よそのお嬢様

金谷さとる

よその姫君とお嬢さま

 ぽたぽたと水滴を滴らせながらぼぅっと立ち尽くすお嬢さまを見つけた。

 上のお嬢さま付きとなっているわたしが素通りすることはできず慌ててお嬢さまのもとに駆け寄る。

「お嬢さま!」

 ぼぅっと上を見上げるお嬢さまが困ったように首を捻じる。

「上からふってきたの。変わったお天気」

 ぽつりと呟いてからわたしに視線を合わせてくる。

「すこしおどろいたのだけど。濡れてしまって。どうしたらいいのかしら?」

 困惑しているとわかる目の動き。

 予備の着替えは上のお嬢さまにはないし、濡れたまま教室に行けば、下のお嬢さまに迷惑をかけてしまい、上のお嬢さまの学院内での評判がまた落ちる。

 ああ、まったく。面倒なことに誰かがお嬢さまの上から水を落としたのだ。

 近くはない場所から複数の笑う声がちらほらもれ聞こえる。

 様子を確認しているのだろう。わたしの動きも見られている。

「救護室にまいりましょう」

「きゅうごしつ?」

「さ。まいりますよ」

 しかたがないので上のお嬢さまの手をとって引く。

 入学時にされたであろう説明を聞いていなかったのかと少し苛立つ。上のお嬢さまはわたしや下のお嬢さまより数日遅れて学院に通いはじめた。ひとつ下である下のお嬢さまと同じ学年に。

 すでにできあがった集団の中に上のお嬢さまが放り込まれても孤立するのは決まりきったことであり、本質的にわたしが上のお嬢さまを疎むことは間違っている。

 入学以前から学内の人間関係は六割から八割出来上がっている上に数日あれば人間関係の流動性は難しくなる。そう、上のお嬢さまは確定してからそこに入ってきたのだ。

 それでも、わたしが上のお嬢さまに付けられている以上、わたしは上のお嬢さまの味方でいるべきなのだ。そうでなければ使用人学級の学友達から使用人として不適合だと判断されてしまう。

 それはイヤだった。

 救護室であれば予備の着替えや対処について相談もできるだろう。

 わたしでは上のお嬢さまがとるべきふさわしい行動が判断できないのだから。

「ねぇ、貴女方。どうなさったのかしら?」

 急ぎ足に進むわたし達をとめたご令嬢は上のお嬢さまと同じ年。お嬢さま方とはひとつ上の学年の大家の姫君。有名な姫君だった。

「っ、ぁ、どなた?」

 息を乱した上のお嬢さまがそっと視線を姫君に合わせて問う。

 神帝様の妻としての候補にすら上がる特別な大家の姫君に『どなた?』下のお嬢さまが『おはなししてみたいお姉さま』として憧れておられる姫君ですよ!?

「あら。ミナツキ様でしたのね。わたくし、アモウですわ。あら。いけませんわ。そのご様子ではお体に障りがあるかもしれませんもの。わたくしの休憩室にいらして。さきの授業で着物を仕立てましたの。お浴もできますし、タカヒラ。ミナツキ様を運んでちょうだい。足を傷めてらっしゃるようだから」

 ぬっと現れたのは折れそうに細い長身の男。使用人の腕章を付け、覆面をつけた男。

 その男が上のお嬢さまを掬うように抱き上げ歩きだす。

「あ、ぁ。アモウ様」

 動揺した上のお嬢さまの声にハタと気がつく。

 許嫁のある身で他の異性に触れられることを許すだなんてはしたない。

「あなたもついて来てよろしくてよ。ミナツキ様の、御付きでしょう」

 薄く微笑みかけられて制服のスカートで上のお嬢さまの手をひいていた手を拭う手の動きがとまった。

 姫君の目はひたすらに冷たくわたしを見据えていた。

 大家の姫君に与えられた学舎内の休憩室はよい香りのお部屋で、侍女学習の講師のおひとりが不審そうにわたしを一瞥しました。

「お湯の準備は出来ております」

「タカヒラ」

 頷いた男が講師の案内に従って動く。わたしはついていけず、ついぼうと。

「セツさん、あなたもいらっしゃい」

 扉から顔を出した一学年上のおねえさまが手招き、講師に軽く睨まれて小さく舌を出している。

 比較的親しくしている相手なのだろうとわかる。

「あ、はい」

 なんとか動揺しつつ声を捻りだせた。

 椅子に座らせられたお嬢さまの足を眺めながら先生が渋い表情をしている。

「ミナツキ様、手を伸ばしてくださいませ。濡れた制服は脱ぎにくいでしょうからお手伝いさせていただきますね」

「え、あ? 大丈夫ですよ?」

「はい。お手を拝借ぅ」

 するするとあっという間にむかれていく上のお嬢さま。

 おねえさまはお嬢さまを安心させるように明るく話しかけながら、わたしに濡れた制服を渡してくださいます。

「ミナツキ様、こちらにお湯の支度ができておりますの。触れることをお許しくださいませね」

「ぇ。あ、はい」

「セツさんは洗濯場に案内するわね。ミナツキ様、セツさんをお借りしますわね」

 扉が閉ざされた瞬間からあたたかい空気が消えた。

「ねぇ。セツさんは、誰にお仕えしているの?」

 キツく冷たい問いかけの声にすぐに答えることができずわたしはついうつむく。

「ミナツキ様にお仕えするよりイツカさんにお仕えしたい感じかしら? まぁ、かまわないとは思うけれど、ミナツキ様は本来ウチの、アモウの姫君に並ぶ姫君様だとわかっているのかしら?」

 え?

