偽物の家

祐里

第1話

「今日は帰る」

 俺がこの言葉の意味を理解したのは、十歳のときだった。


 俺と父さんの二人だけで、外で会ったことがある。あの日何があったのか、何を話したのか、どんなことを思ったのかは鮮明に思い出せるのに、どうして母さん抜きで俺だけが会うことになったのかはいくら考えても思い出せない。何かを察知した母さんが行きたがらず、俺だけが行くことになったのかもしれない。


 狭いリビングの大きなオーディオセットの前を通り過ぎるとき、キッチンから「雨降るらしいから傘持っていきなさいよ。行ってらっしゃい」と声がかかった。素直に「うん。行ってきます」と返事をし、青い折り畳み傘をリュックに入れて玄関を出た。小学校四年生の俺は学校ではお調子者のうるさいやつ、家では父さんが買ってくれたマンガを読んでばかりの読書家――と、自分で主張していた――だった。

「うわっ、ほんとだ、降りそう」

 確かあのとき俺は誰に聞かせるともなく、一人で大声でしゃべった。家を出ると学校でのクセが出ていたから。かかとを靴に入れながら外に出ると、アパートの重い扉がガタガタと音を立てて閉まった。

 駅までは歩いて十五分。暗い曇り空の下で半袖の腕に雨の気配があった。自転車ならもっと早く着くのにと思いながらキッズケータイで時刻を確かめ、駅へと歩いた。


「お、誠司せいじ、迷わなかったか」

「迷うわけないよ、もう十歳だよ」

 最寄り駅から四駅、大きなデパートや華やかな店が立ち並ぶ待ち合わせ場所に着いた俺は、浮かれていた。父さんと会うのは一週間ぶりだったと思う。

「そうか。昼飯、何食べたい?」

「まだおなかすいてない。それよりマンガ見に行きたい!」

 父さんは、はしゃぐ俺をデパートの本屋に連れていってくれた。マンガのコーナーは広く、俺は平積みの新刊を手に取ったり、背表紙が並んだ本棚をじっくり吟味したりした。

「ありがとう、これ欲しかったんだ」

「一冊だけでいいのか?」

「うん、いっぺんに増えると母さんに怒られるし……持ってないのはクラスのやつらに借りて読むから」

 今日は大人気マンガの最新刊だけでいい。父さんは会社の社長をしていると、母さんが言っていた。ねだると何でも買ってくれる。クラスの中でそんな父親を持つのは俺くらいだ。自慢の父さんだった。

「誠司は友達が多いんだな」

「まあね」

 気軽に話せるやつならたくさんいる。男子ばかりだけど。

「女の子に優しくしてるか?」

「え、なんで?」

「女の子は繊細で傷付きやすいから、気を付けないと」

「そうなの? ていうか女子はあんま話さないよ」

「なんだ、誠司はモテないのか」

 ははっと軽快に笑う父さんが格好良く見えた。きっと父さんは女子にモテていたのだろうと思うと、よけいに誇らしく感じた。

「父さんはモテてた?」

「当たり前だろ。おまえは俺に似てるから、きっと格好良くなるぞ」

「へへっ」

 いい気分になった俺は「オムライス食べたい」と告げた。そう、食べたかったのはオムライスだ。母さんは面倒だと言ってあまり作ってくれなかったオムライス。

「オムライスか。じゃあ一旦外に出て……ここから近いビルにオムライス専門店があるはずだから、そこにしよう」


 デパートを出ると、ポツポツと雨が降り出していた。リュックに入れていた折り畳み傘を出して差そうとすると、父さんが「すぐそこだから、この傘だけでいいよ」と大きな黒い傘を広げた。

 気に入っている、青い傘。母さんは赤や黄色のほうが目立つからいいと言っていたけれど、俺はそんな子供ガキっぽい色に嫌気が差していた。そう伝えたら、父さんが誕生日プレゼントにくれたものだ。大人用の大きさの鮮やかな青は、俺の心をわくわくさせた。

「俺、この傘がいい」

「それはあとにしとけ。畳むの面倒だし子供用のだと小さいだろ」

 誕生日からまだ一ヶ月しか経っていないのに、子供用じゃないのに、と心の中で呟きながら、黙って父さんの傘に入る。雨足がだんだん強くなり、むき出しの腕や足は少し濡れてしまった。

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