遊園地〈二〉



 日曜日は生憎の晴れだった。


 わたしとしては正直な話、頓挫してしまえばいいと思っていた。これ以上傷口に塩を塗るような行為をしたくなかったし、兄妹としての歪さを突き付けられるなんて更に嫌だ。もう既に狂気に陥り、それでも互いに全てを無かったことにして演技を続けるこの生活だけで惨めだというのに。

 卑屈なわたしを嘲笑うかのような快晴だ。




 折角なら車で行こうという話になり、連絡を受けた兄は土曜の夜に実家へ帰ってきた。使われていなかった兄の部屋は、けれどわたしが掃除をしていたから埃が舞うなんてことはなかった。それを不思議に思った兄が、わたしを見遣った。それに対してわたしは無言で頷いた。


「安心してよ、何もしてないから」


 そういう言葉を掛けなければならないほど歪んだ兄妹関係。

 そうなってしまっている現状を、両親は知らない。


 そのことに、少しだけ背徳感を覚えた。背骨の輪郭を沿うように這い上がってくるそれは、頸元辺りで滞留して霧散する。


「……気にしてねぇよ」


 兄はわたしから視線を逸らした。そこには後ろ暗い何かが隠されているようだった。




「アンタ、痩せたでしょ」


 久々に四人で夕食を摂っている時、母が兄にそう言った。父も無言で頷く。

 兄は顔を顰めた。


「なんで?」


 それは『なんで分かるのか』というニュアンスにも、『なんでそんなことを気にしているのか』という疑問にも解釈できる言葉選びだった。

 問われた母は「だって」と口を開いた。


「話は聞いてるもの。まともな食事摂ってなかったんでしょ? それに親として心配するのは当然のことよ」


「…………」


 兄は心底鬱陶しそうに目を伏せた。


 ……多分、ああして荒れているのは、精神的な自傷行為の結果なのだろう。

 もう会えないエリカさんの存在を、それでもずっと感じていたくて、あの人がいない惨めで空疎で無意味な現実を生きる自分を、心に従うまま傷つけている。生きる意味というものを見出せずにいるから、ああして荒んでいく。——もしくは、あの人の代わりなどいないと決めつけて(兄には実際そうかもしれない。私だって同じことを考えるから)すべてを諦めてしまおうと、無駄な人生を浪費しているのかも。


 兎にも角にも、兄の心にはまだ、エリカさんの死という現実が巣食っていた。

 それは、わたしたちを歪で甘美な間違いに留めているきっかけでもあった。


 あの人の死がなければ、わたしは兄を知ることができなかった。

 あの人の死がなければ、わたしたちは間違いに足を踏み入れられなかった。


 だから感謝もあった。嫉妬や憎悪だけじゃない。兄の幸せを願うという建前のために生まれた諦観を手放す、絶好の機会を与えてくれた。わたしの幸せの為だけに、わたしが行動するきっかけでもあった。だから。


「とやかく言うつもりはないけどね、」


 母の言葉が思考の海からわたしを引き揚げる。


「ちゃんと食事だけは摂りなさいよ。睡眠と同じくらい重要なんだから」


 母の小言に、兄はぶっきらぼうに「はいはい」と応える。


 あの様子だと、睡眠もまともにとっているか分からないけれど——今更それを母に言うつもりはない。言ったところで小言が増えるだけ。兄はそう簡単には変われない。


 もう、染みついてしまっているのだろう。エリカさんを悼んで生きる人生が。

 兄がこれから生き続けるということは、即ちあの人の陰を抱え続けるということなのだろう。

 わたしが兄への想いを捨てられずに生き続けているのと同じだ。




 移動中の車内では、会話らしい会話は無かった。

 それはもちろんわたしたち兄妹に限った話で、両親は世間話をずっとしていた。仕事がどうこう、同僚がどうこう、今度の休みがどうこう、と。


 遊園地まであと十五分くらいの頃合で、わたしは兄の放り出されていた右手に、自分の左手のひらを重ね、握った。

 兄はわたしを見なかった。ただ窓の向こうを見つめながら、握り返すこともしなかった。


「そういえば、」


 後悔と幸福がせめぎ合う心境のまま、その手のひらを握っていると、母がスマホを見ながら徐に声を掛けてきた。


「『お兄ちゃん』って呼び方に戻したのね」


 心臓が跳ねた。

 冷や汗が背中を流れる。

 心拍数が上昇する。


「何かあった?」


 言えるわけがないその秘密を隠すため、平然を装い口を開く。


「なんとなく」


 突然証言台に立たされたような心地のわたしとは違って、母はいかにも興味がなさそうに「ふーん」と鼻を鳴らした。


「何だか懐かしいわね」


「そうかな」


「そうよ。呼び方変えたのが中学の頃でしょ?」


 脳裏に焼き付いた、教室の光景が呼び起こされる。輪郭を失ってモザイク画のように歪んだその視界、同様にディテールを失った友達の顔、保健室の匂い、薄暗い自室で頭を抱え続けていたときの時計の秒針の音。


 吐き気がした。

 同時に、馬鹿らしいと思った。


 これ以上は訊かれたくなくて、適当に話を逸らした。

 気付けば遊園地の入園ゲートまで来ていた。


 結局最後まで、兄はわたしの手を握り返してはくれなかった。僅かに手汗の滲んだ左手を離すと、そこに薄ら寒い空気が入り込んでくる。

 それを握り潰すように力を入れてから、車の後部座席のドアを開けた。



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