音の秘術師たちの楽園
まさか からだ
第1話 無音の世界
空はどこまでも澄み渡り、地平線は金色に輝いているはずだった。だが、この地に立つ誰もが、世界の変化に気づいていた――それは「音」が消えたこと。
聲(セイ)。音の魔法と共に生きる者たちが集う、調和と旋律の大地。その豊かな音楽文化は古代から続き、この地のあらゆる生命が音と共に繁栄してきた。しかし、突如としてすべての音が奪われた。鳥のさえずりも風のざわめきも、そして人々の声さえも――。
音を失った民の心には、静寂という名の不安が押し寄せた。
「リズムが途切れるとき、それは命の鼓動が止まるときだ」
古来より伝わるこの言葉を、誰もが思い出していた。
村の中心にそびえる「響きの塔」。その鐘が最後に鳴ったのは、三日前のことだった。それ以降、どんなに叩こうとしても音は出ない。村人たちは塔の周りに集まり、互いに顔を見合わせるが、誰も口を開くことができない。声を出そうとしても、ただの沈黙が口元をすり抜けるだけだった。
突然、塔の足元にひとりの少女が現れた。彼女の名はメイ。まだ十七歳の彼女は村一番の歌い手だった。その日のために練習していた祭りの歌は、今や誰の耳にも届かない。
彼女の瞳には涙が浮かんでいた。小さな手に握られているのは、一冊の古い歌の楽譜だった。無音の世界でも彼女の心に響くリズムが消えないようにと、何度もその文字を指でなぞる。
メイは静寂の中でそっと口を開く。
「…ル、ラ、ル…」
それは聞こえない歌。しかし、心の中で響く旋律はまだ彼女の中に生きていた。
歌詞はこうだった――
ル・ラ・ル、風が踊る
ル・ラ・ル、命が巡る
ル・ラ・ル、音は心を結ぶ
そのとき、彼女の背後から温かい光が差し込んだ。塔の壁に刻まれていた古い模様が、彼女の歌に応えるように揺らぎ始めた。
「メイ…」
声が聞こえた。いや、声ではなく「振動」だった。
振り返ると、そこには小柄な老人が立っていた。彼は村で「沈黙の賢者」として知られる人物だった。誰もが彼を不思議な存在として畏敬していたが、実際に声を聞いた者はいなかった。
「その歌を、もう一度歌ってくれないか」
メイは頷き、再び心の中で旋律を紡いだ。
沈黙の賢者は目を閉じると、手のひらを大地に置いた。その瞬間、土の中から微かな振動が広がり始めた。
「音は消えていない。ただ眠っているだけだ」
彼の声は静寂を切り裂き、メイの胸に深く届いた。
賢者は続けた。
「音楽はリズムだ。リズムは生命の鼓動だ。そして、鼓動は決して止まらない。ただ私たちがそれに気づかなくなるだけだ」
メイは小さく頷き、歌詞を心の中で繰り返した。彼女の心に響く音楽は、賢者の言葉によってさらに明確になっていく。
彼女の手に握られていた楽譜が、ふと光を放ち始めた。
「これは…?」
「お前の歌の力だよ」
賢者の言葉とともに、楽譜から湧き上がる光が村全体を包み込んだ。その光は音のように脈動し、村人たちの体に触れるたびに、失われていた声が少しずつ戻っていった。
「音は戻りつつある。しかし、まだ完全ではない」
賢者は静かに言った。
「この地だけでなく、聲の大地全体で音が失われている。原因を突き止めなければならない。だが、私はもう旅をすることはできない。代わりに…」
彼はメイの肩に手を置いた。
「お前が行くのだ。この楽譜を持って、世界を巡れ。そして音楽の源を見つけ出すのだ」
メイは一瞬、ためらった。だが、胸の中に響くリズムは彼女に勇気を与えた。
「わかりました。必ず音を取り戻します」
そうして、メイは村を後にした。彼女の旅の始まりは、無音の世界に新たな希望の響きをもたらした。
ル・ラ・ル、風が踊る
ル・ラ・ル、命が巡る
ル・ラ・ル、音は心を結ぶ
ル・ラ・ル、光が舞う
ル・ラ・ル、大地が眠る
ル・ラ・ル、夢は未来を紡ぐ
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