「少なくともお怪我をそのままにしておくような目につく真似はしないことね。忘れてはいけないわ。セツさん。あの家を大家としているのはミナツキ様とそのお祖母様だし、神帝騎団に所属されておられたミナツキ様のお父様の尽力だと」

 ふぅとおねえさまは息を吐き洗濯室の扉を開く。

「騎団の殿方は繋がりが強いの。ミナツキ様の許嫁の方もそのご縁のはずですよ。ミナツキ様の現状には眉を顰めてらっしゃる方々も多いのです。立ち振る舞いに注意しておかないとセツさんもひどいめにあいかねませんよ」

「あ。はい」

 そんなこと、考えたこともなかった。

 上のお嬢さまがアモウの姫君に並ぶだなんて。

 そんな畏れ多い。

 なにもできない。まともな会話も学業も芸事だってできないし、身嗜みすらまともとは言い難い。

 許嫁様だって上のお嬢さまより下のお嬢さまに夢中だ。上のお嬢さまには心を引き留めることもできてはいない。

 そんな上のお嬢さまが?

 洗濯場で洗浄にかければほんの僅かの時間できれいに洗われ、かつ乾いたお嬢さまの制服。こんな施設が使用許可がおりているのはアモウの姫君様だからこそ。

「まともに寸法のあっていない制服や靴は卒なく整えることが使用人の義務です。合っていない靴をそのままに履かせておく。それはお付きの貴女の評価が落ちることだと知っておくべきよ。私がしてあげられる助言はここまで。貴女の人生がよいものであることを祈っているわ」

 つまり、わたしはお嬢さまに付いていることで『できない使用人』として使用人学級のみなさんに見られていたということ?

 でも、だって。上のお嬢さまなんですよ?

 楽器の演奏も文字のうまさも使用人であるわたし以下なんですよ?

 それに学院用の準備をなすったのは女中頭さまでわたしではないのに。


 鬱々しい気持ちでアモウの姫君様の休憩室に戻ったわたしの前にあったのは美しく仕立てられた着物を身に付けられた上のお嬢さまがアモウの姫君様に髪を梳かれながら談笑なさっているというとても胸が痛む風景でした。

「お似合いですし、差し上げますね。そのかわり、わたくしまたおしゃべりする時間をくださいませね。お約束。ですよ。ミナツキ様」

「あの、ご迷惑では?」

「あら。おかしなことですね。わたくしがお願いしておりますのに」

 萎縮する上のお嬢さまを眺めながら軽やかに朗らかに笑うアモウの姫君様。


 下のお嬢さまはすでに下校なされており、車はない。

 上のお嬢さまのために車を出す使用人は当家にはいない。

 集団送迎車にお嬢さまを乗せるわけにもお一人で道を歩かせるわけにもいかず、ふたり徒歩で帰路につく。

 夕暮れの魔刻に近づく都市の道。

 漆喰と煉瓦クズで整えられた赤黒い道。

 広い学舎を示すようにお屋敷のある貴族街は遠く時折り横を走り抜ける送迎車に疎ましい視線を送ってしまう。

「アモウ様のような方もおられるのね」

 薄暗くなりつつある道を歩く上のお嬢さまがぽつりとこぼす。

 迷いなく歩く姿は凛と涼やかに見える。

 いつにない梳かれた髪と仕立てのよい着物姿が故に。

「セツ。足は大丈夫? 送迎車に乗って良かったのよ。私は、……歩きたかっただけだし」

「おひとりではあぶないですし、わたしが叱られます」

「そう。……セツが叱られるのはよくないわね。じゃあ、帰りましょうか」

 上のお嬢さまとこんなに長い会話をしたのははじめてで。迷いなく歩く姿に「なぜ」と問えば、少し微笑んで「外を歩いてみたかったの。だから外を見ていたのよ」と。

 この人は、下のお嬢さまの言葉を聞いておられないのだとずっと話しかける下のお嬢さまを蔑ろにするようなお嬢さまなのだ。


「いただいた靴。使えるかしらね」


 今は着物に合わせた履物でお嬢さまは気楽げに歩いてらっしゃる。

 許嫁様から頂いた学生靴は上のお嬢さまの踵や爪先を血まみれにしていた。

 確かに使用し続けるのは難しいのだろう。

「他の履物の方が良いかもしれませんね」

「そうね。通学にふさわしい靴。困るわね」

 お屋敷近くになって少しだけ上のお嬢さまの歩く速度が落ちた。


「それでも、帰るのはここしかないのね」


 小さく届いた声はひどく冷たく痛みを伴うかのように響いた。

「セツ! お姉様! 魔の刻近くまで外におられるだなんて非常識だわ! お姉様ったらセツを引き回して!」

 下のお嬢さまが門を開けるよう指示しながら声高に上のお嬢さまを責める。

「ごめんなさい。心配してくれてありがとう」

「そうよ! 心配、したんだから……。お姉様。そのお召しものは?」

「少し歩いて帰ってみたくて。セツにはわがままをしてしまったの」




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