期待

@unoumaru

第1話 期待

 生きることに意味なんてない。だが人間はみな自身で何かしらの生きる理由を作り出して、自分を騙しながら生きている。

 18:36

 スマートフォンの上部にそう映っているのを見て、溜め息を漏らした。そして、私はのそりと起き上がった。今まで寝ころがっていた敷布団に身体の肉片がこびりついているような、不快な一体感を感じた。頭が重く、臓器がずんと沈み込んだような気分の悪さは、23℃のエアコンの冷風を朝から受け続けたためだろうか。はたまた、長い間同じ環境でいたために身体の恒常性を保つ機能を放棄してしまったのだろうか、などハリボテの論を立ててみるが、納得できる理由は得られなかった。

 床にはみ出した掛布団の中からテレビのリモコンを救出し、電源をつけた。そこには今の自分には耳障りな甲高い声を発するサザエさんの姿がぴかぴかと映し出されていた。今日は日曜日。世間では今頃「サザエさん症候群」に苦しめられているのかもしれないが、九月の持て余した夏休みを彷徨う私にとってそれは自分が休日の最中にいることを再確認する促進剤となり、私を正反対の方向で苦しめた。

 

 大学へ行き、授業を受ければ正しい人生を歩んでいると実感できるのに。

 

 私はベッドに座ったまま、床に散らばったシャツやお菓子の包装袋を踏まずに台所へ行けるルートを探した。部屋を散らかした者と、ゴミをよけて歩こうとする者が同じ自分なことに腹が立ち、結局、作り上げたルートを無視してどしどしと踏みながら台所へ向かった。左足の裏にビニールが張り付いたので、それをもう片方の足の指ではがした。いつも通り袋麺を茹でようかと思ったが、シンクに鍋や器を放置していたことを思い出して、洗い物からすることにした。食器ごとの油汚れの有無など効率のことは一切考えずに、1番小さいえんじ色の箸から洗い始めた。

 瞬間、シンクの端に放置されていた苺ジャムの空き瓶になにやら赤黒い塊のような影が見えた。ゴキブリだ。そう思った私は洗う手を止めて、その影を見つめた。

 影も同様に止まっていた。

 ゆっくりと手を動かした。

 影も同様に動き出した。

 ただ箸が反射してそう見えていただけだった。しかし、私の目は瓶の裏の赤い影から離れなかった。最初にゴキブリだと思ったがために、ただの箸の影だったと簡単に納得するのはなんだか不安というか、抵抗があるというか、本当にゴキブリが出てきてくれるとありがたいのに、と思った。どうせ実際現れたとしても、それがシンクと壁の小さな隙間に入るまで見守るか、じっとしていた場合息を吹きかけてでも、どこか見えないところまで逃げるのを手助けするだけで、退治するとか、家の外に逃すとか、解決にかかわる手段に結びつけることは出来ないと自分でも分かっているのに。

 箸についた洗剤を水で流し、次に小さかった皿を手に取った。無心で油汚れを擦っていると、手にぶつかって弾ける水の音の隙間に遠くから聞こえる登場人物達の賑やかな声が入り込んできて、徐々に目が覚めるようなすっきりした気分になってきた。

 厚底のフライパンで適当な野菜と一緒に茹でたラーメンをそのまま、スーパーで買い溜めたペットボトルの麦茶とともに部屋のテーブルに置いた。

 椅子に腰かけて、ふうっとひと息ついたところでようやく私はこの部屋の違和感に気がついた。見知らぬ男がいる。いつから居たのかは分からない。ごみが散乱した床にあぐらをかいて座り、馴染んでいる。両手を後ろについただらしない姿勢のままアニメに見入っているようだ。顔は見えないが、輪郭からはみ出た薄い髭の層と、首の付け根までもっさりと伸びた髪の毛で、しかし不思議なことに、ラーメンの香りのお陰なのか異臭は感じなかった。

