じゃない方のわたし
冠つらら
じゃない方のわたし
わたしはいつも、大好きな人に選ばれない。
君じゃない。
君じゃなくて、あの子。
じゃない方ばかりに慣れてしまったら、自分を守る殻が分厚くなるのは自然なこと。もう心が傷つきませんようにと祈りを込めて、空気との間に幾重もの武装をするの。
会議室を出ると心地良いざわめきが鼻先にぶつかる。あっちへこっちへ。電話をしたり、駆け回ったり。このオフィスはいつ訪れても賑やかで活気がある。忙しくとも皆が楽しんで仕事をしているのだと部外者のわたしにも伝わってくる。
「モモネさん、今日はどうもありがとうございました!」
お洒落なパーカーに高そうなジーンズを履いた金髪の男性が、空になった会議室の扉を閉めてわたしの前で会釈した。モモネというのは本名ではなくイラストレーターとして働くわたしの活動名。いわゆる、屋号とも言える。
「こちらこそありがとうございました。またぜひよろしくお願いいたします」
「はい! 今回のぬいぐるみもとても良いものに仕上がりそうですよ」
わたしが頭を下げると、取引先企業の担当者である金髪男性はカラカラと陽気に笑う。ただでさえ派手な出で立ちの彼が笑うと、その場の空気が一気に明るくなる。よく通る笑い声に数人の目がこちらを向く。それなりにスマートカジュアルな格好でキメて来たわたしの部外者レベルが浮き彫りになる気がした。
恥ずかしくなったわたしはすぐにでもフロアを出たかったのに、お喋りな金髪男性がそれを許さない。彼に愛想笑いを送りながら、わたしは彼の肩越しに見える紺色のスーツをぼうっと見つめる。
少し日に焼けた肌にとてもよく似合うスーツだった。
アミューズメント施設向けのプライズ商品を企画から販売まで手掛けるこの会社では自由な格好で働く人間が多い。そんな中でもただ一人、彼だけはいつも素敵なスーツを身に纏う。聞いたところによると、理由は「服を選ぶセンスがないからスーツを着る方が間違いがない」とのこと。
そんな理由さえ、かわいいな、と思ってしまう。
鼻筋がシュッと通った凛々しい顔つき。真剣な表情でパソコンを睨みつける彼は、ここで働く
でもいくら大好きになっても、わたしはその想いを伝えることを避けている。
ほら今も。彼の後ろを通りがかった同僚の綺麗な女性が彼に声をかけて談笑を始めた。さっきまで険しかった彼の表情もすっかり砕けている。きっと彼女とわたしが並んだら彼が選ぶのは彼女の方。
わたしはどうしても、好きな人の好きな人にはなれない。もうずっと。
金髪男性の雑談から解放されたわたしは、遠山さんから目を逸らしてオフィスを後にする。今度もまた、フラれて失恋するのが目に見えるようだった。
フリーランスになってから、はじめは苦戦したものの、今は一人で食べていけるくらいには仕事に困ることはなくなった。大きな怪我も病気もなく、友人関係も良好で、家族仲も悪くはなく、すべてが順調に思える。
でも一つだけ、恋愛だけはそんなこんなでしばらく好きな人を見つめるばかりの日々が続いている。
遠山さんの笑顔を思い出し、わたしは木枯らしに吹かれた指先をポケットに入れて温める。急に寒くなってきた。そろそろ本格的に冬がやってくるのだろう。今日は服装を間違えた。辛うじてニット帽を被って来たけれどそれでも薄着過ぎる。今は仕事も頑張り時。もし風邪をひいてダウンしてしまったらとんでもない。
近くにあるコンビニに寄って夕食を調達し、身体が冷えてしまう前にと帰路を急ぐ──途中、自宅近くに佇むお地蔵さまの姿が視界の端に飛び込んできた。
アパートと民家が並ぶ通りにぽつねんと鎮座するこのお地蔵さまは、とても小さくてゆるキャラみたいに愛らしい顔をしてこの街を見守ってくれている。
「こんにちは。そろそろ寒くなってきたでしょう」
お地蔵さまと向き合うと、つるんとした丸い頭が余計に寒そうに思えてきた。
わたしは自分のニット帽を目の前のお地蔵さまの小さな頭に被せてみた。
「これで少しは楽になったかな」
