Kotone~最恐の精霊を手に入れたが使い方が下手すぎる~

ふらい

第壱話  精霊ヲ手二入レルノ巻

重い雨がアスファルトを叩くリズムは、まるで蓮の胸の内を代弁しているかのようだった。しつこく続く雨音、時折聞こえる車のクラクション、不機嫌そうな人々が行き交う駅前のロータリー。




藤堂蓮とうどう れんは灰色の世界の中をふらふらと歩いていた。スーツは皺だらけ、濡れた生地が体に張り付いて気持ち悪い。ネクタイは緩み、シャツのボタンもひとつ外れている。仕事終わりにまともな身だしなみを気にする余裕など、とうの昔に失っていた。




彼の手には、しわくちゃのコンビニ袋がひとつだけ。中身は、おにぎり二つと缶コーヒー。これが今夜の晩飯だ。




「はぁ……今日も終電ギリギリかよ。」




蓮は疲れ切った声で呟いた。雨に濡れた髪が額にべったりと張り付き、目の下には深いクマが刻まれている。




彼はもう、何もかもが嫌だった。仕事を片付けるために毎晩遅くまで残業を強いられる生活。それでも上司には「もっと効率よくやれ」と責められ、同僚からは「また君か」と嫌味を言われる。




心を無にして働くことだけが、唯一の生き残る手段だった。




(俺がこんなに頑張ってる意味って、あるのか……?)




自嘲気味に笑う。そんなもの、ないに決まっている。




雨は一向に止む気配を見せない。蓮は、気だるい足取りで横断歩道に差し掛かった。目の前の信号は青。だが、その先に広がる闇のような道路は、不安を感じさせるほどに黒かった。




歩道の端に足を踏み出すとき、彼はふと立ち止まった。視界の端で車のヘッドライトがぼんやりと輝いているのが見える。




「……危ねぇな。」




呟きながら歩き始めるが、体の芯から湧き上がる疲労感が足を重くする。雨の音が耳を支配し、ヘッドライトがじわじわと大きくなる。




その瞬間だった――




鋭いクラクションが耳をつんざいた。




「えっ?」




右から突っ込んできた車のライトが視界を真っ白に染める。れんは咄嗟に振り返ったが、雨で滑る足が踏みとどまることを許さなかった。




(……なんだよ、これ。)




轟音とともに、車のフロントが蓮の体を弾き飛ばす。空中で一瞬、世界がスローモーションになった気がした。地面へと叩きつけられる刹那、彼の脳裏には奇妙な静けさが広がる。


雨の音、クラクション、人々の悲鳴――それらが次第に遠ざかっていく中、蓮の意識はゆっくりと暗闇に沈んでいった。




最後に浮かんだのは、幼い頃に夢見た、もっと自由で幸福な未来だった。






蓮が次に目を覚ました場所は、無限の闇が広がる奇妙な空間だった。そこには、一人の女性が立っていた。透き通るような青い髪、星のように輝く瞳を持つ、どこか神秘的な存在。




「藤堂蓮……あなたは死にました」




「え……死んだ……?」




蓮は混乱しながら、自分の体を見下ろした。スーツもなく、何かぼんやりした霧のような存在になっている。




「私は“運命の管理者トランサー”。あなたのような者を次の世界へ導く役割を担っています」




彼女は感情を感じさせない冷たい声で続けた。




「一つだけ選択肢があります。滅びゆく異世界を救う使命を背負う存在――契約者として新たに生きるか、それとも、このまま安らぎを選ぶか」




蓮は一瞬黙った。人生は苦しかった。もう何も背負いたくない、と思う気持ちもあった。だが、それ以上に悔しさがこみ上げてきた。




「……どうせなら、もう一度やり直してやる。契約者ってやつになるよ!」




彼女が軽く手を振ると、蓮の体が眩い光に包まれた。その中で彼の心臓が再び鼓動を始めるような感覚を覚えた。




目を開けると、そこは鮮やかな緑が広がる森の中だった。澄んだ青空と、草木の香りが漂っている。蓮はゆっくりと立ち上がり、初めて自分の体を見た。




「これが……俺の新しい体?」




自分の手は引き締まり、スラリとした体つき。鏡はないが、浅黒い肌と鋭い目、短く整えられた黒髪が感じられる。年齢も若返り、見た目は20代前半くらいだろう。顔には、どことなく精悍さが漂う。




