復讐の数だけ花束を【BL】

海野幻創

第一章

第1話 川に落ちたこども

 フレデリック・デュシャンは、行くあてもなく歩いていた。両親と早くに死別してから、様々な農地を渡り歩いて食いつないでいる。かきいれ時だけの仮雇いにしか過ぎない待遇ばかりで、農奴仲間と親しくなってもすぐに別れがくる。いつからか、他人と仲を深めようともしなくなり、孤独の日々を過ごしていた。

 今も、昨夕に数ヶ月滞在していた農地を解雇され、次に雇ってもらえる農地を探し歩いているところだった。

 

 もう日が傾き始めている。今日中に農地を見つけることは難しいかもしれない。

 激流にかかる橋を渡り終え、右手に沈みゆく太陽を見ながらフレデリックは思った。

 この道を進めば王都デイジャーへと至る。とりあえず一宿一飯を求めるには街がいいだろうと考え、このまま進むことを決めた。

 

「こどもが川に落ちたぞ」

 しかしそのとき聞こえた声にまさかと思い、足を止めて振り返った。直後に、水の中に何かが落ちた音と誰かの叫び声がした。フレデリックはそのこどもらしき姿を捉えたと同時に反射的に駆け出し、目指すべき場所を見定めたが早いか、躊躇なく橋の欄干から飛び降りた。


 川に入った途端にあっという間に流されてしまう。こどもは男の子だった。はるか先を流れていく。数秒の誤差は埋められないほどの距離を生んでいて、とてもではないが追いつけそうもない。

 それは飛び込む前からわかっていた。激流に落ちたらひとたまりもないのは当然なのだから。

 しかし、恐れもためらいも一切なかった。

 なんとしてでもあの少年を助けなければならない。

 そのこと以外に、フレデリックの頭にはなかったからだ。 


 流されるスピード以上に進もうと、水をかき分けて泳ぎ進む。すると、流れゆく少年がピタリと止まった。行く手に川を塞ぐ形で大木が倒れていて、幸いにもその枝に引っかかってくれたようだ。


 溺れかかりながらもなんとか追いつき、少年を抱きかかえた。

 ホッと安堵したものの、すぐに気を取り直し、流されてしまわないように反対の手で大木にしがみつく。

 ごうごうとがなりたてている激流は、今にも二人を大木から引き離そうとまとわりついてくる。

 フレデリックは周りを見渡した。

 川は3メートルほどの高さの崖の中央を流れている。助かるためにはその崖を登るしかない。

 

「こっちだ!」

 どこからか声がした。

 声の主をきょろきょろと探す。

「これを」

 その声は崖の上からだったようで、水しぶきの向こうに、茶色の紐のようなものが投げ下ろされたのが見えた。どうやら縄のようだ。誰かが助けようとしてくれているらしい。

 バランスを取りながら大木を移動し、慎重に縄の近くへ向かう。

 なんとか目の前にまで来たが、さてどうしようと考える。縄を掴むには、大木にしがみついている手を切り替えなければならない。少年は意識を失っているようなので、抱き上げて縄を掴ませることはできないからだ。

 失敗したら二人とも流されてしまう。そうすれば助かる見込みはないだろう。しかし、やってみなければ助かる道もない。


 フレデリックは覚悟を決め、大木から手を離した。

 

「よし!」

「よくやった!」

 三人の屈強な男の安堵した顔が見えた。

 なんとか成功したようだ。

 しかしフレデリックはホッとするどころではなく、少年に人工呼吸と心臓マッサージをするべく取りかかった。

「おいおい、大丈夫か?」

 男たちは驚きの声をあげた。

 確かに自身の呼吸もままならず、息は絶え絶えだ。しかし、なによりもまず少年の命だ。

 

 肺に空気を送り込み、呼吸を確認する。数回ほど繰り返したのちに、少年は息とともに水を吐き出し、規則的に呼吸を始めた。

「アレクサンドル様!」「よかった!」「アレクサンドル!」

 歓声のような声が耳に届く。

 心臓マッサージまでは必要なさそうだ。フレデリックはようやく安堵して、少年の横で大の字に寝転んだ。


「ありがとうございます」

 今度は自分の呼吸を整えていると、頭上から声が聞こえた。

 しかし、目を開けても声の主の姿は見えない。後光のように太陽を背にしているため影になっている。

「ムッシューは息子の命の恩人です」

 声の主は隣に膝をついたらしく、ゆっくりとその姿が見えてきた。


 フレデリックは思わず息を呑む。

 あまりにも美しい笑みが見え、ここは夢の世界なのかと錯覚した。

 年のころは22のフレデリックよりもやや上か。垂れた目を細め、形の良い唇を穏やかに上げている。ほっそりとした首筋になんとも見事な銀色の髪がかかり、背中の中央まであろうかという長さのそれをさらさらと光に反射させている。確かに助け出した少年も同じく、世にも珍しいこの髪色をしていた。

