骨を砕いた桜時計

PROJECT:DATE 公式

嘘だと言って

湊「ゆうちゃん?」


詩柚「んー?」


湊「どうかしたの?なんか怖い顔してるから、どうしたのかなーって。」


詩柚「何にもないよぉ。強いていうなら、ちょっと眠くて。」


湊「そうなんだ!夜更かしだ!」


詩柚「ふふ、そうだねぇ。」


夜の海に浮かぶ灯台の光が

水面に映ったように

不安定に輝く笑顔だった。

足元に敷かれた

真っ白なカーペットを踏む。

隙間の潰れる音が鳴る。

靴跡がいくつか疎らに残った足元を見る。

すると、視界の隅で

震える指先を見つけた。


湊「手ぶるぶるだよ、寒いんでしょ!手袋貸してあげる!」


詩柚「でも、湊ちゃんが寒くなっちゃうでしょお?」


湊「マフラーに埋めるの、こう!」


詩柚「…あはは、危ないよぉ。」


ゆうちゃんは目尻を下げて

おっとりと笑ってくれる。

その笑顔が好きで、

いつだって笑わせていたくなる。


ゆうちゃんが笑顔になってくれるなら、

うちはいつだってにこにこでいるよ。


湊「大丈夫だよ!」


彼女の数歩前へと大股で追い抜き、

転ばないように足を止めて振り返る。

はら、と目の前を

雪がひと粒舞い降りた。


湊「だって危なくなったら、ゆうちゃんが助けてくれるもん!」





°°°°°





湊「いってきまーす。」


はあい、と台所から声がする。

蛇口から流れる水を止め、

玄関までお見送りをしようと

どたばたと足を鳴らすお母さんがいた。


お母さん「コートは…着てるね。カイロ持った?寒いよ。」


湊「持ったよん。」


本当は持ってない。

けれど、ほいほいと嘘偽りなく答えたら

カイロも水筒もおまけに

予備の鍵やお金まで

持たされることを

帰省していたここ数日で学んだ。


湊「水筒もお金もだいじょーぶ。ちょいとその辺散歩してくるだけだからね。2時間程度で帰ってくるよ。」


お母さん「わかった。何かあったらすぐ電話してね。」


湊「はーい。んじゃいってきまーす。」


玄関から足を踏み出すと

途端に息が白くなった。

実家は山のほうにあるおかげで

日が当たっていたとしても

昼間ですら凍えるには十分の寒さだった。

お母さんの見送る範囲では

手袋を身につけた手を出し、

家の中に戻っていったのを確認して

ポケットに突っ込んだ。

2階建ての実家を見やる。

今回のような年末や

お盆に帰省していたのには変わりないが、

1週間ほども滞在するのは

およそ3年ぶりだった。


湊「さみ。」


畦道に転がる石を蹴らないように歩く。

そろそろ高校も

登校日になる頃だろう。

遠くで自転車を漕ぐ

中学生くらいの男子が3人見えた。


退学する、と決めたはいいものの、

先生に相談した結果

学費を納めるのは前期、後期といった

2回に分かれているらしく、

既に今年度分は払っているようだった。

その後全てのテストが白紙同然になるのなら

学校に行ったって無駄なのだが、

決意が揺らいでしまって

在学処置をとった。

一昨年留年している手前

お金を無碍にすることを恐れたのか、

楽しいと思えた学校生活を

泣く泣く捨てることを躊躇ったのか、と

帰ってから珍しく自分と会話した。

結局こうして帰省したまま

無断欠席を続けているあたり

結末は同じなのに。


年末、一叶ちゃんに集められて

久しぶりに成山ヶ丘高校へ向かった。

園部さんとはさほど関わりがなかったけれど

仲良くしたいなと思っていた。

が、どう処理すればいいのだろう、

情報の雨と共に園部さんはいなくなった。

どうやら七ちゃんが探しているらしいが

