イデアガンズ

時川雪絵

邂逅  

 西本佐奈は陰鬱さを感じていた。その為か自然と足取りは遅くなり、空気は普段より重く感じられた。空は薄曇りで、辺りには湿気が立ち込めている。雨は数分前に止んだ。風景は潤んでいて、街は雲の隙間から差し込む光を帯びて輝いていた。


 何故、こんなにも陰鬱なのだろうと佐奈は自分に問いかける。曇り空が晴れてその光を浴びたら、普通の人間ならどんなに暗い気分であってもそれは一瞬にして吹き飛ぶだろう。だが、彼女は違った。冷たい風を切るように、春の温かい光が頬を撫でる。だがそれは佐奈にとって気持ち悪いものだった。


 ショートボブにした髪は、風に乗ってふんわりと浮かんでいて、軽やかになびいている。佐奈はいつも笑顔で、どんなに暗い気分であっても微笑んでいた。彼女は明るく可愛らしい顔つきで、ほかの生徒からも人気があり友達も多かった。その笑みの中には不意に冷たい無表情が浮かび上がることがあり、独特の不気味さと表面的な明るさが常に混在している。いつもフレンドリーに振舞っているが、本当は何を考えているのは全く分からない。


 それでも佐奈はよく周囲から「中学生に見えない」と言われる。顔には幼さが残っているが口調は大人びていて、どこか彼岸を見ているかのような雰囲気があった。その笑みに潜んでいる真っ直ぐな眼差しには、年相応ではない、彼女の理知的なところが表れていた。


 珍しく通学路には人が誰もいない。ほかの生徒たちは何処へ行ってしまったのか。佐奈はそんな奇妙な状況を楽しみつつ、早朝の柔らかい光を避けるようにして日陰を歩き、鼻歌を口ずさむ。そうしていると、歩調は自然とリズムを刻みだし、気分が少し晴れた気がした。


「中学生なのも今年で最後。高校生になれば終わるかな」

と彼女は呟く。佐奈は自分のことが分からなかった。自分が何を考えていて、何者なのか。周囲からは「大人びている」「将来が楽しみ」と様々なことを言われる。その一つ一つが他の人にとってほめ言葉だったにもかかわらず、孤独は収まらなかった。

その一つ一つが、どうしても自分だとは思えなかった。彼女に期待する親、いつも心配してくれる友達、佐奈に笑いかける教師たち。でも、その全部がまるで鉛の皮を着ているように重く、自身とずれていくのだ。そこには、佐奈ではない佐奈が、生活している。


「はぁ」

とため息をついてしまう。佐奈は思った、こんな日常なんて、早く終わればいいと。

 

 いつも通り何もなく校門の前に着く。だが、何かがおかしい。ここまで来るのに誰とも出会わなかった。佐奈はその違和感に早くから気付いていたが、考えないようにしていた。もしも気のせいならそれでいい、もしも何かの異常ならそれはそれで良かったのだ。


 美しいと思えるほどの静けさが辺りに漂っていた。風は静かに草木を揺らし、雲にはほんのりと青空が透けていた。だがその中には不安が見え隠れしていた。


 その時、不意に奇妙な感覚に襲われる。めまいと共に得体のしれない浮遊感と高揚感が心の中に満ちていく。それはまるで体が深海から海面に浮き上がっていくかのような感覚だった。佐奈はその感覚につられてゆっくりと振り返る。そこに何かがいると思ったからそうしたのではなく、ただ無意識にそうしたかっただけだった。彼女もどこか楽観的で、そこには何もないだろうと心のどこかで思っていた。だが、それは安易すぎたのだろう。


 初めに目に入ったのは、あるはずのない鏡のように透き通った水面に、自分の像が浮かんでいる様子だった。佐奈の膝ぐらいの深さの水が辺りに満ちていて、静かに波打っている。いつの間にか街は水に沈んでいて、まるで、洪水の後のようになっていた。何も言えなかった。人は突然非日常に落ちてしまったら、みんな同じようになるだろう。


 その時、突然音を立てて何かが空から落ちてくる。辺りに満ちていた水が一気に膨張し降り注いだ。だが、不思議と服は濡れず、水は砂のように滑り落ちていく。


 水しぶきが静まったあと、さっきまで誰も居なかったそこには、奇妙な怪物が立っていた。ソレの姿は女型だが、全身が大理石で出来ているかのように白く、レースのような模様が浮き上がった肌を持っていて、その目はラピスラズリのように青く、腰下には白鳥のような羽が生えていた。明らかに異質なソレはゆっくりと佐奈に歩み寄ってくる。


「おう、こんなところで何をしてんだよ、ガキ」

と声が響く。その方向を見ると猟銃を持った男が立っていた。彼は長い髪を束ねていて、表情は薄く、ただ疲労感だけを漂わせていた。決して良い顔ではないが、昔はよかったのだろう、顔のそれぞれのパーツはとても整っていた。その男は佐奈を睨みつける。だが彼女は冷静だった。何故かとても現実味がなかったのだ。


