第5話 帰路の落胆、奇襲の鉄槌

 京都での滞在は、信玄にとって屈辱以外の何物でもなかった。長居すれば領地の憂き目を見る。上杉の侵攻、兵站の枯渇。それらは信玄の頭から片時も離れなかった。本来ならば、もっと長く都に滞在し、武田家の威光を天下に示すべきだった。しかし、松本城で陽動作戦を展開している東海道方面軍のことを考えると、一刻も早く甲斐へ戻らねばならなかった。


 信玄は、沈鬱な表情で京都を後にした。都の華やかさは、今の彼の目には虚しく映るだけだった。


「少々残念な結果になった…」


 北陸道を帰路につく信玄は、側近の真田幸隆、山本雪之丞、そして嫡男・勝頼に静かに語りかけた。


「将軍義昭公に歓待され、天皇陛下には錦の御旗をいただけると期待しておったのだが…まったく裏腹な結果となった。このことが上杉に知られれば、奴らはさぞかし嘲笑うであろうな…」


 信玄の言葉には、深い落胆の色が滲んでいた。真田たちは、かける言葉も見つからなかった。彼らもまた、信玄の落胆を共有していた。特に雪之丞は、自身の策がこのような結果を招いたことに責任を感じていた。


 帰路、信玄は油断していた。「どうせまた織田・徳川の連中は城に籠もっておびえているだけだろう…」と。しかし、その油断が命取りとなることを、彼はまだ知らなかった。


 越前と加賀の国境付近、木ノ芽峠(きのめとうげ)。険しい山道が続くこの場所は、伏兵を配置するには絶好の地形だった。信玄率いる武田軍が峠に差し掛かったその時だった。


 突如、周囲の山々から凄まじい銃声が轟き渡った。無数の銃弾が、武田軍の隊列に降り注いだ。


「伏兵だ!伏兵だ!」


 兵士たちの叫び声が木霊する。長旅で疲弊していた武田の兵たちは、突然の奇襲に混乱し、隊列を乱した。


「しまった…!」


 信玄は呻いた。その表情は、驚愕と後悔に染まっていた。


 木々の間から、無数の兵が現れた。織田家の旗印、徳川家の葵の紋が、風になびいている。信長、家康、そして秀吉の姿もあった。彼らは、東海道方面軍と対峙していると見せかけて、密かに主力を北陸道へと移動させていたのだ。周到な罠だった。


 さらに、信玄を絶望の淵に突き落としたのは、かつて北陸道を進軍する際に味方していたはずの、越前の山賊や海賊たちが、織田・徳川方に寝返って攻撃してきたことだった。彼らは地の利を活かし、武田軍を容赦なく攻撃した。


 長旅で疲労困憊していた武田の兵たちは、織田・徳川の容赦ない銃撃の前に次々と倒れていく。かつての精強さを誇った武田の騎馬隊も、この狭い山道ではその力を発揮できず、混乱に拍車をかけた。


 信玄は、押し寄せる敵兵を見ながら、深い後悔の念に苛まれていた。都での屈辱、そしてこの奇襲。全てが繋がった。これは、家康の周到な策略だったのだ。しかし、気づいた時には、既に手遅れだった。武田軍は、絶体絶命の危機に瀕していた。

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