今でも会えないらしい。

成山に向かった時、

もしかしたらゆうちゃんに会えるのではと

密かに思っていたのだが、

冬の花火大会でうちが休んだのと同様に

ゆうちゃんは姿を表さなかった。

連絡も取り合っておらず、

今誰がどこでどんなふうにして

過ごしているのかてんでわからない。

たまにTwitterが動いているのを見て

生存は確認できる程度。


湊「……あんだけべったりだったのに。」


ゆうちゃんとうちは付き合っていた。

6年か、それ以上か。

彼女はうちのことを離そうとしなかった。

山に囲まれた田舎で一緒に育って、

いつからか一緒に遊ぶようになった。

いつもうちの家で遊んで、

夕方になったら背を小さくした。

家族のように、ずっと近くにいた。


しかし、時を経て

一緒に下校するようになった。

うちが上京すればこそっと着いてきて

近くの家を借りていた。

通っていた高校を中退し、

うちと同じ高校に入学し直した。

監視するかのように、ずっと近くにいた。


ゆうちゃんから別れる選択をしたことも

もちろん驚いたのだが、

1番は離れても大丈夫であることに

衝撃を受けていた。

彼女が精神的に自立した、

もしくはしようとしている最中であって、

それはとても素晴らしく

褒められるべきことであるはずなのに、

何故か手放しに喜べない。


ポケットに突っ込んだ指先は

温まることはないのに

しっとりと汗だけ浮かんだ。

鞄を漁ると持ってなかったはずのカイロが

ひとつだけ潜り込んでいた。

取り出して封を切る。

手袋を外して直接掴むも

まだ冷たいまま手の中で眠っている。

家の中で開封してから来ればよかった。


湊「ちべたい。」


どこに行っても何しても

監視されているように感じてしまって

息苦しかった。

そのはずだ。

なのに、離れた今となっては

ゆうちゃんのことばかり考えている。





°°°°°





湊「うちは納得してないよ。」


詩柚「…。」


湊「どうしていつもそうなの。相談もしないで、ぜーんぶ勝手に決めて、1人でどっか行くの。」


詩柚「…。」


湊「うちは…うちは、そんなに頼りない?」


詩柚「違うよ。頼りなかったなら、ご飯も何もお願いしてない。」


湊「…っ……重要な決断はいつも1人でするよね。そのことを話してるんだ。」


詩柚「なら、湊ちゃんはどうなの。」


湊「うちは」


詩柚「本当に悩んでたこと、話してくれた?」


湊「…!」


詩柚「一昨年留年する時の話とか、今年度何かに巻き込まれてたなら、その話とか。」


湊「……それは…。」


詩柚「心配をかけたくなかったとか、いろいろあるのかもしれない。でもね、お互い話せないことや話さないことだらけの関係になっちゃったんだ。昔のままじゃなくなったの。」





°°°°°





湊「もっと話してたら違ったのかな。」


あの時、どきっとした。

心臓から出ていく血が

どんどんと温度を落としているように思えた。

うちはゆうちゃんに

なんでも話しているつもりだった。

学校で起こったこと、

バイト先で起こったこと、

部活で起こったこと。

けれど、大切なことは隠して

何にも話さなかった。

心配をかけたくなかったから。

知られたくなかったから。

もしかしたら、失望されたくなかったから。


散歩がてら懐かしい顔に挨拶する。

年末年始から滞在していたし

挨拶回りもしていた関係で、

うちがまだ神奈川県に帰っていないことは

多くの人に知れ渡ったままだ。

狭くて暖かいコミュニケーションの場だった。


毎日湊ちゃんの顔が見れて嬉しいよ。

いつまで居られるの?

