第2話 亮治は一度で麗華の肉体に溺れた

 工房を出たのはいつもの通り午後六時過ぎだった。駅へ向かって大通りを東に歩き、交差点の信号で止まった時、後ろから声を懸けられた。女の声だった。振り向くと麗華だった。

「話が有るから、途中で呼び止めようとしたんだけど、足が早くて追いつけなかったわ」

そう言って麗華は笑ったが、息を切らしていた。

「それは、済みませんでした、お嬢さん」

「嫌や、そのお嬢さんって言うの、止めてくれない?昔のように、麗ちゃん、で良いのよ」

「はあ・・・それで、何か御用でしたか?」

「相変わらず堅いのね、あなた」

麗華はちらりと流し目をした。笑窪の刻まれる頬に肉が付き、輝くような肌の色だった。女が一番綺麗に見える時期に差し掛かっていた。眩しい思いで亮治は眼を伏せた。

 信号が青に変わって交差点を渡ると、麗華は直ぐに走って来た空車のタクシーに手を挙げた。開いたドアから先に乗り込んだ彼女は、早くいらっしゃい、と言うように亮治を手招いた。亮治が躰を滑り込ませると同時に、車は告げられた行き先へ向かって発進した。

 

 麗華が亮治を連れて行ったのは、歓楽街を外れた市街地の端に在る和風座敷の小料理屋だった。深閑とした広い敷地の奥にひっそりと建つ隠れ家風の店で、表通りの喧騒も聞こえず静かな待合の趣が在った。

仲居が酒と肴を運んで来た。

「さあ、先ずはゆっくり料理を頂きましょうよ」

麗華はかなりの酒を飲み、酔いが回ると機嫌の良い笑い声を立てた。

痺れを切らして亮治が訊ねた。

「君の言いたいことは判っている。今度の縁談が気に入らないんだろう?俺にもそれ位のことは見当がつくよ」

「父から話を聞いてくれたのね・・・違うの。あれは私から父に頼んだのよ、あなたの奥さんになりたい、って・・・」

「えっ?」

「あなた、以前いつか、もう大分前だけど、私に簪をくれたことがあったわよね、失敗作だと言って・・・」

 それは六年前、亮治が初めて人形浄瑠璃に使う錺簪を創るメンバーに加えられた時のことだった。良く出来た一品だと亮治は思ったのだが、豊一親方はにべも無く切り捨てるように言った。

「これは駄目だ。これじゃ売り物にならない!」

紅い珊瑚の玉二つを頭にあしらった銀簪だった。

「だから麗ちゃんにあげるよ、って、あなた、掌に載せて私に見せてくれたの。春の午後の陽射しの中でキラキラと光った簪を、私は息をつめて見詰めていた。今でもよく覚えているわ」

簪には女の心を惹きつける美しさが篭められていた。

「これが瑕疵ものなの?」

「ほら、此処に・・・」

亮治は指で珊瑚の根元を突いた。

「眼に見えないほどだが、傷があるだろう?それで玉が落ちると言うことは無いが、売り物には無理だ。良い出来栄えだと思ったんだが、これで失敗作だよ」

「ちょっと座って見な、ってあなたに言われて、私は母屋の縁側に腰掛けたの。すると、あなたは私の後ろに回って、髪にその簪を挿してくれたの」

「良い簪だ、麗ちゃんにぴったりだよ」とその時、亮治は言ったのだった。彼は唯、心を込めて作った簪が捨てられてしまうのを惜しんだのかも知れなかったし、又、その簪で美貌の麗華を飾ってみたい気持が在ったのかも知れなかった。

「私はあの時、大学に入ったばかりだったけど、あれ以来、あなたのことが大好きになったの」

そうか、そんなこともあったなぁ・・・亮治は懐かしく想い出した。

 麗華がじっと此方を見詰めているのを感じながら、亮治は盃を取り上げた。

その時、麗華がふわりと立ち上がって、ミニスカートの裾を翻して座卓の縁を周り、亮治に躰をぶつけるようにして傍ににじり寄った。

何気無く亮治が手を差し伸べると、麗華はその手に縋りついて彼の胸に躰を投げ込んだ。

二人は激しく抱き合って唇を重ねた。麗華の躰の中を火のようなものが走り抜け、陶酔が波のように次々と打ち寄せて彼女は躰の力を失った。

それは眼も眩むような愉悦に満ちたひと時の始まりだった。最早、麗華の肉体は麗華のものではなくなっていた。昇っては沈み、沈んでは昇る堪らない喜悦の拡がりの中で、彼女は知り得る限り、有らん限りの性愛の秘術を尽くして奔放に乱れ、のた打ち回った。何処でどう体得したのか、二十五歳の女盛りの肉体は留まるところを知らずに乱舞して、亮治の男を吸着し尽くし奪い尽くした。二人は激しく昇り詰めて、同時に一緒に果てた。

 漸く事の余燼が退いて躰を離した麗華が徐に言った。

「私とこうなった以上は彼女と別れて頂戴!」

「えっ?」

「居るんでしょう、一緒に暮らしている人が・・・」

「うん、それは・・・」

亮治は曖昧に答えた。

「知っていたのか?」

「ええ、まあ・・・」

「知っていて俺と結婚しようと言うのか?」

「私はあなたが大好きなの、あなたを、心底、愛しているの、だから・・・」

 

 亮治は一度で麗華の肉体に溺れた。

それから二人は三日と空けずに逢瀬を重ね、会えば必ず睦み合った。

だが、今日は違った。肩に延ばした亮治の手を麗華は外した。

「どうしたんだ?」

「今日は駄目・・・」

「なんで?」

「気分が良くないの」

麗華はそっけなく言った。

亮治は仕方無く麗華から離れ、俯いて盃に酒を注いで無言で飲み干した。

「あなたが悪いのよ」

亮治の様子を黙って見ていた麗華がすり寄って来て言った。亮治が見返すと、彼女は眼を合わせたまま頷いた。

「だってそうでしょう?あなたは彼女と別れると言いながら一向にその気配が無いじゃない?」

「・・・・・」

「私の身にもなってよ。父に報告をしなきゃならないのよ。一体、何と言ったら良いの?」

「判った。近い内に必ずカタを付けるから」

「駄目!」

肩に延ばした亮治の手を麗華はまた柔らかく外した。

「今晩帰ったら、言って!」

「今夜はもう遅いから無理だ」

「じゃ、明日、言ってよ。明日、真直ぐに家へ帰って話して!」

「判った。明日、必ずケリを付ける」

「うん。それまでお預けよ、あれは」

麗華は両手で胸の膨らみを押さえる仕草をして笑い掛けた。男を虜にする蠱惑に満ちた笑顔だった。

亮治は愈々決断を迫られ、漸く、決着を着ける決意を固めた。

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2025年1月10日 09:00
2025年1月11日 09:00
2025年1月12日 09:00

お題短編「愛の原点回帰~掛け替えの無いもの~」 木村 瞭  @ryokimuko

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