「え?」

 私は声を漏らした。男は反応しない。

「...え?」

 もう一度声を漏らしてみた。男は反応しない。我ながら自分の行動にじれったさを感じ、思い切って声をかけてみることにした。

「え、だ、誰ですか、っていうか、何でここにいるんですか」

 私のありったけの勇気はこのたどたどしい言葉にしかならないのか、と自分のコミュニケーション能力の低さに落胆した。

「ん、知らない」

 男はまるで他人事のように振り向きもせず答えた。その声は低く、不自然に間延びしていた。

「いや、知らないとかじゃなくて、何であなたがここにいるんですかって言ってるんです」

今度は言葉が詰まらないように意識して話した。

「面倒臭いなぁ、夢とか幻を見てるんじゃないの?急に人が現れるなんて普通に考えてあり得ないでしょー」

 男は答えた。

「いや勝手に入ってきたあなたに言われても。あと僕幻とかそういうの信じないタイプなんですが」

「じゃあ、夢かどうか確認してみりゃいいじゃん。ほら、ほっぺとかつねってさ」

 男はテレビの方を向いたまま、額の横で親指と人差し指の腹をぴちぴちと打ちつけながら言った。

「嫌です、そんな如何にもな確認方法」

 会話は終わってしまった。男は何も話そうとしないから、自分が何か話したらいいのだろうけれど、もう一度ここにいる理由を尋ね直すのはかっこ悪いと感じてしまって切り出せなかった。沈黙が伸びれば伸びるほど、それを断ち切るハードルも上がっていく。越えられそうにないと悟った私は、男に音が聞こえるように大袈裟に麺を啜った。男は私の居心地の悪さを全く感じとっていない様子で、私はさらに腹が立った。しかし不思議なことに、この不法侵入者をなんとなく追い出そうという気にはならなかった。それはこの謎の男が私のつまらない人生に何らかの変革をもたらしてくれることを期待しているからだろう。

 ラーメンは減らなかった。それどころかスープを吸って膨張してしまっている。私は側にあるペットボトルのフタを開けて一口飲んだ。

「ふぅー、、」

 一度置いた箸を再び持つ気にはならなかった。視線をふと前へ向けると、アニメはエンディング曲が流れるところだった。

「お、きたきた」

 男は伸びをしながら言った。

『来週もまた見てくださいねー、じゃん、けん・・・』

 テレビを見ていると強制的にじゃんけんをする義務が与えられる。別に重大な何かを背負っているわけではないし、他の何事にも干渉し得ない、ただの純粋なじゃんけんだ。だが、出す手を選べない。何かを選択すること自体を恐れているのか、意味もないじゃんけんの手を考えるのが馬鹿らしくなっているのか、侵入者が現れたことによって気が動転しているのか分からないが、どの手を出せばよいのか決めることができない。何を出しても未来が大きく変わることはないのだろうけれど、なんとなくこのじゃんけんに負けることは避けたかった。それは単なる負けず嫌いというよりは、敗北への恐怖心から来ているものだと分かっていた。かろうじて決められそうだったグーが画面に映し出されたパーに敗れるところを想像してしまって、ならばチョキを出そうか、と考えてはみるものの、同様に相手がグーを出す可能性に恐れて決め切ることはできない。どうせ確率は一緒なのに自分が意味もなく悩んでいる事が恥ずかしくて、とりあえず体に任せて手を出してみよう、と考えていると

『ポン』

すでにじゃんけんは終わっていた。画面いっぱいにパーの手が映し出されている。

「うわ、負けたー」

男は拳を握りしめたまま、想像以上に悔しがっていた。

「いい大人がたかがじゃんけんでよくそんなに楽しめますね」

 出す手すら決められない自分を脳から振り払いながら、蔑むように言った。

「じゃんけんほど気楽なものはないからね。」

 男は延々と続くCMをぼんやりと眺めながら答えた。

「じゃんけんよりもずっと楽しいことはたくさんあると思いますよ、スポーツとか」

 私は卓球部で活動していた中学時代を想起しながら答えた。

「だってさ、じゃんけんって負けても何の劣等感もわかないじゃん、ほら、100パーセント運だから。スポーツとかでまけた時って、そのあと努力するかは置いておいて、『練習量が足りなかった』とか『勇気が出なかった』とか、せっかく楽しむためにやってるのに自分の劣ってる部分と向き合ってる時間が生まれちゃうでしょ、その時間意味ある?って思っちゃうんだよね」

