寄り添う

与十川 大 (←改淀川大新←淀川大)

プロローグ

 都心の高層ビルを夕陽が赤く染めていた。熟れた柿のようにもろく見える太陽は西に沈みかけている。それを追いかけるように、薄い月が東から昇りかけていた。

 繁華街の広い歩道の上で、スーツ姿の中年男がロングコートに袖を通していた。隣で同じくスーツとコート姿の長身の青年が車道の先を覗いている。

 中年の男はコートの襟を直しながら言う。

「本当なのか。どうしてバレたんだ」

 青年は道路の先を望んだまま季節物の黒いコートの袖から出した手を高く上げた。

「わかりません。どこかで撮られたのかもしれませんね。今の世の中、誰もがパパラッチですから。タクシー!」

 大きく手を振る青年の後ろで中年の男は頭を掻いた。

「マスコミに嗅ぎつけられたら面倒なことになる。手は打ってくれているのだろうな」

 青年はパッシングで応えたタクシーにもう一度細かく手を振ると、片手にまとめて提げていた鞄のうちの薄い方の鞄を中年の男に渡して言った。

「勿論です。階堂社長の名誉を守るのが秘書としての私の仕事です。ですが……」

 青年はしかめた顔をビルの方に向けた。向こうから和装の若い女が駆け寄ってくる。女は社長の前に来ると彼のネクタイを軽く整えてから、その胸に頬を寄せて囁いた。

「もう、来てすぐに帰りはるなんて、いけずやわあ。ウチのこの気持ち、どないしてくれますの、階堂はん」

 階堂健次郎はニヤリと片笑んで言う。

「急用ができたんだよ。秘書の竹内君がすっ飛んで来るほどの。なあ、そうだろ?」

 青年は軽く頷いてから、歩道に寄せて停車したタクシーの後部ドアの前に移動する。

 女は青年に向けて舌を出した。

「べー。竹内はん、大嫌いや。お店までウチの大事な人を呼びに来んといて」

「まあ、そう言うな。竹内君も仕事なんだ。また必ず顔を出すよ」

「お店に?」

「君のマンションでもいいが、店にも顔を出さないと売上げが伸びないだろ?」

「もう」

 女は階堂の胸を叩いた。

 タクシーの横の竹内が開いた後部ドアに手を掛けたまま険しい顔をして言う。

「社長、お急ぎください。時間が」

「わかった、わかった」

 階堂は仕方なさそうに振舞いながら、タクシーの方へと向かった。

 竹内は女に手を振っている階堂を半ば押し込むようにしてタクシーに乗せた。続けて自分も乗り込むと、ドアが閉まる。窓の外では女が車内を覗き込んで手を振っていた。

 袂を握りながらも一の腕を出して手を振る女を余所にタクシーは走り始めた。

 階堂健次郎は名残惜しそうに振り返ったまま、小さくなっていく女の姿をリアガラス越しに見つめている。

「社長……、階堂社長……、社長!」

「な、なんだね、竹内君」

 怒鳴った竹内に階堂は驚いた顔を向けた。

 竹内は溜め息を吐いてから言う。

「社長、この際ですからはっきりと申し上げます。私は階堂健次郎のことが心配でこうした事を為している訳ではありません。会社の事が心配なのです。清成建設の事が」

 階堂は両頬を引き垂れた。

「ずいぶんとはっきり言うじゃないか。まあ、分かってはいるつもりだが。どうせ私は傀儡だし、只の広告塔だ。先代が亡くなった今、社長としての椅子も近いうちに……」

 竹内が咳払いをした。彼の視線を追って階堂も運転手に目を向ける。

 運転手の男は空気を読んだように視線を前に向けたまま、快活な声を発した。

「お客様、どちらまで向かいましょうか」

「羽田までお願いします。急いでください」

 運転手にそう答えた竹内に階堂がまた驚き顔を向けた。

「羽田? なぜだ。社には戻らないのかね」

 首を横に振った竹内は、身を乗り出した。

「運転手さん、これ個人タクシーですよね」

 運転手の男は初めてバックミラー越しに竹内の顔を覗いた。

 竹内は手許で長財布を開きながら言う。

「悪いけど、僕らが乗った事は口外しないでもらいたいんだ。それと、その走行履歴とか今はデジタルで残るのでしょ、それも消してもらいたい。これ、少ないけど」

 竹内が横の運賃入れに置いた数枚の紙幣を一瞥して、運転手の男は狼狽ぎみに言った。

「いやいや、こんなに貰えませんよ。ご要望にはお応えしますが、これは貰えません」

「いいんだ。受け取ってくれたまえ。それに我々の会話も忘れてもらえるとありがたい」

 運転手は少し間を空けてから、今度は真顔で頷いた。

「分かりました。まあ、私も信用第一でお客様に寄り添いながらこの仕事を続けていますから、ご心配なく」

 運転手の肩を軽く叩いた竹内は、後部シートに深く腰を戻してから安堵の息を吐いた。

「ふう。これでようやく安心して話せます」

 階堂が眉を寄せて言う。

「こんなタクシー運転手の言う事など信用は……」

「大丈夫です。今の会話も録音しましたし、あの乗務員証も撮りました。彼は嘘はつけませんよ」

 竹内は握っていたスマートフォンで助手席側のダッシュボードの上の乗務員証を指してそう答えた。そのスマートフォンをスーツの内ポケットに仕舞いながら続ける。

「今は国民総パパラッチの時代だと言ったでしょ。何かあれば、このタクシーは信用できないタクシーだとネット上にばら撒きますから。ね、運転手さん」

 運転手の男は前を向いたまま黙っていた。

 階堂がバックミラー越しに運転手の眉を窺いながら竹内に言った。

「そう脅すようなことを言うものじゃないだろう。それで、どうして私が羽田へ」

「ドバイに行ってもらいます」

「ドバイへ? まさか、例の共同プロジェクトの件か。元受けが何か言ってきたのかね」

「いいえ。そういう事にして総務の方で急いで航空券を取ってもらっただけです。秘書課の方にも、そういう臨時日程だから帰国は未定だと言っておきました。社長は羽田に着いたら、すぐにチケットをソウル行きに変更してください。もう連絡は入れてあります」

「そ、ソウルだって?」

「当然でしょ。ご自身の事でしょうが」

「ちっ……」

 小さく口を鳴らした階堂に竹内は続けた。

「社長のスキャンダルは我が社の株価にも影響します。マスコミが嗅ぎつけて押し寄せる前に、とりあえず向こうで身を隠してください。しばらく静養されるのもいいでしょう」

 車窓に顔を向けた階堂健次郎は小声で独り言ちた。

「静養などできるはずがない……」

 竹内は厚い鞄を自分の腿の上に載せると、中から取り出した航空券を階堂に渡した。

 階堂は無言のままそれを受け取ると、一度身震いしてから、頭を抱えてうずくまる。そして短く大きな奇声を発した。隣の竹内は冷めた目でそれを見つめていた。

 二人を乗せたタクシーは暗くなり始めた道路の上を静かに走っていった。

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