「エリオス……そうか、これが俺の新しい名前か」



不思議と自分の名前が分かった。

森の中に響く風の音に耳を傾けながら、彼は歩き始めた。


歩き始めて数分、蓮――エリオスはふと奇妙な音を耳にした。




「うぅ……うーん!」




茂みの中からかすかに唸り声が聞こえる。彼が近づくと、そこには一匹の犬が絡まったツタに捕らわれていた。




その犬は、白い毛並みと片方だけ黒い耳を持つ中型犬だった。その目は賢そうで、エリオスをじっと見つめている。




「なんだ、お前も困ってるのか」




エリオスは手を伸ばし、慎重にツタを解いてやった。犬は自由になると、体をぶるぶると震わせ、彼の足元に座り込んだ。




「……しゅうって名前にしようかな。なんとなくだけど、そんな顔してる」




犬は嬉しそうに尻尾を振り、エリオスの手を舐めた。


しゅうは軽快に先を行き、エリオスを振り返る。片耳が黒いその犬は、まるで「ついて来い」と言わんばかりに尻尾を振っている。




「お前、本当に案内してるつもりなのか?」




エリオスは苦笑しながら問いかけるが、しゅうが応えるわけもない。それでも、その行動には確かに意図が感じられた。




道なき道を歩いているようでいて、しゅうが選ぶ道筋には迷いがなかった。不思議な感覚だった。やがて森を抜けた先に、ちらちらと灯りが見え始める。




「……村か。」




木々の間から現れたのは、小さな集落だった。草葺き屋根の家々が並び、所々に畑が広がっている。村の中央には広場と石造りの祠があり、そこには何かを祈るようにして座る人々の姿があった。




村に近づくと、エリオスとしゅうの姿に気付いた村人たちが動きを止め、一斉にこちらを振り返った。その目には警戒と好奇が混じり、ざわめきが広がる。




「見たことのない奴だな。」


「犬を連れてる……旅人か?」




エリオスは戸惑いつつも、しゅうが堂々と村に入っていくのを見て、後に続いた。




「ようこそ、旅人よ。」




広場の中央にいた白髪の老人が杖をつきながら歩み寄ってきた。その瞳は穏やかだが、どこかこちらを見透かすような鋭さがある。




「ええ、森を抜けて、ここにたどり着きました。道案内をしてくれたのは、この犬です。」




しゅうを指差すと、村長は目を細め、何かを確かめるようにうなずいた。




「それは興味深い。君がこの村に来たのも、何かの導きだろう。ここは精霊を祀る村。訪れる者には試練と祝福が与えられる。」




「試練?」




エリオスの疑問に答える代わりに、村長は石造りの祠を指差した。




「今日ちょうど、儀式が行われる。精霊石に触れることで、精霊との契約が結ばれることもあれば、何も起こらぬこともある。だが、旅人がこの儀式に参加するのは稀なことだ。」




「参加……?」




「君の運命がここで決まるかもしれない。何事も経験と思って受けてみるのも良いだろう。」




エリオスは村長の言葉に妙な重みを感じながらも、頷いた。




その晩、村の一角に用意された簡素な宿で、エリオスはしゅうと向き合っていた。




「精霊との契約だなんて、大げさな話だよな。」




しゅうは彼の足元で丸くなりながら、尻尾を一振りする。犬ながら何かを知っているような仕草に、エリオスは思わず苦笑した。




村長が杖をつきながら振り返る。




「この精霊石に手をかざし、心を開いてみなさい。それが契約の始まりだ。」




エリオスは祠に近づき、精霊石を見つめた。その虹色に輝く結晶から放たれる光は、どこか懐かしく、しかし重々しい。




「精霊よ、この若者に力を授けたまえ……」




エリオスが石に手をかざすと、突然、冷たい風が吹き荒れた。周囲が暗くなり、石が黒く染まる。




「……これは……滅びの精霊……!」




村人たちは口々に叫びながら後ずさる。黒い霧の中から現れたのは、巨大な漆黒の狼――ネクロスだった。その瞳は赤く光り、何者をも威圧するような恐ろしい姿だった。




「お前が私を呼び覚ましたのか、契約者よ」




ネクロスの声は低く響き渡り、全身に恐怖を感じさせた。




「お前が望むなら、私の力を授けよう。だが、その代償は――」




エリオスは震えながらもその言葉を遮った。




「構わない……その力を、俺にくれ!」




その瞬間、黒い紋章が彼の右手に刻まれ、契約が成立した。


契約後、村長は震えながらエリオスに語りかけた。




「ネクロス……それは、滅びの象徴として恐れられる精霊。かつて、この世界を滅亡の危機に陥れた存在だ」




「そんなヤバい奴なのか……」




村長は続ける。




「その対極に存在するのが、炎の神獣“イグニス”だ。イグニスは創造と守護を司り、この世界の英雄が契約した精霊とされる。だが、その力を引き出すのは極めて困難と言われている」




「イグニス……英雄の精霊か」




エリオスは静かにその名前を胸に刻み込んだ。




しかし村人たちは口々にエリオスを非難した。




「滅びの精霊を連れている奴なんて、村に置いておけない!」


「出て行け!」



「まじかよ…」

エリオスはしゅうと共に村を後にした。だが、彼の胸には確かな決意があった。




「この力をどう使うか、それは俺が決める。しゅう、行くぞ!」




しゅうが吠え、彼の隣を駆け出した。エリオスの旅は、ここから始まる――。

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