 自論を自信満々に語る男になんだか腹が立ち、何か言い返してやろうと思ったが、うまく言葉が纏められない。

「その時間があるから上達するんですよ」

 結局当たり前のことを言ってしまった。

「うん、そうなんだけどね、なんというか、別に上手くなりたいわけじゃないんだよ。ただスポーツそのものを楽しみたいだけ。ほら、温泉に卓球台があったら誰でもやっちゃうでしょ?そういう時って、上手い自分に満足してるっていうのとはまた違った満足感を得てるはずなんだよ。俺もそういう楽しさを感じたいんだけど、いざやってみるとすぐ冷めちゃって。もう上手な自分に酔ってるだけでもいいやって練習してみたりもしたんだけど、やっぱり途中でなんか素に返るというか、これって自分が楽しむためにおもんない練習繰り返してんだよな?ってなって挫折しちゃうんだよね。もうどうやって楽しむか分かんなくなっちゃった。まぁ、こんなこと君に言ったって何の意味もないけどね」

 先ほどまでの会話と全くテイストが異なっていて少し驚いた。しかもその内容の中には少し理解できる部分もあった。この男はもしかすると私の人生に変革をもたらしてくれるかもしれない、と思った。

「気持ちが分かると言うと貴方は癪に障りそうなので言わないですが、私も最近似たような感情に陥っている気がします。私は今生きる理由を見つけられていません。何か新しいことを始めても『でもこれ自分の人生にとって得がないよな』って一回思うと、大半の娯楽に楽しみを感じられなくなっちゃうんです。でも、だからといって語学や資格の勉強も、『将来になんとなく意味がありそう』っていうだけの理由しか持てない私には続けるのは難しくて。それでずっと挫折してたら、なんだか失敗するたびに自分の生きる意味を消耗しているような感覚に襲われたんです。自分が大事にしていたものが消えていってしまうような。そういう時にSNSとかで何かに熱中している人を見かけると、妙に腹立たしい気分になっちゃうんですよ。何でそんなに楽しめたり頑張れたり出来るのって。あ、そう、特にイラつくのが、『使命』とか『〜するために生きてる』とかそういう言葉を本気で使う奴。生きることに目的なんてないのに一時的にハマってることをさも当然のようにその位置へ置くなよって思いません?笑」

くはぁ、と息を吐いた。言葉を発するための空気が気管支の部分で堰き止まっているような息苦しさがあった。一度大きく息を吸って、吐いた。

「生きることに目的なんてないはずなんですよ、だけど人はみんな何かしらの理由を作り出して、自分を騙して生きてる。私はそれができないんです。なにか恐ろしいものから目を逸らしているような気がして。なのに、誰よりも自分に向き合って生きてきたはずなのに、なんでこんなにやるせない気持ちなのかが、分かりません。」

 自分の中の泥に塗れた部分を外へ出して内容物を一つ一つ確認するように話した。

「なんか、人間って感じで面白いね」

 男は言った。

「どういう意味ですか?」

「君は自分の理想像があるみたいだね。食べたくもない安物のラーメンを食べたり、感覚で生きてる人に妙に喰いついたりさ。あらゆる行動の動機にしっかりと芯の通った論理的な理由をつけたいんでしょ?そうしたら人生は取り敢えず失敗の方向へは向かないと思って。よくSNSとかで見かけるインフルエンサーとか、スポーツ選手とか、経営者とか、研究者とか、君の中では成功者って括りがあるような彼らの中には、どこかしらの人間離れした部分があるんだよ、人間自体が持つ本能を抑え込める理性や論理が。君はそれを持つことに憧れてる。でも実際にはなれない。非人間的な存在に憧れて自分をそれに似せて作り上げようとするけれど、ラーメンは食べきれないし、一日中寝転がってスマホを触ってしまうし、TOEICの勉強も続けられない。そんな矛盾を抱えたまま生きてる様子が残念なことにいかにも人間って感じがするんだよ。」

