開戦の足音
信夫は少女の家の前に着く。彼女の家は閑静な住宅街の中にあった。そこは都会から少し離れた郊外で、小さな森を超えた先にある。建ち並ぶ家は、家と聞いて一般的に思い浮かべるものよりも大きく、それぞれが高い塀に囲まれていた。モダン建築から西洋趣味、ポストモダン風の奇怪なフォルムなど、その形は様々で、それぞれの思想や趣味にお金をかけている様子から、彼らの生活がうかがえた。
ファーフナーが少女のことを家に送れと命令したことにいら立ちを感じていた。いくら上官の指示だろうと、子守なんてしたくなかったのだ。
信夫は車を止めると彼は助手席に座っている少女の事を見つめる。少女は自分の家をぼんやりと見つめていた。彼女の家はそんな住宅地の中では小さく、一般的なものに近かった。普通あんなことを体験した後なら、家に着いただけで涙を流しそうなものだろう。だが、少女はまるで他人の家を見るような視線をそこへ送っていた。
彼女は西本佐奈と名乗った。案外、普通の名前なんだなと信夫は思った。
見た目はどう見ても、普通の子供だった。しかしあの瞬間、イデアガンに目覚め、信夫の命を奪おうとしたとき、一瞬浮かび上がった無表情は明らかに異常だった。死が迫っているのに、その眼は恐怖に揺らぐこともなく、ただ真っ直ぐに信夫をのぞき込んでいた。
「ねぇ、おじさん。あそこに来た、他の人はどうなったの?」
佐奈は信夫のことを見る。戦いの後にもかかわらず、その眼には信夫への不信感すらなく、純粋で、完璧すぎる子供らしさがそこにはあった。無垢で何も知らない、何も疑うことがない、そんな子供らしさがその眼には満ちていた。
「分からん。それはファーフナーが決めることだ。しかし、お前は命拾いしたな、初めての戦いでここまでやれるのは、正直感心するぞ」
「ありがとう」
そう佐奈は言うと彼に向けて笑みを浮かべる。その笑みは本来、感謝に満ちているはずなのに何所か仮面のような雰囲気を漂わせていて、彼は佐奈のすべてが人工物であるかのような印象を覚えた。
佐奈はドアを開けて、車から出ると不意に振り返る。彼女は言った。
「ねぇ、また会えるの?それとも、このこと忘れた方がいいかな?」
信夫は抑制的な声色でそれに答えた。
「それは、ファーフナーが決めることだ。だが、気を付けろ、何かこの世界で異変が起こっている。数日中に日常は崩壊するだろう」
「そっか。それじゃあ、私も戦うことになるね」
「子供は戦わないさ。お前たちは大人のやることを見てればいい」
そう言った時、一瞬、佐奈の瞳が曇ったような気がした。彼女はそれに応えることもなく、車のドアをバタンと音を立てて閉めた。
佐奈は駆け足で、玄関に向かう。扉を開けると家の中は明るく、様々な雑貨で飾られていた。佐奈は玄関先に置いてあるアンティークのフクロウ像を一回撫でると靴を脱いだ。
その時、誰かが走り寄ってくる。振り返ると佐奈の母親が彼女を心配そうに見つめていた。名前は西本花、専業主婦をしている。顔つきは心優しく、顔を見るだけで善人だと分かる。髪は短く毛先はギザギザで、おそらく自分で髪を切っていることがうかがえた。
彼女の表情はいつも優しかった。どんなときもその表情を浮かべながら、佐奈の事を支え、見捨てることはなかった。だが、佐奈にとってそれはとても重かった。その優しそうな表情が暴くのは、母のやさしさに応えられない自分だった。ただそれは単純に恩知らずだったわけではない。その優しさにどう応えればいいのか彼女には分からなかったのだ。
「佐奈、大丈夫!さっき出たばかりじゃない、何があったの?」
と母の目は不安に震えていた。佐奈は、自分は到底こんな目をすることができないだろうと思った。
「母さん、大丈夫だよ。ちょっと薬飲むのを忘れただけだから」
