●第4章:『迷宮の幻想曲 -Chaos Fantasia-』
真空の深淵で、異変が起き始めていた。
これまで安定していた量子の泡が、不規則な動きを見せ始めたのだ。それは、エントロピーの増大という、宇宙の根源的な法則の現れだった。
「この揺らぎ……普通じゃないわ」
ポジティアが不安げに周囲を見回す。空間そのものが、まるで呼吸をするように膨張と収縮を繰り返していた。
「まるで、何かが壊れていくみたい」
イオンの言葉通り、真空の構造そのものが歪みつつあった。それは、二人の存在が引き起こした想定外の現象だったのかもしれない。
「私たちの波動が、空間に影響を与えているの?」
「そうみたい。電子と陽電子が、これほど長く共存する例はなかったから……」
通常であれば、電子と陽電子は出会った瞬間に対消滅するはずだった。しかし、二人は特異な均衡を保ちながら存在し続けている。その異常性が、周囲の空間にも影響を及ぼし始めていたのだ。
「迷宮みたい……」
イオンの言葉通り、歪んだ空間は複雑な迷路のような様相を呈していた。量子の泡は不規則な壁となって立ち現れ、その構造は刻一刻と変化していく。
「この迷宮を抜けなければ」
ポジティアは決意を込めて言った。しかし、その道のりは容易ではなかった。
迷宮の壁は、二人の波動に反応して変化していく。まるで、生きているかのように。時には道を開き、時には行く手を遮る。
「この変化には、何かパターンがあるはず」
科学的思考を持つイオンは、迷宮の動きを観察し続けた。すると、ある規則性に気が付く。
「見て、私たちの波動の位相が合うと、壁が開くの」
確かに、二人の波動が完全に同期した瞬間、迷宮の壁は光を放って消えていった。
「じゃあ、私たちの調和が、道を作り出すってこと?」
「そう。でも、それは同時に??」
ポジティアは言葉を飲み込んだ。イオンには、その意味がよくわかっていた。
波動の同期が強まれば強まるほど、対消滅の危険性も高まっていく。それは、避けられないジレンマだった。
「怖くない?」
「怖いわ。でも??」
イオンは、強く手を握り締めた。
「でも、あなたと一緒なら」
その言葉に、ポジティアは静かに微笑んだ。
「ええ。私も同じ」
二人は意識的に波動を合わせ始めた。すると、迷宮の壁が次々と光を放って消えていく。その光は、まるで二人を導くように、道筋を示していった。
「私たちの調和が、道を作り出している」
「そう。これは、私たちにしか進めない道」
しかし、その道を進むにつれ、二人は次第に強い引力を感じるようになっていった。それは、対消滅への誘引力だった。
「この力……抗えない?」
「抗うべきじゃないのかもしれない」
ポジティアの言葉には、深い覚悟が込められていた。
「これが、私たちの運命なの?」
「運命じゃない。選択よ」
その瞬間、迷宮全体が大きく波打った。まるで、二人の決意に呼応するかのように。
「この先に何があるのか、誰にもわからない」
「でも、一緒なら――」
二人は手を取り合ったまま、迷宮の最深部へと進んでいった。その背後では、通ってきた道が次々と消えていく。
もう、後戻りはできない。
それは、運命への旅立ちだった。
次の更新予定
【SF粒子百合短編小説】「量子の花言葉 -Quantum Florescence-」(9,594字) 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi
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