 その少年が生死の境をさまよっているこの状況で、不謹慎ながらも思わず見惚れてしまった。 

 

「なんとお礼を言えばいいか……」

 形の良い唇が動いた。

「いえ、当然のことをしたまでです」

 フレデリックはハッとして視線を逸らし、地面に手をついて半身を起こした。


「お父様?」

 少年の声がした。意識が戻ったらしい。見ると、フレデリックのように身体を起こしている。少しふらついて見えるが、自分の力で起き上がったようだ。

「アレクサンドル!」

 彼女は少年に駆け寄った。少年はアレクサンドルという名前らしい。従者が白い布をアレクサンドルの背中からかけてやり、彼女はその布ごと背中をさすり始めた。

「こちらの青年がおまえを助け出してくださったんだ」

「本当ですか? それは……ありがとうございます」

 手で指し示され、アレクサンドルはこちらを振り向いた。銀色の髪と、青く透き通った目。青ざめてはいるが、顔つきは穏やかで、かすかに微笑している。

 フレデリックはうつむいた。視界がぼやけてしまって、目頭も鼻の奥も熱くなる。

 

「苦しいところはないか?」

 息子を案じている声だ。

「はい。少し苦しいですが……それよりも寒いです」

「そうだな。すぐに帰ろう」

「はい」

「立てるか?」

 親子の会話を耳にしながら、フレデリックは未だ顔をあげられずにいた。流れ出る涙を見られたくなかったからだが、もしも今一度アレクサンドルを見てしまったら、衝動を抑える自信がなかったからでもあった。

「立てますか?」

 すぐ目の前で声がして、反射的に顔をあげた。

 彼女は美しい顔を心配げに曇らせている。そしてすぐにハッとした顔になった。

「大丈夫ですか?」

 驚いたのだろう。大の大人が頬に何筋も涙の跡をつけていたら無理はない。

「はい」

 フレデリックは顔をそむけた。同時に流れ行く涙を手で拭う。しかし次から次へと溢れ出て止まらない。

「どれほどの礼を尽くしても足りないとは存じますが、自邸へいらして食事をともにしていただけないでしょうか?」

「いえ」

 顔をそむけたまま答えた。これ以上ここにいてはだめだと思い、立ち上がろうとして膝をたてた。

「是非お願い申し上げます」 

「お願いします」

 親の次にアレクサンドルの声もした。

 思わず顔を向け、フレデリックはまたも見てしまった。

 その少年の姿を。少年の笑顔を。

 もうだめだ。フレデリックは少年の求めにこれ以上抗えないと思った。断ることなどできるはずがない。

「はい。ありがとうございます」

 フレデリックはそう答えた。そして堪えきれず、アレクサンドルを抱きしめてしまった。もう、我慢できなかった。


「助けてくださって、ありがとうございました」

 アレクサンドルは驚いたようだが、嬉しげな声で言った。喋り方はまるで大人のように理性的で、見た目にそぐわないほどだ。

 身体はこんなにも小さく、細い。まだ少年とも言いがたい、幼児と少年の間くらいの年齢だろう。

 そう。顔はそっくりでも、喋り方も声も違う。年ももう少し大きい。

 この子は別人だ。

「申し訳ありません」

 フレデリックは自身の欲求に抗って、なんとか少年から身体を離した。


「いいえ、構いません。邸へ行って休みましょう」

 そう言って、アレクサンドルは花が開いたような笑みになった。

 喋り方も声も、髪と目の色も違う。しかし、笑顔はそっくりだ。表情も顔立ちも瓜二つだ。


 川に落ち、溺れ流されていくアレクサンドルの姿を目で捉えたとき、見知らぬ記憶が頭の中にドッと押し寄せた。

 それは、農奴である今の半生とはまるで別の人生の記憶だった。

 その人生では何にも代え難いほど愛した存在がいて、その存在が自分の知らぬところで命を落としてしまっていたことを知った。いや、思い出した。

 命を懸けても惜しくない存在、かつての息子悠誠ゆうせいのことを。

 アレクサンドルはその悠誠に瓜二つだったのだ。

 

 記憶を取り戻し、同時に悠誠を失った悲しみも蘇った。

 死に瀕したアレクサンドルを前にして、命を顧みずに飛び込んだのは、再び死なせてはならないとの強い思いからだった。

 そして無事に救い出すことができた。そればかりか、二度と見ることが叶わないと思っていたその笑顔を、もう一度見ることができた。

 アレクサンドルは悠誠ではない。しかし、それはまさしく悠誠の笑顔だった。

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