J002E3

ヲトブソラ

J002E3

 二十代後半も過ぎようとしているのに、実家暮らし。炊事洗濯が楽だと甘えていたら、家を出る機会を見失ってしまった。今朝も母に言われる「鍵、閉めていってね!」という中学生から続く“いってらっしゃい”。バッグに入っている鍵を取り出すのに、手間取っていると「おはようございます」と、お隣さんに声をかけられた。古いマンションの廊下を颯爽と歩く彼女もまた、実家脱出の機会を見失ったのか。


 まず、実家から通える大学に入ったのが失敗だった。お陰で飲んで遊んで楽しい気分で帰宅する早朝に、小言を言われるという暗黒時代を過ごすことになる。そして、就職もいわずもがな。実家から通える所在地に存在している。ただ、これは前述した理由があるから文句は言えない。


「きっと疲れて、家事が出来ないと思っていました」

「ほーう」


 社食で冷やっこに醤油をかけながら、実家住まいである話をしていた。それより、ぼくが実家暮らしだと知らない先輩を不思議に思う。自分で言うのもおかしいけれど、割と有名な話だぞ。入社から二年はネタにしていたし……。


「先輩は……やっこ、美味いな。一人暮らしなんですか?」

「いーや。実家だね」

「なんだ、仲間じゃないですか」


「そーね。んー………いいか?今からする話、他言無用。そして、引くなよ」


 半年前に同棲していた彼氏さんに不倫をされ、言い合いの挙句、殴った結果、破局。実家に戻らざるえない状況となったらしい。なんでも、その話も有名な噂話として語られているのは確認済みなんだとか。なんだ、弊社の情報伝達機能が滞っているだけか。安心した。


「彼女とかいないのかい?」

「あー。半年前に別れました」


「なあ……ややこしくないか?この話」

「今、理解しました。先輩」


 どおりで、ぼくたちの周りで情報伝達が滞っているわけだ。誰かが勘違いをして、もしかすると、ありもしない追加エピソードも非公式に加えられ、変な噂が伝播しているのかもしれない。人間関係はややこしい。


「今夜、帰りに飲みに行かない?」

「いや。恥ずかしい話、親に早く帰ってこいと言われていて」

「小学生かよ」

「今日だけですよ!」


 みんな、人の不幸が大好きなんだなと、改めて、確認が取れた就労時間だった。


 会社を出て、四十分ほど電車に揺られ、十五分ほど歩いて帰宅。快適な通勤圏に実家があるのも考えものだな。朝と同じくバッグにある鍵を探していたら声をかけられた。


「こんばんは」

「ああ、こんばんは」


 バッグを覗くぼくの背中を通り過ぎるお隣さんと、見つかる家の鍵。母さん、晩ご飯は何だって言っていたっけな。


「はあ?じいちゃん家に行けって、いつ?」

「土日でいいわよ」

「土日でいいって……せっかくの休み……」


 親が早めの帰宅を要請していたのは、ただ祖父母が会いたがっているというだけのことだった。何も早く帰ってくるよう言わなくても、朝にでも声をかけてくれれば済む話じゃないか。苛つきながらシャワーで泡と一緒に大きな、ため息を流す。


「先輩と飲みに行きたかったなー」


 湯舟につかり、そろそろ家を出るべきかと考えていた。今の状態は宙ぶらりんな感じがする。自分で決めたことではあるけれど、まったく親離れ、子離れができていない。先輩が言った“小学生か”が、まさにそう!としか言いようのない家族関係だ。半年前に別れた彼女も、こういうところを見ていたのかな。よくない、また考えても仕方がない負のループが襲う時期に入ったのかもしれない。


 どうして、失恋とは押しては返す波のような痛みがあるのだろう。

 今さら大失恋だったんだと気付いても、何もかも遅いのに。


「おはようございます」

「おはようございます」


 土曜日の朝、お隣さんもお出かけだろうか。デートかな?なんて考えて、ため息とともに廊下の天井を見上げた。家の鍵、会社に行くときのカバンに入れたままだ。玄関を開けて、部屋にまで鍵を取りに行く。


 電車を二度、乗り換え、改札から出て、二十分ほど歩き、また古い駅舎に入った。二両編成でワンマン運行のうるさくて、ひどく揺れる採算ぎりぎりの私鉄ローカル線。ディーゼルエンジンの車輌だからか、祖父母は“汽車”と呼んでいる。その汽車から足をつけた小さなプラットホームから、目に入るのは緑色と青色しかなく、駅舎に駅員はいない。バスに揺られ四十分。祖父がバス停で待っていてくれた。


「ああ、はーおかえりぃ。よく来たなあ」

「うん。じいちゃん、元気してた?」

「ああ、ああ。お前も。婆さんが待っとるよ」


 祖父の汗臭い軽トラの窓を全開にして、田んぼの匂いを感じながら揺られる。一直線ではないが、一直線だなと思う道。軽トラが庭に入り降ると、まず出迎えてくれたのは、まだ小さな雑種の犬だった。警戒しながらも尻尾を振り、ジーパンの匂いを嗅ぎに近付いては、離脱、また吠える。それを何度も繰り返す。


