【短編/1話完結】帰れなかった勇者

茉莉多 真遊人

本編

 とある男は強い光に叩き起こされるかのように覚醒する。


「……眩しい……な……カーテン全開だったっけ……ん……なっ!?」


 男は先ほどまで自分は愛する妻や小さな子どもたちと一緒に仲良く同じ部屋で寝ていたはずだったが、ハッと気付いたら、見知らぬ場所にいた。


 いや、男は「見知らぬ場所にいた」という一言で片付けていいような状況ではなかった。


 髭を生やした子どもくらいの小さな男たち、耳が長く尖った美しい容姿の女性や男性、二足歩行の獣や、獣の耳や尻尾を生やした人たち、さまざまな種族というべきか、姿かたちの異なる者たちが少し距離の離れた場所から、澄み切った青空の下、緻密かつ異様な紋様が描かれている岩の上で身体を起こした男のことをまじまじと見ていたのだ。


「やりました……神の言葉は本当でした! 異世界から来た……私たちを救ってくれる勇者様です!」


 男の周りを囲っていた者たちの中でも、男の一番近くに立って杖を携えていた美少女がそう叫ぶと、容姿の異なる者たちが異口同音で歓喜の声を挙げる。


「異世界? 勇者? お、おい、俺の妻や子ども、家、というか、ここはどこだよ!?」


 男は自分の目で見たものだけで状況を何一つ理解することができず、狼狽するほかなかった。


「それは、あなたを召喚した私から説明するべきですね」


 杖を携えた美少女は恭しく礼をした後に、彼女の知っているすべてを話した。


 この世界は、男のいた世界とは異なること、たくさんの人型の種族が住んでいること、魔法があること、魔王と呼ばれる存在と魔族と呼ばれる種族が世界を支配しようと企んでいること、神の啓示を受けて魔族以外の全種族が一致団結して「勇者召喚の儀」を行ったこと、勇者は魔王を倒して魔王の残した魔力を使わないと元の世界に帰れないこと。


 つらつらと説明される中で、男は怒り、悲しみ、嘆き、「冗談じゃない!」と喚き立てるも、過ぎてしまったことを戻すこともできなかった。


 しばらくは呆然自失としていた男だが、地球でいう半月ほどしてから、このままでは変わらないと理解し、魔王を倒す決意を固めた。


 最初は、元の世界に帰ることを心の拠り所に厳しい修行を受けることになる。


 しかし、彼は自身を肉体労働派と思っておらず、少しでも苦しくなると修行をサボりがちになっていたため、成長速度が思うように上がらなかった。


「もう……ダメだ……多少強くはなったが、これじゃいつまでかかるやら」


 それも数か月、半年、1年も過ぎてくると弱音も多くなってきて、修行の成果もなおのこと鈍り始めてくる上に、慎重なきらいがあるのか、中々魔王を倒す旅に出ようとしなかった。


 さらに日が経ち、元の世界で長い間行方不明扱いだろうと思うに至った男にとって、もはや、今さらになって帰ることだけでは魔王を倒す強い意志には到底なりえなかったのだ。


「勇者様……伴侶がいらっしゃるのは存じておりますが、どうか私の身体でその疲れた体や心をお慰めになってください」


 そこで男を召喚した美少女は再び言い渡された神の啓示に従って男と夜を伴にし始める。


 美少女が提案してきた最初の頃こそ、今さらと思うも元の世界に残してきた妻の顔がよぎり、男は夜を伴にすること自体を断り、しつこい美少女を邪険にまでしていた。


 しかし、邪険にされても粘り強く近くで、かつ、献身的に支えてくれた美少女の熱意にほだされていった。


 また、美少女が男にバレずに使った魅了魔法や媚薬の類の効果もあり、ついに男は美少女との間に子どもまで生してしまう。


「正直、この世界がどうなろうと知ったことかと思っていたが、俺の子どもがいる世

界ともなれば、平和な世界で子どもに生きていてほしいと思い始めたよ」


「そうですか。それはよかったです。私も素敵な勇者様とつがいになれて嬉しく思います」


 男は美少女の妻と子どもたちという守るものができたからか、より強固な意志を持ち、しかしながら、慎重な性格が変わることなく、結局、3年の修行と5年の旅を経て、ついに主力の魔族たちや魔王を一掃することに成功した。


 約10年。


 それは男がすべてを終えたとき、絶望する年月だった。


 元の世界はどうなっているのか。


 想像さえもしたくなくなる年月である。


「よくやりました勇者よ」


 魔王を倒して黒い霧が晴れ始める中で、代わりに眩い光が幾筋も差し込み始め、さらには男の頭に直接響くような声が発せられる。


 男は直感で理解した。


 目の前にいるのは神である、と。


 自分にとっての害悪の根源である、と。


「なあ、俺は元の世界に戻れるのか?」


 神は姿を現した。


 神は男が分かるように人の姿を模していた。


「ええ、戻れますよ。ただし、本当に戻りますか?」


 だが、神は人の心が分かるような素振りも表情もしていなかった。


「なに?」


「あなたのいた世界とこの世界の時間の流れは同じです。故に、あなたの知っている時間の定義で説明するなら、約10年経過した世界に戻ることになります」


 男は耳を疑った。


 元の世界に帰ることができたとしても、10年ほど経過した世界である。


 何もかもが変わったであろう世界に未練を感じられるのか。


 男は狼狽えながらも一番に気になっていたことを思い出したかのように口を開く。


「つ、妻は? こ、子どもたちは?」


 神は笑った。


 しかし、その笑みはひどく無機質で冷たささえ感じさせる不毛なものだった。


「安心してください。あなたの良き妻はあなたがいなくなった後に一時は呆然自失としていましたが、しかしながら、子育てや仕事をがんばり、仕事の中で新たな良き伴侶を見つけ、新たな命を生み出し、あなたがいたときと変わらない平穏を手に入れることができました」


