海に沈むジグラート40
七海ポルカ
第1話
ヴェネトの西に、かつての警邏隊本部がある。
しかし、警邏隊の秩序が乱れてからは、彼らの出仕はかなり曖昧になっていたので、警邏隊の中でも王宮周辺の巡回警邏隊は辛うじて、神聖ローマ帝国軍が守備隊の任を得た後も、規則正しい勤務の中にあった。
最初は神聖ローマ帝国軍のフェルディナントが腐敗した警邏隊の解散に踏み切ったことで、自分たちの権限も奪われるのではないかと警戒していた巡回警邏隊だが、フェルディナントは街にたむろしている警邏隊の者たちと、制服からして違うこの警邏隊本部を本拠地とする彼らが、責任感と使命感において違うことを、早々に見抜いた。
彼らは王都ヴェネツィアでも特に王宮のある南の界隈を持ち場として重点的に巡回をしていることから、フェルディナントはその権限は奪わなかった。
この部隊の隊長も、他国から来たフェルディナントが規律を重んじる将軍であると理解してからは態度を硬化させ、何か街で事件が起きた時には必ず報告し合うことを取り決めとし、今では協力し合うこともあった。
その日、フェルディナントはその警邏隊本部を訪れていた。補佐官としてトロイが同行していて、話はついていたので到着すると、すぐに、解剖室に案内された。
「遺体の喉を貫いていたものです」
軍医がテーブルに置かれたものを指差した。
「ありがとう。あとはこちらでする」
フェルディナントが声を掛けると、軍医は一礼して出て行った。
軍医が出て行くと、トロイは持って来た二本の『矢』を取り出し、長さを測った。慎重に合わせて、頷く。
「一致しました。こちらの方です」
「……スペイン駐屯地を襲った奴だな」
「安堵したような、なんなのか……妙な気持ちですね。これでどちらとも一致しなかったら、三人目の出現を疑う所だった。でも一致したということは、ヴェネツィアで行われているこの一連の殺人事件では、一応使われた凶器は二種類とまだ断定できます。それがいいことなのかどうなのかは分かりませんが……」
フェルディナントはイアンから、城に二人の【仮面の男】が現われた可能性があることを、トロイにだけは話した。
イアンとラファエル、二人と遭遇し、真偽は分からないが、同一人物である可能性は低いが、同じ武器を使っていた。ということは、王都ヴェネツィアで警邏隊殺しをしていた二人の可能性があるが、一人はイアンの前で塔から飛び降りて死んでいる。
この二人が仲間なのかは分からないが、一人が城で騒動を起こし、もう一人がその隙に【シビュラの塔】に侵入するのを目論んだのではないかというのがイアンとフェルディナントの共通の見立てだ。
しかしイアンとの話では、一人が塔から死んで、もう一人も森の守備隊に追われて海に飛び降りて、こちらも死んだと思われたところで話は終わってたが。
矢を手にし、人を殺めたその切っ先を見つめる。
「……生きてたか」
イアンの前に現われた【仮面の男】が、フェルディナントと遭遇したことのある者と同一人物の可能性が高い。この人物は身体能力が高く、非常に戦闘力に長けているが、恐らく街で証言があった、火災の娼館から娼婦を助けたというのはこっちの人間だとフェルディナントは思っている。こちらは非常に謎めいていた。フェルディナントと出会った時も暴行される娼婦を救いに入っていた。
整然と警邏隊を殺し、虐げられる者の為に整然と行動することもある。警邏隊は殺していたが、城では、守備隊とは交戦すらしなかった。イアンにも剣を向けておらず、逃亡する手立てが絶たれると、彼と交戦するよりは死を選んだ。
スペイン駐屯地で行われた殺人とは、この人物の殺しの傾向が違う。
森に出た方の戦う姿を見ていないので分からないが、スペイン駐屯地の殺人は残虐だった。
――これも残虐なのか。そうではないのか。
殺された男の、青白い顔を見下ろした。
一瞬その血の気の引いた色に、傷を負ったネーリの姿が重なって、フェルディナントは顔を背けた。
「……。身元は?」
トロイが側の書類を見た。
「住所、名前、共に分かります。元警邏隊の人間ですね」
「身辺調査をしてくれ。――トロイ。お前に任せるぞ」
フェルディナントと視線を交わす。意味は分かった。
「はっ!」
殺された警邏隊は被害者だ。……同時に、見えない加害者である可能性がある。
以前は何の手掛かりもなかった。だが今は照合すべきリストがある。そこから何らかの手掛かりが掴めるかもしれない。
至近距離で急所に打ち込む。
完全なる殺意で、行う。