返事はなくても、ほんの少しだけお地蔵さまが笑ったように見えた。それが嬉しくて、わたしは気が付いた時にはこのお地蔵さまのお世話をするようになっていたのだ。ちょっとした気晴らしにちょうど良い。それに──他人には言えない相談事も、お地蔵さまなら静かに聞いてくれるから。
「ねぇお地蔵さま、やっぱり想いは伝えるべきなのかな」
頭の隅に残る遠山さんの笑顔をまたも思い返し、訊ねてみる。が、返事はない。
「でもね怖いの。どうせまた選ばれないはずだし。そしたらまた一枚、皮膚が殻を被るだけ。あ、責めるの? しょうがないよ、これは自分を守るため。心はね、脆くてやわやわなんだから」
お地蔵さまの硬い体をそっと撫で、ちょっとだけからかってみる。
「もしわたしが猫とか、子犬とか、可愛い小動物とかだったらあの人の愛情を受けられるのかな」
そんな馬鹿なことも言ってみる。お地蔵さまはわたしの馬鹿らしい欲望すら聞き流してくれるから、やっぱり最高の相談役なのだ。
こちらを優しく見てくるお地蔵さまと数秒だけ目を合わせ、わたしはほんの少しだけ軽くなった心とともに帰宅した。それでもベッドに入る頃には哀しくなって、涙で枕を濡らす前にどうにか眠りについた。
翌朝。目覚まし時計の音が聞こえたわたしは真っ暗な世界で目が覚めた。
瞼を開けているはずなのに目の前が文字通り真っ暗なのだ。大好きな人と結ばれず、お先真っ暗だと嘆きながら寝たせいだろうか。
ぱちぱちと瞬きしても世界は変わらなかった。それに少し息苦しくて、呼吸音がこだましてくる。バクバクと鼓動が早くなり、パニックに陥りかけたわたしは身体を起こそうと思いきり腕に力を入れた。すると。
ヴァキヴァキバキバキバキ…………‼
聞いたこともない衝撃音が身体を包み込むように襲ってきた。
「ミャーーーーッ‼」
分厚い殻が破れたかのような不快な音に怖くなって何事かと叫ぶと、部屋に鳴り響いたのは奇妙な声。え。わたし、こんな猫なで声なんて出るの?
何が何だか分からない。でも何か異常なことが起きているのは分かる。もしかして深夜に強盗でも入って部屋を荒らされ、ベッドに落ちていた物たちが壊れたのだろうか。
数秒の間に色んな考えがわたし史上最高速度で頭を巡った。もうほんと、冗談みたいに頭を抱えたい! けど、いくら伸ばせど手のひらが頭に届くことはなかった。
「ミャッ⁉」
おまけにわたしが口を開く度に聞こえるこの聞き覚えのない鳴き声はなんだろう。怖くなって部屋を見回しても、見慣れぬものは何もない。そもそも部屋も荒らされていない──ちょっと待って? なんだか視界が極端に低くて、世界がぜんぶ大きくなってしまったように見えるのですが⁉ どういうことどういうことどういうこと⁉
異常事態を自覚し、急いでベッドを下りてみる。が、それも足が短くて届かない。床が遠い! 半分落下する形でベッドを出て、大慌てで鏡の前に立ってみる──と、
「みゃああああああ‼」
断末魔のような悲鳴が空気を揺らした。
鏡に映るのは見慣れた人間ではない。褐色の、小さな謎の生物が、断末魔に共鳴してあんぐりと口を開けているのだ。
耳は大きくフェネックのよう。とはいえ体毛はなく、質感はヘアレスキャットを見た時の印象に近い。しっぽは長く、猫のようだがやはりほとんど毛はない。耳としっぽを除けば全体的なフォルムはイラストとかでよく見るデフォルメされた恐竜のようにずんぐりとしていて二足歩行も出来そうな出で立ち。
「みゃっ、みゃっみゃみゃっみゃ!(ちょ、ちょっと待って!)」
鏡に張り付き、小さな手で頬を触ってみる。あ、やっぱりわたしだコレ。
ちょっと冷静になろう。うんそうだ。えーっと待てよ? 昨日、普通に寝て、起きたらなんか真っ暗で、少し暴れたら外に出れて、え? 外に出れてってなに? え? ちょっとベッドを見てみよう。うわナニコレ。なんかデカめの卵が割れた形跡がある。ってことは、わたしはこの殻を破ったってこと? で、そしたらこんな姿になってたって? なるほど。じゃあわたしは、なんだかよく分からないけどちょっと可愛い小動物(?)に変身してるわけだ。へぇーなるほど面白い────ハ?
