第三幕 人は、生きてきたようにしか

 そんな最中。

 上機嫌に笑う魔羅螻蛄の足元……少し後方で朧介はその様子をただ眺めていた。地面に落ちた体はいまだに力が戻らず、少し体を動かす程度が精一杯だった。だがそうして自分が地面に転がっているうちにも、周辺は燃やされ、シヅル達は窮地に陥ってしまっている。

 自分が、枷になっている。それはどんなに頭がしっかり回らない状況でも理解できた。自分さえこの場に居なければ……そもそもシヅル達と自分が行動を共にしていなければ、知り合っていなければ、シヅルは迷うことなく雪田朧介という宿主を殺していただろうか。

(……でも、優しいもんな)

 彼女のことを思い浮かべる。きっと例え、今この瞬間が初対面だったとしても彼女は雪田朧介という人間をどうにか助けようとしただろう。あの宿でシロクが諦めろと言った時でさえ、朧介を助けることを諦めなかった彼女だ。

(そういう面では……やっぱりシロクの方が先輩だよな。割り切ってる)

 シロクの感覚が、正解なのだ。

 雪田朧介という人間は、本当は死ぬはずだった命だ。危険を冒してまで助けるという選択肢は、本来無い。

 頭の中で、蘇ってきた数多の声が反響する。

 

『死ね、死ね、お前が死ねば、村は、日本は、救われる、助かる』

『死ね、何で生きて帰ってきた、お前が死ななかったから』

『死ね、死んでくれ、呪われた命、どうせ穢れている』

『死ね、死んでしまえ、汚れた手、穢れた体、生きている価値はない』

『死ね、死ね、死ね‼ お前なんか死んでしまえ――』


 ――幸せになってほしい。


「――……!」

 それは、ひょっとすると幻だったのかもしれない。だが、幾重にも頭をめぐる呪いの言葉たちの中で、確かにその言葉が蘇った。

 母を失ってから、誰からも、一度たりとも言われたことのない祈りの言葉――。

 真っ黒く淀み切った心と感情に、一滴の光を落とした。

「…………っ」

 震える手で、地面に転がった短刀に手を伸ばす。朧介に背を向け、シヅルに執着している魔羅螻蛄には気がつかれていない。抜き身の短刀の柄を掴んで、ゆっくりと上体を起こした。立ち上がるほどの力は残っていないが、どうにか重たい体を鞭打ってその場で膝立ちになる。深く息を吸って、その切っ先を自らの胸に向け、前を見た――。


 ――刹那。

 締め上げられているシヅルが、朧介の行動に気がつき、目を見開いた。何かを叫ぼうと彼女が大きく口を開けるのが見える。

 心臓の音が耳のすぐそばで聞こえ、他の音が一切無くなったような錯覚に陥る。何も聞こえないのは好都合だった。彼女の叫び声も何もかも、耳にしなくて済むと思えば、幾分か気が楽だった。

 朧介はふっと頬を緩めると、次の瞬間、勢いをつけて自らの心臓にその刃を突き刺した。

 ズンッという鈍い衝撃と鋭い痛みが全身を駆け巡って、思わず前に体を折りそうになる。それとほぼ同時に、それまでシヅルを締め上げていた魔羅螻蛄が「ぎゃぁああ‼」と頭を抱えて苦しみだした。

「おのれ貴様‼ 何のつもりだぁああ‼」

 シヅルに巻き付いていた体毛を解き、苦しんだまま背後の朧介を見遣る。核を隠している心臓を突き刺したことで、本体である魔羅螻蛄にもダメージが伝わったのか、大きな体をぶるぶると震わせて体毛をぐしゃぐしゃと振り乱す。


「お前には……きっとわからねぇだろうから……教えてやる」


 心臓に突き刺した刃の冷たい感覚だけが身を伝わってくる。柄を持つ手は震え、額には脂汗が滲み、痛みで痙攣した気管が鳴き始めた。

 ヒューヒューと弱っていく自らの息を聞きながら、もう一度しっかりと柄を握る。


「俺の……復讐は、恨みはもう……終わってんだ。けどな……結局……人は生きてきたようにしか、死ねないんだよ……ッ」


 ずぶりと心臓から抜いたその刃を、朧介はもう一度自らの心臓へ勢いよく突き刺した。

「ぎゃぁあぁああ‼ やめろぉおおおお‼」

 一度目とは違い、その痛みは朧介の思考を全て奪っていく。目の前で魔羅螻蛄が叫んでのた打ち回っているのがわかったが、もはや何も聞こえない。

 地面に崩れ落ちれば、ぼやける視界の先で、開放されたシヅルがこちらに駆け寄ろうとするのが目に入ったが、その輪郭はすぐに溶けてわからなくなる。

 地面に触れる朧介の体を、自らの左胸から溢れ出した血が生温く浸していく。赤が地面に広がるたびに、体から熱が抜けていき、息も徐々に吸えなくなっていく。

 生の匂いは薄くなるが、死の気配はすぐそこに来ていた。だが核が宿った魂が死滅してしまえば、本体である魔羅螻蛄も存続することが危ういのは間違いない。

 これでよかったのだ。死ぬべき人間が死んで、生きるべき命が救われる。その確信を胸に薄く微笑めば、気管を通ってせり上がった血でむせ返った。口から血を吐こうが、地面を濡らす赤の量はもはや変わらない。指先から徐々に冷えていく感覚に、ああ寒いなと……朧介はまるで他人事のように思った。

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