最終章:降りしきる雪の中で。
第一幕 シロクの願い
雪の降る中を、ほとんど何の荷物も持たないで朧介は進む。
本所から遠く離れた青之森――そこには最後の日、シヅルと別れた聖霊山がある。
あの夜、シロクは朧介に言った。シヅルは聖霊山の麓に居ると。
耳を疑ったのは間違いない。嘘だと思った。なぜならばあの時、シヅルは確かに自分の命と引き換えに朧介を生かして消えた……後に残されたのは、朧介が買ってやった簪。ただそれだけだったからだ。
「……っはぁ、」
慣れない雪に、足が取られて息が上がる。
特急を乗り継ぎ、何日もかけてようやく麓に辿り着いた時、辺りはもう夕方だった。早くしなければ北の国は本所よりも幾分か早く夜を呼んでしまう。
着込んだ焦げ茶色のコートの隙間から寒波が滑り込んできて、肌を刺す様に冷やしていく。吐く息は真っ白になり、足元の雪は奥にいけば行くほど深くなっていった。
――命を、繋ぎ止めたんだ。
シロクの声が、蘇ってくる。
――今のシヅルには免妖だった頃のような力はない。それこそ半妖よりももっと弱い……言ってしまえば、人間とほぼ同じような存在だ。
自分が吐き出した息の白さで、前が霞む。
――ゆえに、その魂が安定するまでシヅルはあの山の麓から出られない……出られなかったんだ。存在が確立するまでは消えてしまう可能性だってあった。だから、今日までお前に言えなかった……力がなくなっても、彼女はシヅルである事実は間違いない。
ザクザクと雪を踏みしめる音だけが、銀世界に響き渡る。寒さが鼻の奥を凍てつかせて、粘膜からつんとした痛みが走る。思わず涙目になったせいで滲んだ視界を、もう一度鮮明にするために、コートの袖で目を力強く拭った。
曇天の空から降り続ける雪は、音一つさせない。まるでこの世界に自分だけが放り投げられたかのように、心臓の鼓動だけが耳に響いていた。
シヅルは元々弱い妖怪だったのに、朧介を助けるために免妖になったんだと、あの夜シロクは朧介に言った。
確かに死に別れる直前、あの夢の中で出会ったシヅルも同じようなことを言っていた。神社でご神体を持ち出した朧介に恩を返したかったからと……。
「恩なんて……返さなくて、よかったんだ……」
むしろ、あの時の朧介の行動こそが返しのようなものだったと、今になって思う。幼少期にどんなに独りでも寂しくなかったのは、あの神社とそこに住まう見えない存在があったからだ。だからこそ、ご神体を守り抜き、少しでも恩を返したかった。その思いが無意識に体を突き動かした結果だったのだ。
それが、まさかその先何十年にも及ぶ因果の始まりになるとは……露程にも思わず。
「……はぁ、っはぁ」
大きく息を吸っても、酸素は思ったように肺に届いてくれない。いっそ煙草に火をつけて煙を吸い込んだ方が上手く息が吸える気さえするが、この湿った外気がその火を打ち消してしまいそうだった。
一度足を止めて、いつの間にか寝てしまっていた襟を立て直しながらコートを前に寄せる。薄暗くなりつつ森の中を、かじかんだ足を引きずってただやみくもに歩き続ける。
凍てつく手を擦り合わせても、そこは微かな温もりを生むだけだった。
――なぁ、朧介。
静かな声が、雪のように降る。
――シヅルを、幸せにしてやってくれるか。
「――……っ」
例え幻でもいい、もう一度会いたい。
ただその思いだけがはやる鼓動を更に加速させていく。靴の中が雪にまみれようが、肌の感覚がなくなろうが、足を止めるという選択肢は微塵も浮かばなかった。
会いたい、シヅルに会いたい。
もしも本当に生きているのならば、もう一度会いたい。
無我夢中で一面の白を掻き分けてゆく――。
すると、やがて目の前に小さな湖が現れた。
雪の上に空いた穴のようなその湖は、まるで鏡のように空を映し出す。赤が徐々に薄くなり、濃く深い紺色に変わりつつある。
それを水面で確認した後、つられるようにして頭上を見上げると、逢魔が時の空にはうっすらと星が浮かび始めていた。
赤と紺、混ざり合った中に瞬く星に思わず息を吐き、再び前に向き直った。
一瞬、息が止まるかと思った。
湖のほとり……そこで誰かがしゃがみ込んでいるのが目に入ったからだ。
「…………」
ゆっくりと、確実にその姿を認識するために朧介は一歩、また一歩と前に進む。シヅルではないかもしれないと思う反面、鼓動は速くなり耳のそばでどくどくと脈打つ。さながら心は、既に答えを知っていると言わんばかりに。
横向きにしゃがみ込んだその姿は、見覚えのある黒い綺麗な黒髪を持ち、雪のように白く美しい肌をしていた。恰好こそあの頃のように着物に袴という出で立ちではなく、幾分か分厚い生地で繕われた帯付きの上に、暖かそうな半纏を着ている。そして……結わずに下ろされている黒髪の間から、金色に輝く細い耳飾りが綺麗な音をさせた。
「シヅル……」
その声は小さくも、確かに森に木霊した。
ピクリと反応を示した少女がこちらを向く。綺麗な宝石のような瞳が、朧介を捉えた瞬間投擲された水面のように揺らいだ。眉が寄って、喘ぐように口が動く。
「朧介、殿……っ」
瞬間――朧介は走り出していた。
雪に足を取られようが、前につんのめろうが構いやしない。ただ、ただ、目の前にいるシヅルのもとに一瞬でも早く辿り着きたい。その一心で足を動かした。
彼女が手を広げながら立ち上がる。
泣き出しそうな顔が、すぐそこに迫った。
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