「みゃああああ‼」
ええええ! どうしようどうしようこれ! 夢じゃないよね? アッ痛い! 爪引っ掻くとめちゃくちゃ痛いから夢じゃないコレ! どうしようどうすんのコレ⁉
冷静さを失ったわたしは、もうとっくに思考回路をバグらせていたらしい。またも高速で脳を巡らせ、その後でじっと今の自分の姿を眺めて……ある結論を捻り出した。もう今は、これしか理由が思いつかない!
そういえば昨日、お地蔵さまに小動物になれたなら~とかいう謎の願望を披露してしまっていたのだ。もしや不思議な力であの御方がわたしの願いを叶えてしまったのかもしれない。ということは、その願望の根本にある遠山さんに愛されたいという想いが、この姿なら叶うということでは⁉
普通に考えれば狂っている思考。でももう今が狂ってるから、常識なんてこのさいどうでもいい。わたしはアパートを飛び出して前に聞いたことがある遠山さんの住むアパート目指して駆け出した。途中、未知な姿のわたしを見かけて叫ぶ人がいた気がしたけれど、どんなに大きな耳にもその悲鳴は届いていなかった。
「みゃあ‼」
朝っぱらから玄関扉をガンガンに叩かれ、遠山さんが姿を現す。
「うわなにキモ」
まだ寝間着姿だった遠山さんはわたしを見るなり一言そう呟き、彼の後ろから顔を覗かせた同居人らしき男の人に窘められた。
「俺動物嫌いなんだよ」
うそだろ⁉
「えーこんなに可愛いのに? ほら、この子もしかしたら新種生物かなんかじゃない? おいでおいでー、寒いでしょ? あははっ可愛い奴だなぁ」
同居人の彼がわたしのことを好意的に受け入れてくれなければ、わたしはこの場で息絶えていたかもしれない。なんだか人柄の良さそうな彼に救われた。一方の遠山さんは、本当に動物が苦手らしく五歩以上後ろに引いて同居人のことを訝し気に見つめている。
「なにそいつ猫なの? 猫ってもっとふさふさじゃねぇのかよ。それでも怖いけど」
「お前はいつまでも怖がりなのな。この子は、わかんないけど、うーん、猫、じゃないのかもしれないなぁ。わからん。でも震えてるようだし、保護してしかるべき場所に預けた方がいいんじゃないかな。知り合いに研究者がいて、もしかしたらこういう珍しい動物にも詳しいかも。そこに届けてあげようか」
「え、いまから?」
「そうだよ。もし未確認生物なら大発見だぜ? 俺の名が図鑑に載るかもしれない」
同居人は遠山さんに向かって上着を投げつけ爽やかに笑った。
遠山さんの運転する車に乗り込み、わたしは同居人の腕の中で静かなる失恋にこっそり涙を流した。
彼らに連れられやってきたのは、どこかの大学が母体の研究所だった。映画で見るような立派な研究施設に引き渡されたわたしは、頑丈なゲージに入れられ数多の研究者の好奇の目に晒されることになった。
あらゆることに詳しい彼らにしてみても当たり前に見たことがない生物らしく、わたしは未確認生物として厳重に扱われることになってしまった。
予期せぬ展開に、またもやパニックが襲ってくる。研究って、一体何をされるのだろう。皮を剥がされたり、肉を切られたり、変な薬物を打たれたりするのだろうか。
「み……みゃぁう」
さすがにそれはこわい。このままどうしていいかもわかんないけど、実験体にされるのはそれこそ恐怖でしかない。失恋に浸る間もなくやってきた新たなる脅威にわたしは震えが止まらなくなる。
ゲージの中で怯えるわたしになどお構いなく、研究者たちは血液を採取していく。あまりにも縮み上がっている姿を見てか、まずはそれだけで彼らは離れていった。
「きみ、大丈夫? 怖がらなくていいからね。危害を加えることはなにもしないよ」
