海に沈むジグラート41
七海ポルカ
第1話
ここまで描き続けてきたネーリは最近、筆のスピードを緩めている。
もうほとんど完成間近だ。でもまだ遠い気もする。遠くしたいのかもしれない。
「変だよね。こんな気持ち初めてだ。スペイン艦隊の絵は、元々最後に雲の陰影をつけようと思ってたけど。なんて言うのかな……この絵を完成させなきゃいけないのが寂しい気がする。ここでこうやって、ずっと描いてるのが幸せだったから」
フェリックスにもたれかかって寝そべりながら、碧の絵を見上げる。
「この絵が完成したら、まるでここから出て行かなきゃいけない気がするんだ。冬でもあったかくて、フレディもいてくれて、竜騎兵団のみんなも親切で、ごはんの心配もしなくて良くて、好きな時に描けて好きな時に温かい所で眠れる。君もいつも側にいてくれるしね」
フェリックスの方を見上げると、クゥ、と小さい声で鳴いた。
かわいいなあ。
「この絵が描き終わったら、幸せな今の時間が無くなっちゃう気がする……」
ネーリはじっと、森の情景を見上げる。
フェルディナントはきっと絵が完成してもここにいていいと言ってくれるのが分かるのに、こんな気持ちになるなんて変だった。不思議である。
「気のせいだよね?」
もう一度振り返ってフェリックスに語り掛けると、また「クゥ」と優しい声が返った。
ネーリは微笑む。そうだよね。
「描きあげるよ。ちゃんと。
そしてまた新しい絵を描くんだ。
たくさん」
描きたいものがたくさん溢れてる。
とても幸せなことだ。
「ネーリ様、アデライード・ラティヌーというご令嬢が迎えにいらっしゃっています」
騎士が呼びに来てくれた。
「新しい絵の打合せなんです。ありがとう」
包まっていた毛布から抜け出して、ネーリは癖で、自分の包まっていた毛布をフェリックスの胴に掛けてやった。
勿論、自らが高い体温を持っている竜は雪が降り積もるような低温でも難なく自分の体温を保っていられるほどなので、毛布を掛ける必要などないのだが、つい倉庫に残して行く竜が寒くないようにと毛布を掛けたその仕草に、呼びに来た竜騎兵がくすと笑っている。
「遅くなるようだったら向こうに泊まります。フェルディナント将軍も知っておられる人です」
「かしこまりました。将軍も今宵は街におられますので」
「フェリックス、行って来るね」
手を振って、竜に別れを告げて、ネーリが出て行く。
彼を見送り、一人になってしばらくすると、おもむろに竜は立ち上がった。
掛けられた毛布が竜の表皮の突起に引っ掛かってズルズルと引きずられたが、そんなことお構いなく彼は、ネーリの絵の前に歩いて行った。
彼はそれまでずっと、とぐろを巻いて眠っていた姿だったが、今はきちんとお行儀よく座って、絵を見上げている。
碧の森。
懐かしい、幸せな、自分の生まれた場所。
人は、ネーリの絵を見ると、なんと若く才能溢れた画家なのだろうと、尊敬の念を覚える。そんなことは、彼は知らなかったが、フェリックスはこの絵をネーリが描きあげていく過程をずっと見ていた。
最初は、白い下地に、青い色がついて行くのが楽しかったが、いつの間にか青い色が碧がかって行き、海の中のようだった絵に、木が立ち、樹々の陰影が付き、森の絵になった。
ある時、知ってる場所だと、彼が思ったことをネーリは知らない。
知能の高い竜は、この絵を生み出したのがネーリだということをちゃんと理解していた。
彼と、この絵が結びついていることを。
あの森がここにあるみたいだ。
フェリックスがそう思って、絵を見上げていたことを、ネーリは知らない。
窓がある倉庫で、フェリックスが絵を見上げているこの姿は幾度となく駐屯地で過ごす騎士たちに目撃されていて、のちにこの時のことを「絵を鑑賞しているようだった」と誰もが口を揃えて証言することになる。
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