「そうなの、それは良かったわ。じゃあ、早くしなさい。学校に遅れちゃうわよ」
母はそう言うと嬉しそうに佐奈を見つめてくる。その眼差しは母が思っているより
も、鋭く、凶器のように佐奈の心に深く入り込んだ。
その時、「佐奈!」という声と共に、母に両肩を掴まれる。一瞬で、結芽ちゃんは消え、ただ母の心配そうな顔が目の前にあった。
「佐奈、早く薬を飲みなさい…そうしないと、お母さん、あなたがどこか遠くに行ってしまいそうで心配で…だがら…」
「ごめん、母さん、心配かけちゃって。今度はちゃんと飲むよ、安心してね」
「そう、大丈夫なのね。声はもう聞こえない?妄想もない?」
「うん、消えたよ。母さん、心配してくれてありがとう…」
本来なら、もっと明るく、思いやるような声で言えばよかったのだろう。だが佐奈はそのセリフを完璧には言えなかった。最後のところで、声が擦れてしまう。完璧な西本佐奈ではないといけないのに、今日もそれから少しずれてしまう。
そのミスは、自分が自分でなくなっていくような恐怖を佐奈に抱かせた。いつか、みんなが知っている西本佐奈は独り歩きして、本当の私は消えてしまうかもしれないと彼女は思っていた。だが、本当の自分とは何かと考えても、その答えは見つからない。だから、佐奈は完璧な西本佐奈にならなければいけなかった。何故ならそれからずれてしまったら、そこにはただ無しか残らないからだ。
リビングに入るとテーブルには飲み忘れた薬が置いてあった。薬は二つあって、一つは青く、もう一つは白くて小さかった。薬の味が佐奈は嫌いだった。その強い苦みの上には曖昧な甘さの霧がいつも漂っている。それは彼女にとって中途半端で気持ち悪いものだった。
佐奈が薬を飲み込んだ、その時だった。突然すべての照明が消える。いつも、つまらないワイドショーを流していたテレビも完全に沈黙していて、その黒い表面にはたいして驚くこともなく、コップの中で揺らぐ水面を見つめている佐奈の姿を映していた。
「停電!!佐奈、ちょっとこっちに来なさい」
と母が呼び掛けてくる。佐奈は口の中に残った苦みを流すために水を一杯飲んだ。
玄関の前で母はスマートフォンを手に持ったまま、呆然と立ち尽くしていた。
「どうしたの?」
そう佐奈が聞くと、彼女は不安そうに声を震わせながら言った。
「あのね、お母さん、佐奈が遅刻しそうだったから、学校に電話していたの。でも、停電が起こった時、突然、通話が切れて…佐奈、今日は学校を休みなさい
」
通話が切れるという事はかなり広域的な停電ということになる。でも、今のネットの多くは衛星通信だから、大丈夫なはずと、そんな頭に考えがよぎる。
そう思ってスマートフォンを取り出すが、衛星との通信容量を表すパラボラアンテナのマークが完全に消えていた。この時代には、もうWiFiというものはもう無くなっている。軌道上にある衛星から、宇宙空間と大気圏の境界を飛行しているドローンが通信を仲介し、世界のどこでもネットが使えるようになっているのだ。
それを見たとき、いつも冷静沈着な佐奈でも思わず驚いてしまった。今の時代、どんな場所でもネットが使えるのに、それがすべて落ちてしまっているのだ。
母の視線が突き刺さる。彼女は純粋に子供を守ろうとしているだけなのだ。しかし、佐奈はこのまま何もしないでいたら、何も変わらないと思った。
「母さん、私、今から学校に行ってくるね」
そう言った時、母の視線が揺らぐ。透き通った水面の上に、ゆっくりと波紋が広がっていくように、子供を思うような優しさを湛えたその眼差しには、一擲の不安が少しずつその影を落としていく。佐奈はその視線から逃れようとして何かを言おうとするが、それを母が止める。それは言葉ではなく、無言の緊張のようなものだった。