「あれ?セブンは?」

「ナナは去年の暮れに亡くなったよう」

「そうなんだ?」

「歳だったからねえー。頑張ってくれたよう」

「で、こいつの名前は?」

「はーちぃ」

「やっぱりエイトか!ほら、怖くないぞー」


 三十秒後にはお腹を撫でられ、尻尾で地面をきれいに掃くエイト。ぼくに備わった犬をメロメロにするこの能力は、どうして人間の女性が対象じゃなかったんだろう……………。


 仏壇に手を合わせ、陽の当たる窓際に置かれたセブンの写真にも手を合わせた。毎日、水も変えられているんだな。この一輪の花は庭の花かな。いいやつだったし、みんなから好かれて、セブンもみんなを愛すやつだった。きっと、エイトもいいやつに育つはずだ。親がじいちゃんとばあちゃんだから、きっといい子に育つ。ばあちゃんも元気で、ぼくの好きなきゅうりに味噌を添えたお茶受けと熱いお茶と出してくれた。縁側に座り、こっちに熱視線をおくるエイトを横目に、畑と田んぼと、山と空を見ていた。


「それでー!?なんかー!ぼくにっ!!話があるとかー!聞いてきたけどーっ!!」


 年老いた祖父母の厄介ごとや、手伝いをするのだと思っていた。しかし、じいちゃんが隣で正座をして言ったのは……、


「はあ?見合いっ!?」


 目を閉じて深く三度うなずくじいちゃん。続いて、お相手の写真を持ってくるばあちゃんだ。いや……………ぼくの人生は、ぼくが決め……うおっ、すごい美人さんデスネ。


「とても穏やかな性格なんだよう」

「へえ?」

「ただ少し、人付き合いが苦手というか」

「うん」

「今まで、あまりお付き合いした人もいないみたいで」

「そうなんだね」


 どうしてだろう。こんなに美人で性格もいいらしい女性の話。正直に言うと、ぼくの好み。でも、心は冷め切っていた。相槌や返事はしていたが、興味が向かなかった。居間のテレビが祖父母チューニングの大音量で伝える“大昔のロケットが地球と月の影響を振り切れず、月をかすめたあと三十年かけて地球に戻ってきた”というニュースを聴いていた。


「もう帰るのかー?」

「うんー。月曜、朝から会議があってさー。明日中に準備しておきたいからねー」


 大嘘だった。朝にミーティングはあるけれど、準備をするまでの大きな会議はなかった。


「サラリーマンは大変なんだなー」

「それは会社員だけじゃなく農家も、みんなだよ。もちろん、エイトもだよなー?」


 そんなところをきれいに尻尾で掃いても意味はない。だけど、きれいにしてくれているエイトのお腹を「お前もえらいよなー!」と、わしわしと撫でてやる。

 じゃあ、また来るよ!と、ばあちゃんに手を振り、夕方のバスに間に合うようじいちゃんの軽トラに揺られた。全開に開けた窓から冷たくなる風とひぐらしの声が入ってきて、バス停に向かうにつれ、蛙の合唱が大きくなっていった。


 自宅の最寄り駅に着いたときには、十一時になっていた。電車のドアが開くと夜なのに空気がぬるく、蛙の合唱のかわりにヤンチャなバイクの爆音が響く、ぼくの町の夏。改札前で、バッグの底に逃げ込んだスマートフォンを追いかけ回していた。


「こんばんは」


 スマートフォンを捕まえたときにかけられた声。振り返ると、お隣さんだった。


 マンションまで歩いて十五分しかないとはいえ、こんな時間に女性を一人で歩かせるのは躊躇われる。少し高いヒールでこつこつと、長くさらさらな髪をなびかせる彼女と並んで歩いた。


「どこに出かけていたんですか?」

「え?ああ、祖父母の家に」

「喜んでいたでしょう?」

「そう……ね。そうですね。まあ。そちらは?」


「恋人とデートの予定でしたが、別れてきました」

「おっふ」


 思わず出てしまった、事の重大さを理解した“軽い言葉”に自分が馬鹿らしくなり、へたり込んでしまう。


「ちょっ……大丈夫ですかっ?」

「あー……いや。大丈夫です。ぼくこそ、失礼」


 くすくすと笑うお隣さんを不思議に思い見ていると、はあ……と、ため息をつかれる。


「どうしてかな。わたしたち、いつから敬語になったんだろう?」

「……………そっちがそっけなくなったじゃん」

「ええーっ?いつ!?」

「中三?いや、高校生になってから……?」


 ぼくも覚えていなかった。隣なのに、だんだん遠くなっていった。ただ挨拶はしていた。敬語で挨拶だけはしていた。近いのに、遠かった。


「わたしは、何か怒らせたんじゃないかと思っていた」

「いや?それは、ぼくの方がそう思っていた」


 またくすくすと笑われる。


「なんだよ」

「いやー。今も“ぼく”なんだなって」

「悪いかよ」

「ううん。好きよ」


 好き、という言葉に引っ張り出される記憶、疎遠になったであろう出来事。たしか中学校卒業のときに、こいつに彼氏ができた。それが初めての失恋というやつだったのか、単なるヤキモチだったと思う。なんとなく、裏切られた……的な。馬鹿な理由のやつ。それから突き放すように、敬語を使うようになった。違う高校だったし、思春期だったこともあると思う。会話はなくなっていき、挨拶だけが残った。


「んー?もしかして、わたしのことー、好きだった?」

「さあ……これは照れ隠しとかじゃなくて、正直、昔すぎて恋なのか分からん」

「ふーん」

「ただ、何度も苦しい感情が押したり、引いたりしていたなー」

「恋じゃん」

「恋か」


 周期的に近付いては、存在を知らせて、また離れていく感情のように、祖父母の家で聞いていたニュースのロケットは、また地球から離れるんだって。そして、結局、振り切れずに、三十年後に地球に帰ってくる。そんな旅に出るらしいよ。


おわり

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J002E3 ヲトブソラ @sola_wotv

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