大量の白衣が消えた部屋の中に一人残った眼鏡の青年が震えるわたしに気づいてこっそり声をかけてくる。見たところ研究者の中でも若手のようで、年齢はわたしとそう変わらなさそう、むしろもっと若いかもしれなかった。あまり外に出ないのだろうか。白い肌は荒れた様子もなく綺麗で、柔和な顔つきにとても相性が良く見えた。
彼の優しい微笑みに、わたしはちょっとだけ安堵する。
「みゃあ……(ありがとう……)」
「ふふ。大丈夫だよ。でもそうだよな。いきなり血を取られて怖かったよね。ごめん、皆研究が大好きでさ。見たこともない君が来たものだから興奮しちゃったみたいで。普段はそんな、強引なことはあまりしない人達なんだよ」
「みゃ……(そうなんだ)」
「あ、そうだ自己紹介がまだだったね。僕は
彼は首元から下げた施設の入館証を持ち上げながらそう告げた。
わたしは──言おうとして口を閉じる。どうせ、みゃあしか言えないし。
「──よろしくね」
何も言わないわたしに林道さんは手を伸ばして握手するふりをした。ちらりと目が合うと、彼は嬉しそうに頬を崩した。
その日から、問答無用でわたしの研究所生活が始まった。二十四時間完璧な温度調整がされた室内に置かれ、狭いゲージの中で過ごす日々。とはいえ待遇はVIP並みで、飲み水は常に補充され、食べ物に困ることもない。わたしが何を食べるのか分からず、虫や植物、あらゆる種類の生肉や生魚、はたまた土が運ばれてきたけれど、結局今まで数日間、わたしは何も口にしていない。お寿司は好きでも流石に泳いでいた姿まんまの生魚を食べる気にはなれないし、それ以外は以ての外。
案外水分だけで満足はするし、変なものを食べてお腹を壊すつもりもなかった。
研究所には常に誰かが残り、わたしの一日の動きを観察している。ゲージの中でただ寝たり起きたりするだけのルーティンにわたしも彼らも飽きているはず。それでも研究者というものは、文句の一つも言わずに熱心にわたしの世話を続けてくれていた。
特に熱心なのが、初日に声をかけてくれた林道さんだった。寒くならないようにと毛布を持ってきてくれたり、わたしが退屈しないようにと猫用の玩具をゲージに入れて先輩に怒られたりもしていた。
毎日必ず話しかけてくれて、わたしが元気のない日は一日中傍で仕事をして寄り添ってくれた。ほかの研究者たちも親切ではあるが、彼は群を抜いて優しい。そんな彼が近くにいると、わたしもなんだか安心できた。
「おはよう。あ、やっぱり何も食べてないんだね。もう一週間になるけど──無理はしちゃ駄目だよ。君は何が食べたいんだろう……?」
水のボトルに変化はあれど、一緒に置かれていた草花に何も変わりがないのを見て彼は心配したような目でわたしを見る。
「細胞や血液検査はどれも異常値のエラー。君は不明なことばかりだね。排泄もないからそれも調べられない。ねぇ、君は一体何者なの?」
「みゃあ(人間です)」
物憂げな彼を見ていると胸が締め付けられる。そりゃ元は人間だもん。何も面白い結果なんて得られない。喋れないわたしはみゃあみゃあ言うことしかできないし。なんだか一生懸命な彼に申し訳なくなる。
「あ。そうそう、でも面白いものを見つけたんだ。ほらこれを見てごらん? 君にそっくりだと思わない?」
そう言って彼が白衣のポケットから取り出したのは一枚の紙に描かれたイラストだった。お菓子のパッケージを切り取った、そこに描かれていたのは。
「みゃっ!」
なんとわたしが前に仕事で描いたものだった。数年前のお菓子会社の案件で手掛けた春季限定のデザインだ。架空の生物を頼まれて描いた。空想を楽しもうとかいうテーマの企画ものだった──そう! そうだ!