人手足りないからお金に困ってたら

いつでもきてちょうだい。

これ、畑で取れたの。持っていって。


湊「いいの!?やったー!ありがとーございます!」


1人で散歩することは

これまでにも何度かあったけれど、

どこに行くにも

ゆうちゃんの影の名残を見る。





°°°°°





詩柚「うんうん、そうなんだあ。え?ちゃんと聞いてるよお。」



---



詩柚「いいよお、付き合うよお。門限はあってないようなもんだしねえ。」



---



詩柚「湊ちゃんのお母さんに怒られそうになったら、私がなんとか言っとくよお。大丈夫、湊ちゃんは好きなように過ごしてくれれば。」



---



詩柚「一緒に帰ろ。」





°°°°°





うちの記憶がはっきりする頃には

既にゆうちゃんは近くにいた。

家族も同然のように過ごしてきた。


湊「そりゃあどこに行ってもゆうちゃんと歩いた記憶しかないわけだー…。」


彼女になって

近くなりはしたけれど、

時に重苦しく、時に心地いい

あの距離感は変わらないと思っていた。

だからこそ。




°°°°°




詩柚「私も、湊ちゃんも変わった。」


湊「…っ。」


詩柚「大好きだよ。これからもずっと、湊ちゃんが幸せに過ごすことを願ってる。」





°°°°°





今でもあの選択の真意を図りかねて

未練として心臓の奥に溜まっている。

子供のように、何故、何故と

問うことをやめられないでいる。

けれど、本人に問うても

答えは教えてくれない。

話してくれない。


湊「……うちが、気づかなきゃ。」


離れられて清々している。

離れてしまって不安になっている。

このままでいたい、このままでいたくない。


うちの幸せを願うなんて言わなければ、

あの言葉がせめて嘘であれば、

気に留めることもなかったのに。

嘘であってくれればよかったのに。


遠くまで足を運んだ。

懐かしの中学校や小学校を横目に

田舎をぐるっと1周して帰宅すると、

家からはお腹を鳴らすほどの

いい匂いが漂っていた。


湊「たらいまー。」


お母さん「…!おかえりなさい、ご飯もうすぐできるよ。」


湊「はーい。」


家に帰ったらご飯があるって

とてもありがたいことだ。

一人暮らしをしていなかったら

今でもこれほど

感謝することはなかっただろう。

手を洗ってつけっぱなしのテレビを

数分目で追っていると、

食卓にテーブルクロスが敷かれた。

思っている以上に気が抜けてたみたい。

慌ててお手伝いに向かった。


湊「いただきまーす!」


お母さん「いただきます。」


2人で暮らすには広い家だ。

うちがいない間は、

2階建ての一軒家に

お母さん1人で暮らしている。

お父さんも昔はいたんだけど、

うちが小学生の頃にいなくなってしまった。

その頃のことを

全く覚えていないのだけど、

お母さんは「亡くなった」と言う。


中学生の時にも同じようなことを聞いては

はぐらかせたことを理由に

捻くれていた時期がある。

みんな信用ならない、知らない、と

心の奥底では見捨てるようなことを

思っていたような気がする。

根本は大層な変化はなかろうと、

多少は丸くなったのではないかと思う。

この3年間で変化ばかりだった。

狭い世間、世界全てだった田舎を出て

広い世界を目の当たりに

したからかもしれない。


湊「あ、昔使ってた教科書とかってどうしようね。」


お母さん「まだとってあるでしょう。」


湊「うん。うちの部屋に置きっぱ。年末もどうしようか悩んでたんだ。」


お母さん「教科書もそうだし、宿題ノートもじゃない?」


湊「宿題ノート!なっつかしー!あれでしょ、自分で線で区切って自主するところと3行日記を書くところに分けてさ。」


お母さん「そうそう。それで言うと小学生の頃の漢字ノートとかも全部とってあるよ。」


湊「うわわ、懐かしすぎる…。流石に小学生のは捨てていいんじゃないかなとも思うけど。」


お母さん「捨てても捨てなくてもいいんなら置いておいてよ。実家だし場所はあるんだから。」


湊「そうだけどー…どんどん荷物増えてっちゃうよ?」


お母さん「そしたらお母さんの物を捨てるから。」


湊「だはは、なんでそうなっちゃうのさー。じゃあお互い物を捨てすぎないでいいように、今必要か見極めて買い物しなきゃだね!」


