第四幕 血だまりの中

「朧介殿‼」

 目の前で自らの胸を突き刺した朧介が地面に崩れ落ちていく様が、まるでコマ送りのようになってシヅルの目に映った。一度までもなく二度も心臓を貫いたせいで、朧介の傷口から溢れた赤が辺り一帯じわじわと染め上げる。

 その朧介の手前で、魔羅螻蛄が気がふれたように苦しみのた打ち回っていた。核の宿主である朧介が心臓を潰したせいで、魔羅螻蛄自身の核も砕かれたのだろう。シヅルを縛り付けていた体毛が苦しむように暴れ、制御できずに体をいとも簡単に開放した。

 無駄にしてはいけない、そう思った。

 これは彼が命を掛けて作った好機だと、そう理解した瞬間にはもうシヅルの体は自然に動いていた。

 耳飾りから錫杖を取り出し、地面に突き立てる。一瞬のうちにシヅル達を取り囲むかのように大きな封印の円陣が出現して、青白い光を放ち始めた。

「シヅルよせ‼」

 その時、茂みに吹っ飛ばされたはずのシロクが、全身ズタボロになってシヅルの前に飛び出した。肩で息をしたまま、シヅルの錫杖を取り上げようとして叫ぶ。

「いくら聖霊山とはいえ、最深部以外で魔羅螻蛄を封印するのは命に係わる! 負荷が緩和されないから魂を半分失うことになる‼」

「それでも構わない‼」

 シヅルの大きな声に、一瞬シロクがぐっと怯む。その隙にシヅルは錫杖を奪い返し、再び地面に突き立てた。

 なおも食い下がろうとするシロクの手をシヅルは振り払う。シヅル一人に負担させまいとするシロクの行動はわかっていたから、あえて突き放し、自分だけが封印出来るように結界を展開する。

 燃え盛る炎に囲まれて、二人は見つめ合う。シヅルの瞳に迷いは一片もなかった。

「……朧介殿の、思いを無駄に出来ない」

 シャン、と一度錫杖を打ち鳴らせば、円陣がカッと眩い光を放つ。シロクが止めようにも、もうその術は止まらない。シヅルが右手を顔の前に掲げ、片手で印を結ぶように指を動かした。


 途端、それまで暴れまわっていた魔羅螻蛄がピタリと静止し、動けなくなる。それでもなお無理やり動こうとする魔羅螻蛄が、ギギギと錆びた人形のようにぎこちない動きでシヅル達を睨んだ。真っ赤に燃え上がる鋭い瞳が、シヅル達の視線とぶつかる。

 魔羅螻蛄の目を見たまま、シヅルは自らの右手の親指を噛みちぎり、そこから溢れた血を円陣へと滴らせた。


「……厄妖よ、地へと没落せよ。我が血を持ってここへ眠れ――」


 瞬間、今までよりも強い光が辺り一帯を飲み込んだ。


「――れい封還ほうかん!」


 圧倒的な力の奔流がほとばしり、光の中で耳をつんざくような断末魔が響き渡った。それはやがて汽笛のように細く遠くなり、やがて聞こえなくなる。


 光が弱まり、円陣がフッと消えた。魔羅螻蛄がいたはずの場所には何もなく、近くに血だまりを作ったまま朧介が倒れているだけだった。

 魔羅螻蛄が生み出した炎は勢いこそ弱まるが、鎮火までは至らない。じわじわと、辺り一帯の命を蝕んでいく。パチパチと、枝の焼き弾ける音だけが木霊した。

「……っはぁ、は……っぁ」

 シヅルは錫杖を取り落としてその場に座り込んだ。すぐにシロクが駆け寄って支えてくれるが、今にも意識を失いそうなほどにドッと疲れが押し寄せてくる。

「馬鹿野郎、シヅル……なんで一人で……」

 耳元でそう呟くシロクの声は苦しそうに震えていた。体に触れている手も震えていて、シヅルの存在を確かめるように何度も体を手繰り寄せる。

「すまない……」か細い声だけが響く。

「馬鹿……」

「……すまない、シロク……」

「…………っ」

「すまない……朧介、殿……っ」

 シロクに支えられたまま、シヅルは数メートル先でぐったりと倒れている朧介を見た。

 風に乗って、濃くむせ返るような鉄の臭いが流れてくる。

「……シロク、お願い」

 離して、とシヅルがゆっくりその腕を押し返す。シロクは一瞬目を見開いたが、すぐに苦しそうに眉間に皺を寄せた。唇を噛み、何かを必死で我慢するようにぐっと力を込める。

「……わかったよ」

 震える手で、シヅルの体を精一杯抱きしめてから、ゆっくりと離す。

「お前にとって雪田朧介は……特別だもんな」

 手を離せば、シヅルはゆっくりと一歩一歩確かめるように朧介の元へと足を動かす。

 やっとの思いで辿り着けば、彼はぐったりとしたまま、真っ赤な血だまりの中に倒れていた。濃い鉄の臭いが充満し、彼の命が流れ出していることを表している。

「朧介殿……」


 名を呼んでも、彼は返事をしない。

 だが触れた手には、まだ最後の体温が……微かに残っていた。

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