 男はこちらを見ずに淡々と話した。その口調は冷たく、こちらを嘲笑っているようなものだった。期待していた答えと違うことにも抵抗感を覚えたが、元々求めている答えがあった自分の方が醜いと感じた。とにかく、このままでは終われなかった。

「じゃあ、どうすればいいんですか」

 藁にもすがる思いで男へ言った。

「知らない」

 それは男から自分への興味を感じられない返事だった。

「何でもいいので、教えてください」

「何?さっきからなんでそんなに聞いてくるの?俺なんかに何を期待してるの?俺が君の人生を大きく変えてくれるとでも思ってんの?夢見すぎだよそれ」

 図星だ。私は夢を見ているのだ。男が私の人生を変えてくれると、思っていた。

「ねぇ、俺のこと未来の自分とか考えるんでしょ。このままの人生を歩んだ世界線の未来の自分の姿が現在の自分のもとへ会いに来て強く叱ってくれる、みたいな。幻とか信じないって言ってたのに、ほんと面白いね。まぁ、そう勝手に考えるってことは今の生活を変えたくてたまらないんだろうね。だけど諦めた方がいいよ。夢見る様なキラキラした生活、君には送れない。ありもしない自分の可能性に期待し続けて、毎日変われなかった事に落胆するくらいなら、さっさと諦めて今の生活に納得した方がいいんだよ」




 いつの間にか座ったまま眠りについていたようだ。ふとスマホを開くと、時刻は2時を回っていた。あの男はいなかった。テレビはついたままで、男がここにいた形跡は一つも見つけることは出来なかった。横には千切れた麺の欠片がスープの底に沈んだフライパンがあるけれど、完食した時の様子は思い出せなかった。興味のないニュースを見つめながら呆然としていると、大学で唯一仲良くしている友達から久しぶりにLINEが来た。そこには文章とともに短い動画が貼り付けられていた。開いてみるとそれは60代ほどの男性が夜の公園で無音の中踊るというもので、ぎこちないステップと真剣な眼差しが相まってなんとも滑稽な様子だった。

『この動画笑い止まらんからみて』


『深夜テンションなだけやろ笑』


『あれ、何で起きてるん』


『いやちょうどさっきまで寝てた』


『あーね』

 どうやら、24時間営業の飲食店の深夜バイト中で、客が少なく暇しているらしい。


 脳裏に一つの考えが浮かんだ。その考えは途端に私の身体に爆発的なエネルギーを生み出し、何かに導かれるように私はズボンを履き替え、脱ぎっぱなしになっていた服を羽織り、財布をポケットに突っ込んで外へ出た。深夜2時の景色は思ったよりも明るかった。夏休みとはいえ9月なので、月光によって冷やされた空気はとても澄んでいて、今の自分にとって恰好の夜だと感じた。玄関の鍵を閉めて、足早に駐輪場へと向かった。自転車に乗ってからは気温の低さがより一層鋭く感じられた。しかし、前方からやってくる冷たい風は私の上半身に当たった途端砕け、身体の内部まで到達することはなかった。


 この時間に私が現れたら友人はどんな顔をするだろうか。


 頭に浮かんだのはただそれだけだった。その考えのために私は今自転車を漕いでいる。くだらない行き先に向かって全力で走ることができている自分が嬉しかった。

 特に私の中の大きなものが変化したというわけではない。おそらくこれからも、今までのように一日中だらしなく過ごすことが頻繁にあるだろう。しかし、その生活を受け入れ、消化する生き方を見つけられたのだと思う。

 

 私は足にさらに力を込めた。

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