お母さん「あはは、そうだね。」


お母さんはうちみたいに

賑やかな人ではないけれど、

話していると笑ってくれるし

楽しそうに声を弾ませる人だった。

数年前こそどん底に落ちたような

暗い表情ばかりしていた記憶があるが、

今となってはそうでもないらしい。

数日間の間に

笑顔を見る回数が増えて安心していた。


湊「年末ざっくりと大掃除したけど、まだまだいい掘り出し物があると思うんだよね。」


お母さん「そうかも。少なくとも物置にはたくさんあるよ。昔遊んでた電車のおもちゃとか、音のなるぬいぐるみとか。」


湊「えっ、やばいあったかも。夜中に物置から音が鳴ると思うと怖くない?」


お母さん「電池抜いてるから。」


湊「そうだろうけどー、そういう時に鳴るってのが1番怖いやつじゃん!」


お母さん「これまで鳴ってないのにそう言われたらふあんになるじゃん。後で見てくるよ。」


湊「わーわーいいって、うちの冗談じゃん!うちが見てくるからねー。」


お母さん「自分で見ないと安心できなくない?」


湊「うむむ…言いたいことはわかる…。」


お母さん「お味噌汁冷めちゃうよ。」


湊「うす、いただきやす。」


テレビでわはは、と

笑い声が響く。

年末年始の特番も終わり、

普段目にするバラエティや

ニュースといった

日常と呼べる内容に戻っていた。


湊「そいえばさ。」


お母さん「うん?」


湊「昔、うーんと昔さ、テレビの真ん前にソファってなかったよね?」


お母さん「…あぁ、そうかも。食器棚とテレビの位置は変えてないけど、ソファをずらすだけで結構変わったね。」


湊「ねー。模様替えってわくわくするんだよね。学校で言う席替えみたいな!」


お母さん「わかるけど、今の位置から変えるつもりはないからね。」


湊「えー、やんないのかー。」


お母さん「今の位置が1番いいの。動線的にもこれがちょうどいいから変えない。」


こうなったらお母さんは

意思を全く変えないのだ。

鋼の芯のような表明を前にすると

もちろんうちが折れるしかない。

そもそもさほど本気に

考えていなかった模様替えについて

ここまで強く言い切られるとは。


湊「ふあーい。」


ほかほかのご飯をかきこみ、

解しやすくなっている魚を摘んだ。


先にお風呂に入り、

その間に本当に物置を見に行ったようで

ちゃんと電池は抜いてあったと声を落とす。

不安を煽るようなことを言うのは

控えておこうと再度うっすら脳裏をよぎった。


自分の部屋のベッドは

帰省した時から埃ひとつすら被っておらず

丁寧に扱われていたことがわかる。

長年同じ位置のせいで

掛け布団は日焼けしたり

畳は1部色褪せたりはしているけれど、

それもこの部屋たらしめる

要素のひとつであって

古くさくとも嫌いにはなれなかった。


湊「よいしょっと。」


体がほかほかなまま

中学時代のジャージに身を包み

敷布団と毛布の間に転がり込む。

1日、1日と

何もなし得ず終えていく。

それに焦りを感じ

何かしなければと思いつつも

布団から出られずにいた。


学校には行かなくなったが

外には出ている。

散歩している。

人と話している。

それでも、進めていない感覚に気分が塞ぐ。

ご飯も作ってもらって、

働かずともお風呂も入れて、

日中は何もせずぶらぶら歩く。

こんなにも立ち止まった日々は

ろぴと…いろはと1週間ほど

いろはのおばあちゃんの家に

滞在した時以来だ。

いや、あの滞在期間も

いろはとうちの間のつながりは

些細ながら変化していたように思う。

今、自由であるのにがんじがらめなのだ。

休んでいるだけ。

罪悪感を感じる必要などないのに、

これまで動き続けていた分

今の自分との落差に落ち込む。

明日が来ないのではないか、とたまに思う。

そのくらい、普段の何倍も布団が重い。


バイトのシフトを眺める。

長期期間帰省するだろうことを見越して

1月いっぱいは出られないと伝えた。

2月のことは…またいつか決める。

学校の友達には何も言っていない。

登校日がいつかすら知らない。


湊「はぁ…。」


スマホを眺める。

SNSを見れば見るほど

気分が下がっていくのは目に見えているのに、

暇であればあるほど

悪循環を乗り切れずにいた。