【仮面の男】が二人で組んでいたとしたら、『彼』はもう一人だ。
一人で、殺し続ける。
イアンが、言葉すら交わさず塔から落ちて死ぬことを選んだ仮面の男に、妙に同情を感じたと話していたが、フェルディナントは理解出来た。
自分が何者かも語らず、顔すら隠して、暗躍していた仮面の男たち。
彼らがもし二人一組でそういうことを行っていたのだとしたら、孤独なその道をこれからは一人で『彼』は歩まなければならない。
◇ ◇ ◇
「団長」
建物から出てきたトロイが、じっと海の方を見ているフェルディナントに気付いた。
「私はこれから本部に戻ります。……どうされました?」
「……。街でまた事件が起きた。俺は守護職として、街の人間の安全のことをまず考えてやらないといけないはずなのに。すまない。また何か、ネーリに悪いことが起きたりしないか、……それが心配でならないんだ」
トロイは数秒押し黙って、そして口を開いた。
「ネーリ様はフェルディナント将軍にとって、大切な方です。守護職でも、自分の愛する者を持っているのは当然ですし、その無事を願うのは罪ではありません。心配することも。
それにネーリ様にはあんなことがあったばかりなのです。貴方が不安に思われるのは当然のこと」
「……あの画廊のリスト」
今はまだ調査が終わっていないが、分かって来たことがあった。
ミラーコリ教会の神父が言った通り、リストに載る別の人間を今、行政と司法の協力も得て調べている。奇妙なことが分かった。あのリストに載ってる者は、神父が知ってる中でも行方不明者が数人いたが、ヴェネツィア聖教会の者でなくとも、他にも行方不明者がいたのだ。死亡している者もいて、事件は解決していなかった。何人かは生きているが、圧倒的に行方不明者や事件が多い。
フェルディナントに情報をもたらした娼婦は、「今や教会も危うい」と言っていた。
事件の被害者が多く載る、あの謎のリスト。
そこにネーリ・バルネチアの名があった。
フェルディナントはそのことを、ネーリに言いたくなかった。
彼の身を守るためには言うべきなのだろうが、ネーリはヴェネトを、ヴェネツィアの街を、本当に愛しているのだ。街を常に自由に歩き、描いて来た。絵を描くことが彼の生きる目的なのだ。ヴェネトに彼の命を狙う者がいるなどと分かったら、安心して街を歩けなくなる。ネーリの心が不安に満ちているなど、フェルディナントは耐えられなかった。
彼の知らないうちに全てを自分が解決し、彼が脅かされないようにし、語らないまま全てを終わらせたかった。
一番いいのは、今すぐ神聖ローマ帝国に彼だけ送り、その間に事件を解決し、そのあと、ネーリが望むならば、ヴェネトに呼び戻すことだろう。だが、自分と一緒に神聖ローマ帝国に戻るということは、以前より前向きに捉えてくれてるのは感じるけれど、フェルディナントが残り、彼だけが見知らぬ土地へ行くことを、ネーリが承知するかは分からない。
彼は自分の命さえ無事ならいいと考える人ではなかった。
ヴェネトに不穏な事件が起こり続ける限り、故郷を心配し続ける。
「……トロイ。もし、俺が今、ネーリを連れて国に戻って欲しいと言ったら、従ってくれるか?」
トロイ・クエンティンは即答した。
「それ以外の理由での帰国はお断りしますが、その命令を貴方が下されるならば、従います」
言ってみただけだ。
多分、それは、ネーリの望みと違う。
『いつか僕とフレディとフェリックスの三人で暮らしたい。家族みたいに』
この地にある、全ての不幸を終わらせて、共に国に帰る。
それを想う時、ネーリとフェルディナントの心が重なる。
それでもトロイの答えは、フェルディナントの心を少し軽くしてくれた。
「ありがとう……。すまないな、気を遣わせた」
「いえ……フェルディナント将軍は、この、仮面の男がネーリ様を襲撃したと思っておられますか?」
「わからない……。彼が善か悪かもまだ分からない。ネーリは犯人に心当たりがあるようだった。それでも相手を、憎んでいなかった。そしてそれでも、俺に、相手の正体を喋らなかった。……何か理由があるんだろうが、分からない。でも、一つだけ分かるのは、あいつがそうするのは、俺のことを信頼できないから話してないわけじゃないということなんだ」
トロイはフェルディナントを見た。
「信頼はしてくれてる。話さない理由は、信じてないからじゃなくて、何かに俺を関わらせたくないからなんだ」
「この事件のことを、ネーリ様に話されますか?」
「……。どうせ数日で調査の結果は出る。その内容を検討してからだ。
