第10話 開戦前夜


─────────地方都市マドレーヌ。



夜のとばりが降りた、静まり返った地方都市。

その高台に建つ最も大きな屋敷の一角──執務室のソファに腰かけた若き男は、深いため息を吐き、両手で頭を抱えていた。


男の名はエドワード・イングリス。

22歳の若さで、この小さなマドレーヌ領を治めることになった新たな領主である。


ここ数日、彼の耳には何百、何千という兵士の足音が幻聴のように鳴り響き、まともに眠ることさえできていなかった。

そのせいか、まだ若年のはずの顔には、早くも老成した疲労と陰が滲んでいる。


そんな彼の思考は、自然と亡き父へと向かっていた。

昨年この世を去った先代領主──身分にこだわらず、誰に対しても分け隔てなく、慈愛をもって接した偉大な男だった。

使用人から領民に至るまで、彼を慕わぬ者はいなかった。


エドワードは、そんな父を尊敬し、目標としていた。

しかし今では、その憧れは恨めしさへと形を変えている。


──父は、あまりにも理想的すぎた。

いや、領民にとって都合の良すぎる領主だったのだ。


私財を惜しまず、あらゆる要望に応える“聖人”のような存在。

そんな偉大な父の後を引き継いだエドワードにも、当然のように領民たちは期待を寄せてきた。


就任当初、政務に不慣れながらも、エドワードは懸命に務めを果たしていた。

麦の不作、重税による生活苦──不満が高まる領民たちの声に応え、中央に幾度となく減税を訴えた。

時には自ら馬を走らせ、他領の領主たちのもとを訪ね、頭を下げてまで嘆願書を提出した。


それは、父が示した理想を自らの手で体現しようとする、必死の努力だった。


だが──地方の若き一領主に、できることには限界がある。


民の困窮を救うことが叶わぬまま、時間だけが容赦なく過ぎていく。

そしてついに、民衆の怒りの奔流が形を成す。


ある日を境に、膨大な数の署名が領主館へと届けられ始めた。

それは、領民のほとんどが関与しているのではと思えるほどの数だった。


そして次第に、民の一部が武器を手に蜂起し始める。

その過激な思想と蛮勇は瞬く間に広がり、もはや誰の手にも負えぬ事態となった。


気づけばエドワードは──領民たちの怒りの流れに飲み込まれ、国家に背く罪人として担ぎ上げられていた。


「……はぁ……」


地の底にまで届きそうなほどの深い溜息をつき、エドワードは立ち上がる。

棚からワインボトルとグラスを取り出し、ソファへと戻って一杯注いだ。


「今晩が……最後になるかもしれんな」


天井を仰ぎながら、弱々しい声でそう呟く。

それは、本来ならば彼の耳にだけ届く、孤独な吐露であるはずだった──。


「何を弱気なことを仰ってるのですか、お兄様」


「……エリザベス」


静かに扉を開け、音もなく入ってきたのは、妹のエリザベス・イングリスだった。


内巻きにカールした栗色の髪。

リスを思わせる可憐な顔立ち。

贔屓目なしに、この国でも上位に数えられるほどの美貌だとエドワードは常々思っていた。


実際、彼の執務室に積まれた書類の半分は、エリザベスに持ちかけられた縁談の申し出である。

当然、すべてエドワードが却下している。


「ノックをしてから入りなさい」


「領主が弱気でいてどうするのです? お兄様」


「なっ──」


不意打ちのような妹の叱責に、エドワードは思わず声を荒らげた。

自分の苦労や葛藤を知っていながら、それでも平然と諭してくるエリザベスに苛立ちが募る。


「……弱音を吐きたくもなるだろう! 明日、私は死地に赴くのだぞ!?」


斥候からの報告によれば、正規軍はすでに隣接するクレシーの丘に陣を敷いている。

想定を超える速さで進軍していた。


マドレーヌの城塞は、建国以来一度も戦火に晒されたことのない脆弱なもの。

私兵たちも、守城戦の訓練などロクに受けていない。

援軍のあてもなく、籠城は非現実的だった。


となれば、残された選択肢は一つ。

打って出るしかない──。


圧倒的多数の正規軍に、平野で民兵を率いて挑まねばならない。

訓練もままならない領民たちが、武装した騎士団に立ち向かうという絶望的な戦い。

そのほとんどが、生きてこの地へ戻ることはないだろう。


「わかっています……そんなこと、私だって……! それでも、今のお兄様は……お兄様らしくありません!」


「私らしさとは何だ……第一、お前はッ──!」


エリザベスが求めているのは、父の背を追い理想に向かって我武者羅に邁進する、あの頃の兄の姿だ。

だがエドワードは、それを「ただ重荷を負わせ続けてきた者たちと同じだ」と感じ、深い失望を覚える。


「お前は戦場に出るわけじゃないから、そんなことが言えるのだ──」


そんな言葉が喉元まで出かかるが、寸前で飲み込む。


しかしエリザベスは聡明だった。

言葉にされずとも、エドワードの胸中を察している。


唇を噛みしめ、涙を滲ませるその姿に、エドワードの心はまるでガラスの破片を突き刺されたかのような痛みを覚える。


「ッ──」


その痛みから逃れるように、彼は視線を逸らし、背を向ける。


重い沈黙が、2人の間にしばらく降りかかる──。


「え? な……お兄様!」


静寂を破ったのは、エリザベスの驚きと焦りを孕んだ声だった。


「……何だ?」


エドワードが振り返った先──

視界に飛び込んできたのは、禍々しく渦巻く漆黒の魔力の渦。


直径およそ二メートル。

渦の中心から、二つの人影が浮かび上がってくる。


エドワードは瞬時に警戒し、エリザベスの前に立ちふさがる。

手を広げて彼女を庇うように動いたそのとき───その二人組のうちのひとりの顔を見た瞬間、エドワードは言葉を失った。


まるで時間が止まったかのように、思考はおろか心臓さえも活動を停止したような感覚をエドワードは覚えていた。




「あなたは───────」





to be continued...

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