やめて下さい

@JULIA_JULIA

第1話

 やめて下さい───その一言が言えれば、どれだけラクなことだろうか。この地獄のような時間を過ごさずに済むならば、どれだけラクなことだろうか。


 満員電車の中、執拗に臀部でんぶを撫で回してくる輩に言えれば、どれだけラクなことだろうか。道端で、延々と得体の知れない宗教に関する話をしてくる輩に言えれば、どれだけラクなことだろうか。玄関先で、長々と謎の商品についての説明をしてくる輩に言えれば、どれだけラクなことだろうか。


 つい先程、ワタシは三年間交際している彼氏からプロポーズをされた。突然のことに驚きつつも、ワタシは首を縦に振った。すると唐突に、周りにいる人たちが踊り始めた。そう、フラッシュモブが始まったのだ。


 幹線道路に面するオープンカフェ。その中央付近の席に着いていたワタシと彼氏。周りは満席だった。老若男女を問わない顔ぶれ。その人たちが踊り始めたことにより、道行く人々は足を止め、ワタシたちを見ている。


 最初に踊り始めたのは、彼氏の背後の席にいた女性三人組。彼女らはワタシが首を縦に振った途端、即座に立ち上がり、両手を広げて踊り始めた。それに続いたのは、ワタシの背後にいた親子連れの四人組。彼ら彼女らは大きな声で歌い出した。ソプラノ、アルト、テノール、バスの混声四部合唱は、なんとも見事なハーモニーを奏でた。


 その優美な歌に釣られて立ち上がったのは、なんとワタシの彼氏。彼はぎこちないダンスを披露した。いや、タコ踊りと言った方が良いだろう。あまりのぎこちなさに、ワタシを笑わせようとしているのかと思ったほどだ。


 そんな中、道端の人々がニヤニヤと笑っている。それらの笑いは、薄ら笑いのようであったり、北叟ほくそ笑んでいるようであったり。ともかく、目の当たりにしたフラッシュモブに対し、冷ややかな視線を向けているのだ。随分と昔に流行ったフラッシュモブを今どきするなんて、と。


 正直なところ、あの頃でさえ、フラッシュモブはそこそこの割合の人たちが引いていた。どうして、なんのために、そんなことをするのかと。なにを隠そう、ワタシもそう思っていた一人だ。そして、今も思っている。


 オープンカフェの席を埋め尽くしていた人々は、今や全員が立ち上がり、歌って踊っている。大合唱と、派手なダンス。その中心には、ワタシの彼氏。なんとも晴れやかな顔をしている。ワタシの顔は引きつっているというのに。ワタシの心は曇っているというのに。


 少し前までは、お洒落なオープンカフェでの気楽なランチを楽しみにしていたワケだが、今では地獄絵図の真っ只中に身を置いて、早くときが過ぎるのを願っているワタシ。


 やめて下さい───その一言が言えれば、どれだけラクなことだろうか。この地獄のような時間を過ごさずに済むならば、どれだけラクなことだろうか。



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