First Contact 「帰来」

TSUKASA・T

「帰来」


 帰来

 ―――意味 帰り来たること。帰って来るの意。



「先日、お一人ルイジアナ州で亡くなられたそうだが」

滝岡総合病院外科オフィス。

そこで、外科医長である滝岡にそう話し掛けられて、感染症専門医の神尾はうなずいていた。

「はい。残念なことですが、アメリカで初めての死者となりました。…カナダで治療されていた方は何とかたすかったのですが」

沈痛な面持ちで手にしたタブレットをみていう神尾に、滝岡が続けて問う。

「それで、ゲノムタイプはもうわかっているのか?」

滝岡に促されて白いソファの置かれた休憩コーナーに座り、神尾が手にしたタブレットを操作して画面を呼び出して滝岡にみせる。

「…――同じD.1.1型なのか」

画面に表示された情報に沈黙する滝岡に、神尾がさらにいくつかの情報源を操作していきながらいう。

「そうなんです。…――カナダの少女の例は、何とか救命できたのですが。まだその変異と同じタイプの変異が起きているかどうかについては調査中です。この一両日ほどで結果は出て公表されるとは思いますが」

痛ましげに眉を寄せて、そして懸念するようにいう神尾に。滝岡が席を立ち、給湯コーナーで淹れていた珈琲を二つカップに入れて持ってきて神尾に手渡す。

「あ、ありがとうございます。…」

礼をいって、その手のひらに伝わる温もりにほっとしながらも、思わし気な顔でうつむいてタブレットをみている神尾に滝岡が訊ねる。

「カナダは13才で確か、上気道での増殖が下気道より多かったときいているが」

「…はい。カナダの例では採取されたウイルス量が上気道の方が下気道より多く、―――ヒト感染しやすくなると思われる部位のゲノム変異がウイルスに起きていました。…これがご存知の通り、D.1.1型で、2.3.4.4b系統に分類されました」

「…――上気道で増えやすくなったということは、ヒトからヒトへの感染が容易になってきているということだな」

滝岡の言葉に神尾がうなずく。

「はい、状況はまだ懸念されている段階ですが、…――」

「カナダでは、ECMOの使用もあったそうだな」

「ええ、…――かなり重篤な状態になって、…急性腎不全、左下葉肺炎、呼吸不全等を引き起こしています。ECMOで救命できたのは幸いでした」

「…―――チームを組んで、再度、ECMOの訓練をしておこう」

「滝岡さん?」

驚いて見返す神尾に、軽く滝岡が笑む。

「ここしばらく、そこまで必要になる患者さんはなかったからな。使わずに済むのが一番良いが、…――一時期の稼働状況は過密でとんでもない状態だったが、…--。人は忘れる生き物だ。警戒はした方がいい」

「…そう、ですね、…。昨年春からのアメリカでの鳥インフルエンザに関しては、偶蹄目への感染もあり、懸念していた処ではあるのですが」

「例の、牛への感染拡大だな?いまは、…――カリフォルニアで警戒態勢が敷かれていたと思ったが?」

「はい。…幸いなことに、といっていいのか、2024年春頃からアメリカの牧場等でみられた鳥インフルエンザの牛への感染と牛からヒト、あるいは、牛の未殺菌牛乳から感染したヒトの例に関しては、軽症例が多く、また今回のものとはゲノムタイプが異なるようですから」

「確か、B3.13だったか?牛に感染していた鳥インフルエンザは?」

「よく憶えてらっしゃいますね?」

少しあきれたように神尾がみていうのに、滝岡が苦笑する。

「感染症専門医と会話する機会が多ければ、特に鳥インフルを注視しているおまえと会話する機会が多ければ当然そうなる」

「…そうなんですか?」

少しばかり面白そうにいう滝岡に、神尾が苦笑して見返す。

 それに、面白そうに見返して。

「神尾、また、調査に行きたいか?アメリカなら、中国の時のように渡航制限が掛かることはないかと思うが。あちらになら、光のこともあるから、多少は融通を利かせられる相手もいる。尤も、おまえの方が研究の関連からコネはありそうだが」

