第21話 さよならの言葉
家に戻り、顔を洗い鏡を見ると泣き腫らした目をした自分がいた。
シャワーを浴びて気持ちを落ち着かせようとしたが、頭をよぎるのは恭吾の部屋で過ごした時間と温もりと彼の愛おしく切なそうな顔で見つめる瞳だった。
(……恭吾くん。)
実家に行くと子どもたちが走って出迎えてくれた。その笑顔を見て泣きそうになる。
(ふらついてしまったけれど私の判断は間違っていない。これからはこの子たちとの幸せだけを考えていく……。)
心からそう思った。
しかし常にその気持ちではいられなかった。
下の子はまだ保育園。着替えも食事も補助が必要な日もある。”子どものため”と育児や家事に励んでも、何をしてもイヤイヤと大泣きされることもある。
そんな時、ふと思うのであった。
(もしあの時、自分以外に守るべきものがなかったら……。私はあの手に、胸に、迷いなく飛び込んでいただろう。のちに後悔する結果となっても一人だったら飛び込んでいた。もしあの時、恭吾の手を握り返していたら私はそれ以上のことをしていた。心の奥底で叫んでいる声や感情に従い身体も心も委ね世間のいう”不倫関係”になっていた。)
もし恭吾と一緒に居られたら……。
『僕ではダメか』という問いかけに返事はしなかったが七海は朝の出来事を思い返していた。起きて窓の隙間から照らす陽の光を感じながら、恭吾が起きるのを待っていた。
子どもとの生活の中で失いかけていた"穏やかな朝の時間"であった。
悲しいときは笑わせると言い、優しく抱きしめてくれる恭吾。こんな穏やかな日々が続けばいいのに……そして、恭吾となら出来るかもしれない。心の奥底でそう感じた。
あの腕を、あの手を、指を、握り返したかった、離したくなかった。
しかしそうしなかったのは、「私は母親だから……」そう頭によぎったからだった。
そんな幸せを振り払って手にしたのが、今のイヤイヤのオンパレードで心の余裕をなくし怒る毎日だった。
「イヤ!イヤイヤ!ママ大っ嫌い!!!イヤーーーー!!」
子どもの声が部屋中に響き渡る。
(私が守りたかったのは、こんな怒ってばかりの日常ではない……。)
「イヤイヤ言われてばかりでママもイヤだよぉぉぉ」
七海は初めて子どもたちの前で声を出して泣いた。子どもたちは七海の涙を見て驚いていてキョトンとしている。
そして、下を向いてしょんぼりとし始めた。
「ごめんね、ごめんね……。イヤだったんだね。どうしたかったのかな?」
子どものイヤイヤに心が折れたが本当の理由は恭吾のことを思ったからで、これでは八つ当たりだと思い、七海は一呼吸してからいつもの自分に戻るよう努めた。
(子どもたちに当たってしまうなんて……)
子どもたちは可愛い。機嫌がいいときに抱き着いてくる笑顔も、予想外の反応で笑わせてくれることも、子どもがいなければ起きなかった笑いも生まれている。
しかし今の七海には、その幸せと引き換えに自分自身の感情や好きなこと、やりたいことに蓋をしているように感じた。
全ての家庭や母親がそんな思いをしているわけではないだろう。でも、春樹の妻として子どもたちの母親としての幸せを手に入れることは、自分と言う存在を消していくことのように思えた。
春樹がいなくなり、幸せだったはずの日常が少し色褪せて見える。
子どもたちは洗面所で歯を磨いている。鏡に映った顔は笑っているが疲れが滲み出ていた。目の下のクマは目立ち、気を抜くと死んだような魚の目をしている。七海は、鏡に映る自分の顔に慄いた。
(私、こんな顔(ひょうじょう)でいつもいるの???)
そんな時、楽しそうに話をする恭吾の笑顔を思い出す。1ミリの曇りもなく、透明なガラスが光を反射し虹色に輝かせるようなキラキラとした恭吾の笑顔を思い出し胸が切なくなる。彼の隣にいたら、自分も恭吾のような笑顔を取り戻すかもしれない。そんな錯覚さえしてしまいそうになる。
(私は母親だから……)
七海はいつもの呪文を自分にかける。
(私は母親だから……心の中からこれからも消えないかもしれないけれど……でも、私は母として生きる。だから……さよなら)
洗面所の電気を消し、子どもたちと手を繋ぎ寝室に向かった。
(両腕を広げ子どもたちの頭を撫でて眠りにつく。これが私の幸せで生活だ!!)
七海は、以前の日常へと戻ることを決意した。
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