遊園地〈一〉
「たまには家族で遊園地にでも行くか」
それは父の発言だった。
いつも通りの食卓、帰宅したばかりの父がスーツから着替えもせず箸を手に持った時のことだった。隣に座っていた母が呑気な声で「いいわねぇ」なんて相槌を打つ。
「…………」
私は驚愕を隠すことに精一杯で、まともなリアクションなど取れなかった。心臓が縮み上がる、荒縄で締め付けられるかのような感覚だけが現実味を帯びていた。
よりにもよって、遊園地。
しかも、両親が言うことだから、間違いなくあの遊園地だ。わたしが兄への恋心を自覚するきっかけとなってしまった、あの。
「なんで?」
一応訊いてみる。理由は予想出来ているけれど。
父が、器用に口と表情を歪ませる。
「母さんから聞いたんだよ。祐介のやつ、随分荒んでるらしいじゃないか」
どうなんだ? と訊き返される。
「まぁ、今はそれほどじゃないけど」
私が兄の様子を見に行っているのは、金曜日だけ。だからそれ以外の平日と休日に、どんな生活を送っているのかは想像するしかないけれど……レトルト食品やスーパーの弁当のゴミが少ないのは、確かなことだった。私が行かなければ、まともな食事など摂っていないのではないかと不安になってしまうのは事実だ。
「それにさ、エリカちゃんが亡くなった時、まともなフォローもしてやれなかったことが親として悔しいんだよ。今更遅いとは分かってるんだが、それでも何かしてやりたくてな」
本当に、今更だ。
——そう言いそうになって、慌てて唇を引き結ぶ。
両親は……いや、わたしも。兄が恋人を喪って絶望の底にいる時、どうしようもなく無力だった。ただ少し近い距離で、家族として黙って隣に座っていることくらいしかできなかった。慰めの言葉も、嘘っぱちの明るい言葉も、同情の言葉も、掛けてあげられなかった。
結果的に、兄は狂ってしまった。
もう二度と伝えることはできない恋情を、身に余る衝動を、抱え続けて壊れてしまった。ただ容姿と声が似ているというだけの赤の他人に心を砕かれた。そしてついに、わたしは兄と身体を重ねるにまで至ったのだ。
そういう面だけ見れば、両親には少し感謝してもいいかと、そんなことを危うく考えそうになった。
「祐介に聞いておいてくれ。今週の日曜日なんかにどうか、ってさ」
「うん……」
そう頷くしかなかった。
ともかくそういうわけで、翌日の金曜日、兄に事情を話した。
「遊園地、って……あの?」
わたしと同じことを考えたのか、兄が訊いてくる。
「何も言ってなかったけど……多分そう」
いかにも感慨深いと言いたげな貌で、兄は小さく頷く。
「いいじゃないか、懐かしくて」
そんなことを言う。わたしの気も知らないで。
……知らなくて当然か、とそこで気付く。まさか兄を好きになるきっかけがあの遊園地での出来事だなんて——というか、実の兄を好きになるということ自体、予想なんてできるものじゃない。兄は何も悪くなかった。悪いのは、ぜんぶわたし。
思わず俯きそうになったわたしを見て、兄は何かを言おうと口を開きかけた。ただその口は結局閉じられてしまった。兄がわたしに何を言おうとしていたのか、分からずじまいだ。
もしかしたら、前みたいに景気の悪い顔つきをしているわたしを心配して、声を掛けようとしてくれたのかもしれない。
そういう些細なやり取りさえ、わたしたちの間からは消え始めている。
少しずつ、少しずつ。兄妹としての『普通』が。
それはいいことなのだろうか。
——友達の言葉がふと頭を過ぎる。
『ほら、もういい歳だから。兄妹で仲良く、なんていうのもおかしいかなぁ、とか』
わたしたちの年齢を考えれば、こうして兄妹間でのやり取りが消えていくことは、むしろ自然なのではないか。
今まで通りの在り方を望んでいるわたしが、おかしいのではないか。
そうやって考えて、「あぁ、また『普通』という尺度に囚われているな」と気付く。
私たち兄妹は、もう普通から逸脱してしまった。
兄が必死に、わたしと距離を取って『普通』へ戻ろうとしているけれど、身体を重ねてしまった過去はもう覆せない。それも一度や二度ではないのだから、尚更。
「まぁ、分かったよ。俺も行く」
まるで初めは行く気が無かったとでもいうような返答。
それはきっと、わたしが行くから。
そこに、わたしがいるから。
「うん。楽しみにしてる」
笑顔を浮かべる。不安も、不満も、恐怖も、その裏に全部隠す。
本当に、私は貴方の隣に居ていいの?
本当に、まだ兄妹として接していいの?
そういう心の内を、丁寧に仕舞い隠す。
これ以上、兄を困らせたくはなかったから。
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