「あなたは、誰ですか?」

と聞くと、男は狂ったようにして笑い声を上げた。


「今から殺されるくせに敬語かよ、フフ、笑える。そう思うよな、レース」


 男がそう言うと、羽をもった怪物は上品なお辞儀をした。よく見るとソレの顔には口がなく、蜘蛛の巣のようになっていて、顔を動かすたびにキラキラと瞬いていた。


 その時、頭の中に声が響く。冷たく細やかな声が佐奈の頭をかき乱した。


『確かに…、そうですね…信夫。しかし、こういうガキは脂が乗って美味しいのです』


 その声はたぶんレースと呼ばれた怪物のものだろう。


 しかし、佐奈はまだ夢を見ているかのような感覚に陥っていた。まるで魂が体から抜け出たかのように恐怖はなく、緊張は緩やかな波のように、音も立てずに沈んでいった。


 信夫はトリガーに指をかけ、ゆっくりと彼女に近づく。この状況で微笑を浮かべ虚ろな眼差しを向ける佐奈のことを彼は不気味だと思った。彼は異世界に迷い込んだ様々な人々を殺してきたが、こんな反応をするものは初めてだった。


 彼は恐れを感じ、同時に自分の過去を思い出す。初めて異世界に来た時、ある人に命を救われた事があった。その女は信夫に戦う手段を与え、彼と一緒に多くの時を過ごし、やがて死に別れた。あるときその女に、なぜ自分を助けたのか聞いたことがあった。


「お前が悪あがきしたから。お前は、最後まで私に抵抗した。だからだよ」

と言って、彼女は珍しく微笑んだ。それは、彼が見た彼女の最初で最後の笑みだった。


 何故だろう、このガキは俺と似ている、そんな考えがよぎる。彼はこのまま普段通りに仕事が終わるはずがないという確信をどうしても捨てきれなかった。


 信夫は少女の前に立つと、銃を向ける。だが、恐れは収まらなかった。少女はさっきから手を後ろで組んでいる。普通なら、子供が緊張しているのだろうとしか思わないだろう。しかし、一瞬、彼は見たのだった。鏡のような水面に映った、拳銃のような像を。


「しまった!」


 そう言った時にはもう遅かった。


 佐奈が微笑んでいたのはいつもの癖からではない。相手の無能をあざ笑っていたのだ。


 彼女は引き金が引かれるより前に相手の懐に飛び込む。その拳銃は、彼女がこの世界に落とされたとき突然現れたものだった。


 佐奈は拳銃を彼の腹に突き立て、その重い引き金を引いた。反動が体に伝わり、信夫の体が大きく震える。だが、血は一滴も流れ出ない。


 佐奈は一瞬で首を掴まれ、そのまま水面に叩きつけられる。水しぶきが上がる。視界は遮られ、意識が遠のいていく。だが、佐奈は朦朧とする意識の中で、狂ったかのように、強引に立ち上がった。さっきまでの微笑は消え、ただ冷たい無表情が表れていた。


 すぐに佐奈は信夫に拳銃を向ける。信夫はここまでのイデアガン使いは少ないと思った。

 

 その才能を惜しみつつ信夫は銃を構えた。このガキをなめていると本当に殺されると思ったからだ。緊張は直ぐに炸裂し、マズルフラッシュが走る。重い反動が、脳髄に響き渡る。お互いがトリガーを引き、お互いの命を奪おうとしたその時、波が一気に湧き立ち、突然吹いた突風が、二人を吹き飛ばした。


 ふらつきながら信夫は水の中から頭を上げ、体を引き上げる。佐奈が倒れているのを確認すると、沈んでいた猟銃に手を掛けた。だが、誰かにその銃を取り上げられてしまう。


「信夫、レース。何をやっている?」

とソレは囁いた。ソレは人の形をしているが、肌は黒曜石のように黒く、光沢があった。金色の刺青のようなものが全身に刻まれていて、目は包帯で塞がれている。口は裂けていて獣のような牙があり、全身を金と宝石で飾っていた。


『ファーフナー…あなたが何でこんなところに…』

とレースが呟く。彼女の声は微かに震えていた。


「レース、信夫、イデアガン使いは貴重な資源だ。我々がこの世界を救うための…な」

 

 そう言うと、ファーフナーは気絶している佐奈に触れる。


「この子供は使えるぞ。一度潜っただけでここまで上達する者はほかには居ない。こいつが敵に丸め込まれる前に、手に入れておきたい」

「だが、ファーフナー、こいつは子供のくせに、躊躇せずに俺の腹を撃ったサイコパスだぞ。そんなイカレ野郎を仲間にするなんて」

「それを言うなら、信夫。俺から見たら、お前たちは全員異形の怪物に見える。イカレてない怪物なんているのか?」

「確かに…それはそうだが…」


 ファーフナーは佐奈の頭を優しくなでる。そして静かに言った。


「このガキは、信夫、お前に預ける。いいか?」

「いいかって…、俺には拒否権はないよ」


 その時、ファーフナーは耳鳴りを感じる。それは、この世界に侵入者が大量に押し寄せていることを伝えているものだった。


「おい、何があったんだよ?」

と信夫が聞いてくる。だが、ファーフナーの意識はもうすでに遠くにあった。


 佐奈はふらつきながら、立ち上がる。信夫は、その表情を覗き込む。彼女は笑っていた。まるで、この世のすべてを、自分の命すらもあざ笑うかのように。その眼差しは虚空をのぞき込んでいる。彼女は、信夫には見えない何かに魅入られていた。その視線を追っても、そこには何もいない。ただ、水面に映った青空がなびいていた。

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