「なんだって……」


「もちろん、子どもたちも同様です。あなたがいない中で必死になっている母に協力し、子どもどうしの些細なことで喧嘩をすることもなくなり、手を取り合って仲良く生きています」


 男は立ち続けることさえままならなかった。


 自分がこの世界で新たな伴侶と子どもを得ていたように、彼の妻もまた新たな伴侶と子どもを得ていたのだ。


 男はそれでも元の世界の妻や子どもを愛している。


 だが、突然行方不明になった男を、妻や子どもは今でも愛してくれているだろうか。


 男には到底、そのような甘い妄想を抱くことができなかった。


「そ、そんな……帰してくれよ……返してくれよ! 俺の、俺の人生を!」


 男は目の前の神を相手にギリリと歯を食いしばるように怒りを露わにし、その目には涙が溢れては幾筋もの線となって流れていく。


「ですから、あなたには与えましたよ? この世で最も美しい少女とその間に生まれた健やかで朗らかな子どもたち。それが私なりの、あなたを招くきっかけになった神としての償いであり施しです。少女は実に従順に私の言葉に従いました。そして、これからもそうです。あなたにその全てをもって一生尽くすように伝えてありますから」


「ふざけるな!」


 男はついに怒りを言葉に変えた。


 だが、神には男の声は届いても、男の感情まで届くことがなかった。


「ふざけてはいません。さて、話を戻しましょう。あなたは帰りますか? 新しい家族を捨て、あなたを忘れることができるようになった前の家族の下に向かいますか?」


「くっ……ぐっ……ぐぅ……ううっ……」


 男の答えは決まっている。


 いまさら、元の世界に戻ったところで何も得るものはない。それどころか、この世界で改めて得た大事なものさえも失う。


 大事なものは力であり、枷である。元の世界の枷は外れ、今の世界の枷は取り付けられた。


 男は後悔する。


 弱音を吐かずに、もっと意志を強く持って修行に励めばよかった。


 危険を承知で修業の時間を短くして、魔王を早く倒せれば、妻子の下へ帰ることができたかもしれない。


 美少女の敬虔けいけんなる熱意に感化されなければ、この世界で大切なものなど一つもなく、元の世界へ帰ることに対して身軽だったかもしれない。


 だが、すべては後悔でしかない。


「決まったようですね。では、あなたには、さらにこれを差し上げましょう」


 神はそう言うと男の前に手鏡を1つ現した。


「……これ……は?」


「元の世界を見ることができる手鏡です。あなたにしか使えません、あなたしか見ることができません。これであなたは誰にも、この世界の愛すべき者たちに知られることなく愛していた妻や子供たちを見ることができますよ」


「……愛していたじゃない……過去にするな」


 男は吐き捨てるように呟いてから手鏡を受け取って、この世界にいる新しい家族の下へと帰っていった。


 数か月後。


 男は家で椅子に腰かけながら、手鏡を見つめていた。


 何もなければ、手鏡を見る時間が一番多く、それは美少女から美女へと変わった妻や妻の若い頃そっくりのまだ幼いながらも美しい子供たちが驚くくらいである。


 そう、男は一日の大半を手鏡とともに過ごしていた。


「ねえ、パパ、また鏡を見ているの? そんなに自分の顔を見たいの? パパって、そんなに自分のことが好きなの? 昔からそうだったの?」


 子どもが男の背中をよじ登って、男の顔の隣からひょっこりと顔を現して手鏡を見つめる。


 神が言っていたように、子どもには反射した自分の父親の顔しか見えない。


 しかし、男には中学校の卒業式を迎えた元の世界の子どもの姿が見えていた。


 神が男に教えていたとおり、男がいない間に元の世界の子どもは健やかに朗らかに育っていた。


 ふっと、男の顔に寂しさと笑みが綯い交ぜになった表情が浮かぶ。


「……あぁ、パパはね、自分の顔が好きなんだ。カッコいいだろう?」


「もう、パパったら! カッコいいけど、そんなに自分の顔ばかり見てないで、せっかく帰ってきたんだから、私と遊んでよ!」


「あぁ……そうだな。ママも呼んで一緒に遊ぼうか」


「やったあ! ママ、私の言うことなんてちっとも聞いてくれないのに、パパの言うことなら聞くもんね!」


 子どもの言葉に、男の心はちくりと何かが刺さる。


 神の啓示に従順な妻は、本当に自分のことを一人の男として愛してくれているのだろうか。


 元の世界の妻と同様に、少なくとも自分に魅力を何かしら感じたのだろうか。


 聞くことさえ躊躇うその言葉を、想いを男は今日もぐっと飲み込む。


「はは……まあ、ママはパパにぞっこんだからな」


「自分で言っちゃうパパって、すごいよね」


 男は鏡を大切にしまって、背中に子どもを背負ったまま、愛すべきかわいらしい美少女の子どもたちとともに、美少女から美女になった愛すべき妻の下へと歩いていくのだった。

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