何もいないはずなのに、そこには何かが居る。誰も望んでいないはずなのに、誰かが佐奈に懇願している。その緊張は決して破ってはいけない、決して口に出してはいけない、一つの愛情の現れなのだろう。だが、佐奈はそれに応えられなかった。
「学校に行けば、何か情報が手に入るはず…それに、通信が出来ないなら、私が下手に顔を出さないでいると何かに巻き込まれたかと思われて、状況次第では二次的な被害を作ってしまう。だから、母さん、私は学校に行くよ」
佐奈は答えを待っていなかった。そもそも、自分がなんで誰かのために動いているのか分からなかった。おそらく佐奈は自分に噓をついていたのだろう。彼女は人を助けたいわけではない。ただ、今起こった非日常が自分を変えてくれると思っただけなのだ。
「待ってっ!!」
という声が佐奈の肩を掴もうとするが、それは微かな追い風となり、彼女を家から押し出した。佐奈は振り返らなかった。耳を塞いで、ただ走った。
しばらくするとその声も聞こえなくなっていた。都会から少し離れたこの町から、学校に行くためには電車に乗るしかない。だが、停電してしまっているため、列車には乗れないだろうと佐奈は思っていた。それでも駅に向かったのは、人が集まっている可能性が高いため、何か情報が手に入ることがあるはずだと思ったからだ。
駅に近づくごとに行きかう人が増えていく。道路には遠くまで車が続いていて、先が見えない渋滞になっていた。無数のクラクションの音と排気ガスが息を塞ぐ。駅の方向から来る人は表情を失ってしまって、ただ体の震えだけが残っていた。ある人は不安げな表情で子供の手を引きながら駅に向かって行った。たぶん何かが起こっているのだろう。駅で何が起こっているかは、駅の方から逃げ出してきた人々しか知っていない。
佐奈はその中から暗い表情の親子に話しかける。二人は涙を浮かべていた。
「ねぇ、駅はどうなってるの?」
そう聞かれると二人は一瞬驚いたように目を見開いた。だが、その眼は分厚い瞼に閉じられてしまう。父親は一言だけを佐奈に残した。
「行かない方がいい」
二人はその後、人の波の中に消えた。痕跡も残さず、そこに存在していなかったかのように。佐奈は彼らの後を追おうとしたがもう遅かった。
それから、しばらく歩くと駅の姿が見えてくる。消防員たちが辺りを封鎖していて、その中には入れなかった。駅は何か巨大な怪物に壊されたかのように、その天井には大きな穴が空いていて、中から火が上がっている。辺りには瓦礫が散乱し、ガラス片やコンクリートの破片、剝き出しになった鉄骨が消防員たちの救助活動を邪魔していた。
おそらく、まだ駅の中に人が残っているのだろう。一人の女が封鎖を超えて、煙が噴き出す崩れた駅の入り口の中に消えていった。消防員たちは疲れきった表情で、それをただ眺めているだけだった。
佐奈は人込みから離れると近くの公園のベンチに座った。ここは驚くほどに人がおらず、少し落ち着けると彼女は思った。ふと空を見ると鳥が飛んでいる。こんな災害時でも鳥の日常は変わらない。炎の黒い煙の中には透き通った春の青空が見え隠れしていた。
その時だった、その空を何かが横切る。巨大で龍のような影、明らかにこの世のものではない。戦闘機とはフォルムが違うが、それと同じスピードで飛んでいるように見えた。
「これじゃ、歩いていくしかないよね…」
そうため息をついて、佐奈は歩き始めた。心には不思議と不安はなかった。
その時、駅の方で叫び声が上がった。飛び去ったあの怪物の仕業かどうかは分からない。たぶん誰かが死んだのだろうと佐奈は思った。
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