「…―――すぐにぼくが調査に行きたがると思っていますね?」

「昨年五月、FDAのHPに載せられた感染乳牛から採取された牛乳の色を見せられたときには、もうあちらに行くものだと思って予算まで取ろうかと思っていたんだが?」

少しばかりからかうようにいってみる滝岡に、神尾が俯いて反省する。

「それは、…。確かに、ミルクの色合いが正常な場合とは異なるので、…確かに、それをおみせしましたが、…」

「以前、うちに緊急手術で入院した子供さんが感染したのも、ミルクからだったからな。低温殺菌されていない」

「そうでしたね、…。あの子も、かなり危険な状態になりましたが、…。いまは元気に経過観察にも来られて、本当によかったです。」

「慎重に見続けなくてはいけないことにかわりはないがな。それでも、治ってよかった」

暖かく微笑んでいう滝岡に、神尾がうなずく。

「本当に、そうです。…昨年からの牛感染由来のヒトへの鳥インフルエンザ感染例は軽症例が多いことと、やはり、濃厚接触やいまおっしゃられたように殺菌されていないミルクの摂取等の原因がみられますから。それに、ゲノム変異も起きていませんでした。尤も、まだ感染に関しては監視されている最中ですが」

「行かなくていいのか?」

訊ねる滝岡に考える。

「牛感染に関しては、…――CDCがかなり詳細にFDAとともにレポートを出してくれていますし、…今回のルイジアナとカナダの例に関しては、―――」

考え込む神尾に、滝岡がコーヒーをくちにしていう。

「行くなら、いってくれれば調整する。光のアメリカ行きについていってくれてもいい」

「―――光さん、またアメリカへ行かれるんですか?今度は何処へ?」

「ボストンだ。あちらとは定期的に交流があってな。知っていると思うが、小児専門の良い施設もある。今度は、あちらに呼ばれて手術だから、二週間程になる」

「それに同行ですか?」

「まあ、ついでにおまえが現地調査がしたいなら、ルイジアナとカナダを入れても悪くはないだろう」

「――随分距離が違いますよ。同じ北米大陸というだけじゃないですか」

あきれていう神尾に、滝岡がいう。

「そうか?とりあえず、アメリカなら同じだろう?それに、カナダはアメリカの隣りだろう」

不思議そうに返す滝岡に、ちょっと天井を仰いで考える。

「…滝岡さん、実は、光さんと同じ位方向音痴の気があるんですか?」

「いや、…?それはないとおもうが?」

真面目に応える滝岡に苦笑して、神尾がアメリカ行を考えながらいう。

「行かせてもらえるのはありがたいですが、…いまの処、現地調査を行わなくても、向こうからのレポートが詳細でわかりやすいですから、…。それよりも、いまは偶蹄目の感染状況を日本でも見る必要があるのではないか、ということが気がかりですね」

「偶蹄目の感染状況か」

問い返す滝岡に、考え込みながらいう。

「此処に、モンゴルで最近行われた基礎データがあるんですが、…。馬でのインフルエンザでは、これまでH3N8がよく知られているんですが。―――

実は、鳥インフルエンザはほ乳類に広まりにくいといった思い込みがあって、これまであまり調査されてこなかったんです。鳥類での調査が世界的に毎シーズンだけでなく、行われているのはご存知かと思うんですが」

「確かにな。特に日本では、鳥インフルエンザは渡り鳥がくるシーズンを中心に観測されていて、…確かに、鳥類以外で調査しているとはきいたことがないが」

以前は、そのシーズンなども知らなかったんだがな、と滝岡が少しばかり遠くをみるようにして考えているのには神尾は気付かずに。

「そうなんです。2024年から始まったアメリカでの鳥インフルエンザ牛感染例からのヒトへの感染例が報告されて始めて、牛――偶蹄目への鳥インフルエンザ感染が初めて危惧されるようになったといっていいと思います。…日本でも、鳥への感染は調査されていますが、偶蹄目へは調査されてきませんでした」