数時間潰した頃、

眠れないままにお手洗いへと

ようやく布団から抜け出す。

足が冷たい。

スリッパを履こうか束の間迷うも、

面倒になって靴下だけ履いた。


湊「…?」


1階にしかないお手洗いへと向かおうと

自分の部屋の扉を開き

階段に差し掛かろうとした時だった。

下から話し声がする。

1人の声しかない。

無論、お母さんだ。

誰と話しているのだろう、

日付が変わる前後であり、

話している相手の声も聞こえないので

電話であることは間違いなかった。


お母さん「…………ょ………から…。」


湊「…。」


階段に座り込み、

1段、1段と音を鳴らさぬよう下る。

床が軋まないよう

最新の注意を払って、

ゆっくり、ゆっくりと足をつく。

靴下を履いてきてよかったが

どうでもいいところに

運を使った感が否めない。


お母さん「…………………。」


湊「…。」


お母さん「……………ぅ………。」


誰と話しているのだろう。

お母さんがこんな時間に。

もしかして再婚するかもしれない

お相手だったりして。

うちの子育てもほぼ終わったようなものだし

自由な時間はさらに増えたはずだから

恋話のひとつやふたつ

あったっておかしくない。

若くはないかもしれないけれど、

出会いはいつあってもいいもんだから。


そう思うとわくわくしてしまって、

一層ちゃんと聞こうと中段まで降りる。

階段の手すりから

頭や体が出ないようにしつつ

腰を上げて身を乗り出し

耳を傾けたその時だった。


しん、と息を潜めた家。

誰もいないんじゃないかと思うほどの

静寂に包まれた後、

1滴、水の落ちる音がした。


そして。




お母さん「……殺したのは、私だから。」




嫌なほど

鮮明に聞こえた

それ。


自分の耳を疑った。

自然と目を見開くのがわかった。


聞き間違いじゃないだろうか。

聞き間違いじゃないだろうか?


壊したのは、だとか。

揃えたのは、だとか。

飛ばしたのは、だとか。


聞き間違いじゃ。


湊「…っ。」


その時、あまりの動揺に

よろめいて階段が鳴った。

はっ、と息を呑む音がした気がする。

気のせいか?

うちの音か?

いや、違う。

きっと、お母さんが気づいて──。


走って自分の部屋に戻るにも

あからさますぎて怪しまれる。

がた、と椅子を引く音がした。


こっちにくる。

咄嗟に背を伸ばして立ち、

まるで今たまたま目覚めましたと

言わんばかりに目を擦る。

大きな欠伸をしているところ、

お母さんの顔が下からにゅ、と伸びた。

危機一髪と言うべきか、

表情から悟られないように

まだ目を擦ったりしばしばと瞬きしたりする。


湊「ふぁ……ん…?お母さん…?」


お母さん「…どうかした?」


湊「え?トイレー。」


お母さん「ああ、そう。ごめんね。」


湊「…?」


何が?と聞いたら

電話してたから、と答えるかもしれない。

けど、普段のうちだったら

ここは踏み込まないはず。

いつも自分でいるはずなのに、

こんな時に限って

普段の自分がわからなくなる。


お母さんがまた食卓へと戻っていく。

電話はもう切ってあるのだろうか、

電源を落としていたテレビを

誤魔化すかのようにつけて

ソファに深く腰掛けた。

できるだけお母さんを見ないように、

いつも通りに、

いつも通りにお手洗いまで向かう。


個室に入ってようやく

胸を撫で下ろした。

知らずのうちに冷や汗が

どっと噴き出ていたらしい。

ヒートテックの内側が

やけにしっとりとしていて気持ち悪い。


湊「……。」


あれは、一体なんだったんだろう。

聞き間違いじゃないなら、なんなのだろう。

本当に……

本当に?

本当、なわけ。

お母さんが。

……。

信じるわけない。

信じ、られない。

何かのドラマの話……とか。

フィクションの話であって。


……それにしてはやけに冷たく

刺さるような視線を

階段下から向けていたことが、

あの顔が忘れられない。


湊「……っ。」


誰でもいいから

嘘、と言ってくれないだろうか。

1人、誰にも知られぬ夜に

口元を抑えてその場にしゃがみ込んだ。

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