」
目を、ぱちぱちと瞬く。
「へえぇ。隅に置けないじゃないか。やるねえ」
「冗談ですよね?」
「あはは、ごめん。うん。そうだよ」
冗談、冗談。
ちょっとした、全然、面白くないジョークだよ。
真顔に戻る。
「そういうことを平気で言いふらす連中が、僕は嫌いだからね。二番目に」
「一番は、なんですか?」
微笑み、答えない。
「これから話すよ」
さらりと流して、話題を移す。
「事件があったの」
「……えっ?」
事件?
「うん。マジの」
口調とは裏腹な、張り詰めた声。
知らず、固い唾を飲み込む。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます