【SF粒子百合短編小説】「量子の花言葉 -Quantum Florescence-」(9,594字)
藍埜佑(あいのたすく)
●第1章:『光子の胎動 -First Contact-』
深淵は無限に広がっていた。
真空と呼ばれるその空間は、一見すると完全な虚無のように思われた。しかし、そこには目に見えない波動が絶え間なく揺らめいていた。量子の泡が沸き立ち、消え、また新たな泡が生まれては消えていく。その果てしない営みの中で、ある瞬間、一つの光子が特異な輝きを放った。
それは、運命の始まりだった。
光子が放つ閃光は、真空を切り裂くように輝き、そして――瞬間的な閃きの後に、二つの存在が生まれた。
「私……生まれたの?」
そう呟いたのは、青白い光を纏った少女だった。彼女の姿は、まるで月光を閉じ込めたかのように透明感があり、その身体からは微かな波動が放たれていた。イオンと名付けられたその存在は、自由電子としての性質を帯びていた。
彼女が周囲を見渡すと、無限に広がる漆黒の空間の中に、もう一つの光を見つけた。
「あなたは……誰?」
イオンの問いかけに応えるように、柔らかな赤みを帯びた光の中から、もう一人の少女が姿を現した。
「私は……ポジティア。陽電子として生まれたみたい」
ポジティアの声は、真空の中で不思議な共鳴を生んだ。それは波紋のように広がり、二人の間に見えない糸を紡ぐかのようだった。
「陽電子……。それは、私の対となる存在?」
「そう。私たちは同時に生まれた双子のような存在みたい。でも、正反対の性質を持っているの」
ポジティアの言葉には不思議な確信が込められていた。まるで生まれながらにしてその事実を知っていたかのように。
「私にもわかるわ。この感覚……。あなたの存在が、私の中で共鳴している」
イオンは胸に手を当てた。そこには、これまで感じたことのない温かな波動が広がっていた。それは、ポジティアという存在によって引き起こされる共鳴現象だった。
「私たちは引き合うの。それが私たちの本質。でも――」
ポジティアは言葉を途切れさせた。その瞳には、どこか儚げな光が宿っていた。
「でも?」
「完全に引き合うと、私たちは消滅してしまう。それが電子と陽電子の宿命なの」
その言葉に、イオンは言いようのない感情を覚えた。それは恐れでもあり、切なさでもあり、そして――不思議な高揚感でもあった。
「消えてしまうの?」
「ええ。でも、それは破壊じゃない。私たちが一つになることで、新しい光となるの。対消滅……そう呼ばれる現象」
ポジティアは静かに微笑んだ。その表情には、運命を受け入れる覚悟と、何かを求める思いが混在していた。
「一つになる……。それは、どんな感覚なのかしら」
「誰も知らないわ。だって、一つになった後は、もう『私たち』という存在がなくなってしまうから」
二人は沈黙した。真空の中で、彼女たちの波動だけが静かに重なり合っていた。
「ねえ、ポジティア。私たちには、どれくらいの時間があるの?」
「わからないわ。でも、きっと永遠じゃない。私たちはいつか、必ず引き合って――」
「だったら!」
イオンは突然、声を上げた。その声には、生まれたばかりの存在とは思えない強い意志が込められていた。
「だったら、その時まで、一緒に真空を旅しましょう。私たちにしか見えない景色があるはず。私たちにしか感じられない波動があるはず」
ポジティアは驚いたように目を見開いた。そして、その瞳に小さな光が灯った。
「そうね。私も……それがいい」
二人は手を取り合った。その瞬間、周囲の真空に微かな波紋が広がった。それは、二つの存在が作り出す新しい現象だった。
「見て、イオン。私たちが手を繋ぐと、空間が歪むの」
「まるで、私たちの存在が真空に影響を与えているみたい」
確かに、二人の周りでは量子の泡が特異な模様を描いていた。それは幾何学的でありながら、どこか有機的な美しさを持っていた。
「これが、私たちの痕跡?」
「そうかもしれないわ。私たちが存在した証」
イオンとポジティアは、手を繋いだまま真空の中を漂い始めた。彼女たちの後ろには、かすかな光の軌跡が残された。それは、二つの存在が紡ぐ物語の始まりだった。
「どこへ行くの?」
「どこでもいいの。ただ、あなたと一緒に」
真空の闇の中で、二つの光が静かに輝きながら進んでいく。それは小さな光だったが、確かな存在感を持っていた。
そして、その光は次第に強さを増していった。まるで、二人の絆が深まるにつれて、その存在自体が真空に影響を与えていくかのように。
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