あのリストが事件の被害者を数多く載せていることが正式に分かれば、あの画廊に厳しい尋問を掛けることになる。しかし、相手は大貴族ともなると、やはり俺たちが表立って粛清に立つうちは、駐屯地にネーリを出入りさせない方がいいのだろうかと思う……。勿論、うちには竜がいるから怪しい者など入って来ないと断言出来るが」
トロイにはフェルディナントの危惧が理解出来た。頷く。
「……ネーリ様があれほどの才をお持ちでありながらも、今まで宮廷や社交界と関わらなかったのは、あの自由に好きな絵を描くことを望まれるご気性あってのこと。普通、公爵位も持たれる将軍の想う方ならば、どこに行くにも護衛を付けたり、屋敷の中で気兼ねなく住まえるようにしたり、要するに、手の中で守って差し上げればみな、喜んでくださいました。
ネーリ様は……守られることを望まれない方です。
独りでそこに在ることを恐れるくらいなら、とっくの昔に親しい神父に世話をしてもらい、ヴェネツィア聖教会にでも所属して、その施設で寝泊まりをしたでしょう。あの方は独りになっても、生活が貧しく不自由でも、自由にヴェネトを歩き回り、絵を描くことに全ての力を注いで来られた方。
我々は騎士です。
騎士は、守られることを望んで下さる貴人を守るのは容易いですが、守られることを別に望んでおられない方を、どう守ればいいのか、それは悩ましいことですね」
そうなんだ。フェルディナントは頷く。ネーリが僕の側にいて僕を守って欲しいと言ってくれれば、フェルディナントは簡単だった。でも彼は違うのだ。まだ十六歳で、戦うことを知らない画家なのに、「守って欲しい」とか「僕は守られて当然だ」とか、彼は全く思わないようなのだ。独りだから多少の危険や生活の不自由も仕方ないと、全てを受け止めている。
結局フェルディナントに出来ることは、ネーリの為にこのヴェネトの、王都ヴェネツィアに蔓延する不穏な空気を一掃し、街に平和を取り戻すことなのだ。
いずれにせよ、粛清はすることになるだろう。
あのリストの行方不明者は一人二人ではない。明らかに、組織的な犯罪規模だ。その背景に有力貴族が関わっていたら、社交界にも衝撃が走るだろうし、神父の話ではヴェネツィア聖教会からも不審な行方不明者が多数出ている。そうすればヴェネツィア聖教会にも調査に入らなければならないが、ヴェネトを、王とはまた違う領域で掌握する国教だ。手順は考えなければならない。
あの王妃がこういった城下の不穏をどこまで把握しているかも、それとなく探らなければならないのだから。簡単ではない。
ここが神聖ローマ帝国なら、こういったことは皇帝に直接報告することに迷う必要はない。しかしあの王妃は、病床の王に代わって現在国を取り仕切っているだけで、正式な王というわけではない。王の不在時に、そういった報告を行うと、神聖ローマ帝国軍が城下の不穏を荒立てていると思う可能性も無くはない。
だが逆に王の不在時のことなので、少しの不穏にも目を光らせていたいと望んでいる可能性が全く無いわけではないし、あまり想像は出来ないが、公正な危機報告を喜ばしいと捉えることもあるかもしれない。
とにかく、城下の不穏を王妃がどう捉えているか、報告はそれを探ってからだ。
そして万が一の時にも納得させる為に、証拠となるあのリストの裏付けなどは、どこまでも厳格にすべきだ。そこまでの証拠が揃っているならば、と重い腰をあげる可能性もある。全く、他国では報告書一つ出すのにも余計な気を遣って煩わしいことであるが、とにかく今は一番重要なのはあのリストの真実を正確に暴き出すことである。
行方不明者がリストに載っていることを尋問し、行方を探せるのならば探して、犯罪に巻き込まれ、命を失っていることが確認されれば、あの画廊の主人は殺人事件にも関わっていることになる。逮捕し、正式に尋問すれば、何が出るかだ。
関わった人間が明らかになり、その中にもし、シャルタナ家の人間がいたら、あの時街角でネーリに声を掛けてきたのは、偶然ではないだろう。あの時は肖像画を依頼したいなどと言って夜会に招待していたらしいが、そこに実際足を運んでいたら、一体何が起こっていたかという話である。
(貴族の夜会……)
ふと、フェルディナントは気付いた。
「では、フェルディナント将軍、私は本部に戻りますが」
「ああ。先に戻ってくれ。俺は少し寄ってから駐屯地に戻る」
「わかりました」
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