「やっぱり君も分かる? この絵、君にそっくりでしょう。かわいいよね」
興奮して思わず目玉が飛び出そうになってしまった。丸まったわたしの瞳を彼は嬉しそうに覗き込む。彼の顔が近づくと、目の下には濃いクマがあるのが分かった。もしかして、わたしの研究のために夜通しで色々調べてくれているのかもしれない。柔らかな彼の微笑みには達成感が浮かんで見えた。
確かに彼の言う通り。わたしの今の姿は、数年前に自分で描いたものだった。まさかの発見。探すのは大変だったはず。
「君のことが知りたくて手懸かりを探してたんだ。不思議だよね。もうずっと前に、君の存在を誰かが知っていたみたいで」
彼はもう一度イラストを見つめて感慨深げに頷く。そんな彼のロマンに満ちた眼差しに思わずときめいてしまう自分がいた。素敵な瞳。
「あ、そうだ。今日は僕が夜番なんだ。君を起こさないように静かに仕事するけど、もし迷惑をかけちゃったらごめんね」
彼の言葉に心が弾む予感がした。
その夜、予告通り夜の見張り──もとい夜番の彼は、自分の仕事をしつつわたしの様子を時折見に来てくれた。
「これから夜食を食べるけど、君も一緒にどう?」
彼はそう言ってチョコレート菓子片手にわたしのゲージの前に座る。わたしはと言うと、ボトルの横に置かれた虫の死骸に顔をしかめた。
「それも嫌い? 君の好物はなんだろうね?」
「みゃ(それ)」
「ん? これ?」
あ、通じた。
「でもこれ──チョコレートだよ? 食べてもいいの?」
わたしは力強く頷いた。すると彼は誰もいないけど辺りを窺いつつ、「内緒だからね?」と、そっとわたしにチョコを手渡す。
久しぶりに口にした食べ物は記憶よりも美味しくて思わず泣いてしまいそうだった。わたしが喜んでいるのが分かったのか、彼は次々にチョコを分けてくれる。
「ふふ。やっぱり君は不思議な子だね。お菓子が好きだなんて」
彼の言葉にちくりと胸が痛む。彼が傍にいると嬉しい。彼の一生懸命な姿を見ていると心が和む。もうすっかり彼に惹かれている自覚がある。彼の研究熱心なところも大好きだった。でも彼は、自分の正体を知ったらがっかりする。
だってわたしは未確認生物ではないし、結果の出ないものを追い続けるのは苦しいはず。
せめて喋れたら、彼に真実を伝えられるのに。
密かな祈りを胸に、わたしはゲージ越しに彼に寄り添い眠りについた。
翌朝。
「ふあああ! よく寝た!」
いつもの大あくびと共に目覚めたわたしは眠たい眼を擦って顔を上げる──と。
夜通し仕事をしていた林道さんが口をあんぐりあけてこちらを見ていた。
「林道さん?」
「ひぇっ……ええっ? しゃべ、喋った⁉」
「えっ⁉ あ、本当だ! 喋れる! 喋れます!」
それから林道さんが脇目もふらず絶叫したのは言うまでもない。
まさかの言葉という能力を手に入れたわたしは正直に林道さんにわたしの正体を伝えた。でも林道さんはがっかりした様子は見せずに、異常現象に圧倒はされつつも元に戻る方法を一緒に考えてくれる方向へと思考を進めていた。
他の誰かが出勤する前に計画したいと、彼はかなり真剣に考えてくれていた。
「なんて呼べば──? えっと、名前は──?」
「……
「そっか! 茜音さん。改めて、よろしく」
変わらぬ彼の優しい微笑みに、飽きずに胸が高鳴った。
わたしがときめく間にも、彼は研究所脱出計画を企てていた。やはり怪しいのはお地蔵さま。どう考えてもお地蔵さま。彼はわたしを研究所から出し、一緒にお地蔵さまに会いに行ってくれると言う。善は急げと、彼はその日、急な午前半休を取得して一度自宅に戻り、飼い猫用のキャリーリュックを持って午後再び出勤した。そして同僚に頼み込み、その日の夜番担当を強奪した。
「一応掃除はしたけど……猫アレルギーだったりしないですか?」
「大丈夫です」
わたし達が動き出したのは早朝。人目につかないようにと言えば深夜じゃないかと訊けば、早朝の方が深夜より不審じゃないからだと言う。そんな彼の考えも好きだった。
こっそり研究所を抜け出したわたしはリュックに揺られ、懐かしのお地蔵さまに辿り着いた。とはいえどうすればよいものか。悩むわたし達が目を見合わせると、突然お地蔵さまが大あくびする。
「おはよう! 随分と早起きさんだね茜音ちゃん」
随分と呑気なことを言うお地蔵さまに驚くほどわたし達ももう素人ではない。
「そんなことより! この姿! これってあなたの仕業なの?」
「うん! 喜んでくれたかなっ。茜音ちゃんにはいつもお世話になってるから、お礼に願い事を叶えてあげたくって」
「──悪気はなさそうかな」
林道さんが呟く。確かにそうだけど……。
「その気持ちは嬉しいけど気持ちだけで十分です。もう十分だから、元に戻してもらえませんか?」
「元に戻るのは簡単だよ! それが仮の姿だと言うのなら、ただ自分に素直になればいいだけ。そうすれば本当の自分に戻れるよ」
「素直に……? それってどういうことでしょうか」
林道さんが首を傾げる。でもわたしは、その言葉の意味を理解していた。これ以上はお地蔵さまに願えないことも。
わたしは林道さんにお願いして、近くにあるわたしの家に連れて行ってもらった。鍵もかけずに飛び出したおかげで部屋にはすんなりと入れた。林道さんは不用心だねと笑ってくれたけど、ちょっぴり恥ずかしかった。
「林道さん、これが本当のわたしの姿。イラストレーターで、お洒落もせずに仕事漬け。引きこもりがちで料理もあまりしない。それがわたし」
言っていてなんだか悲しくなってきた。研究所で注目を浴びたわたしとは別物。つまらなくて、何者でもないわたしにほかならない。
「──ここにいるのはつらいよね」
落ち込むわたしを気遣って(彼はわたしが元に戻れないことに嘆いてると思ってるだけ)、林道さんは一旦彼の自宅までわたしを招いてくれた。数時間後にはまた研究所に戻っていなければならない。でも彼は気が進まないらしい。わたしがいないことがバレれば責められるのは彼だと言うのに。どこまでも優しい人なんだ。
彼の自宅には猫が二匹いて、嫉妬するくらい愛されているのが分かった。彼の動物好きは本物だ。やはり彼が興味を向けてくれるのはこの姿だからこそ。
本当のわたしは、未確認生物じゃない。彼の興味範囲外。でもこのまま研究所に戻って無意味な研究をさせるのも彼に対する冒涜だ。ならばわたしにできることはただ一つ。
ソファで丸くなっていたわたしは意を決して顔を上げる。
「あの──‼」
精一杯の声に振り向いた彼は、目を丸くしてアッと声を上げた。どうしてそんな顔をしたのか分からない。でもここで立ち止まるわけにもいかない。わたしは続ける。
「わたし、林道さんのことが好き……‼」
顔が熱くて堪らなかった。告白なんていつぶりだろうか。彼の反応を見てられなくて、わたしは再び顔を下げる。言い切った‼ もうこれで、彼ともお別れだ。
「……あの子じゃない」
「そう、わたしは未確認生物じゃない。桃宮茜音なの。あなたのことが大好きになってしまいました」
俯くわたしの視界に彼の靴下が映る。彼は跪いて、真っ赤な顔を見上げてきた。
「茜音さん。これを見て」
彼はわたしの手を取ってそっと握ってみせた。骨ばっているけれど温かな肌だった。わたしは思わず握り返す──ん? 握り返せた?
慌てて顔を上げて目の前のテレビ画面に反射する自分の姿を見つめる。そこには久しぶりに見たぼさぼさ頭の人間の姿。しかもパジャマを着ている。あの日寝た時の格好だ。とんでもなく恥ずかしい。
赤い顔のまま驚いて林道さんの目を見ると、彼は嬉しそうにまなじりを下げた。
「おかえりなさい、茜音さん」
「ひゃ……あ、あの、迷惑かけてごめんなさい」
「元の姿に戻れたのにどうしてそんなにつらそうなんですか?」
「だってわたしは、あんな可愛い生物にはなれないから。あなたの好きな、動物に」
「それがだめなの?」
「えっでも」
林道さんをよく見ると、彼の耳もわたしの頬に負けず真っ赤だった。
「僕は茜音さんと……ええと、コホン! ああああああの! 今日──いや急すぎるか、もし、よろしければ、明日、明後日でも、僕と食事に行きませんかっ」
彼は赤い耳のまま意を決したようにそう言った。
真っ直ぐにわたしの目を見つめて、濁りのない、誠実な眼差しで。
わたしの返事は当然一択に決まってる。
*
裕翔さんとはあの日の夜に一緒に食事に行って、それからずっと良い関係が続いてる。不思議なことに未確認生物の一件は二人以外の記憶からは消えていた。もしかしたらお地蔵さまなりの配慮なのかもしれない。
だから今日はお地蔵さまにお礼を言いに来た。彼も一緒に拝みたいと来てくれた。
じゃない方のわたしを、大好きだと言ってくれる大好きな人が。
じゃない方のわたし 冠つらら @akano321
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