「そうなんだな?それで、そのモンゴルでの馬か?そちらはどうだったんだ?」

「はい、…。2021年から2023年、…―――二十四の群れで年三回のサンプル採取が行われて、2160検体の中から、感染例が出ました」

「出たのか」

「ええ、…。9例でしたが。H5N1が検出されたそうです。他に、九百九十七例では抗原に対して陽性が確認されたそうです。馬にはEIVがあって、―――鳥インフルエンザとは良く似ていますから、懸念されますね、…」

「馬に感染した鳥インフルエンザウイルスが、元々馬が感染していたウイルスに交雑することで、新たなヒトに感染しやすいウイルスになることへの懸念か」

「そうなんです。その馬は無症状であったのではないかという話で、…――」

「確か、ブタもそうだな?ブタ自身には症状は出ずに、複数の種からのウイルスに感染して、その体内でウイルスの組み替えが起こり、新たにヒトに感染しやすいウイルスができる、―――そういう仕組みがあるのだったか」

神尾がうなずく。

「そうです。無症候で感染して保菌しながら、交雑宿主となって新たに組み替えられたウイルスが生まれる可能性があります。―――そして、今回は」

「カナダの件か」

「…はい。ヒト感染を容易にする部位の変異が確認されています」

緊張してそういったあと沈黙する神尾に、突然、滝岡がその頭をくしゃりと掻き混ぜる。

「え?…――滝岡さん?」

「よくわかった。俺達にいまできることはないな?CDCのデータ確認待ちだ。それこそ、いまから現地に飛ぶよりも、此処でデータを待っていた方がはやい。ということはだ、神尾」

「た、滝岡さん?」

それ以上、頭を掻き回されるのを避けようと両手でかばう神尾に笑っていう。

「神尾、モンゴルは寒さ暑さが厳しいぞ?行くなら、体力はきちんと保っておかないとな?丁度、昼飯の時間だ。食いにいくか?」

「た、…滝岡さん、…」

どうして、僕がモンゴル行く予定で話をなさってるんですか、といいながら。

 大きく息を吐いて、神尾が肩に入った力を抜く。

「そうですね、…。現地では、いま解析やその他、…。多くの方達が、新しい感染症を防ぐ為の努力を続けられています。僕が、こちらで出来ることといえば、協力を求められたときに応えることや、…―――」

「これから呼ばれたら、あるいは、呼ばれなくても行く現地調査だな。神尾、めし食いにいくぞ?」

肩を叩いて、立ち上がる滝岡に、その笑顔に。

 敵わないですね、とおもいながら席を立つ。

「そうですね、…滝岡さん?」

「その通りだ。さて、今日の昼飯は何かな?うちの食堂は美味しいからな。…昨日は、焼き海苔が自然薯を摺下ろしたものの蒸し煮にかけてあって、おろしたての生山葵がうまかった」

「…――元々、料亭レベルだとは思ってましたが、…最近、極まってますね」

採算、大丈夫なんでしょうか?とつい考える神尾がわかるように、滝岡が悪戯気に笑う。

「元々、関の知り合いの料亭関係の処から引き抜いたからな。病院では、スタッフが外に出られずに連日仕事になることも多いんだ。身体が資本だから、せめて食事はきちんとした美味いものを摂れるようにしたいだろう?」

「それで、採算無視ですか?」

「福利厚生費だ」

「そうなんですか?」

経理関係者にきいたら、微妙に違うといわれそうなことを滝岡がいって。

疑問に思いながらも、滝岡と共に食堂へと行って。

 青空を映す大きな窓を仰いで、神尾は。

 青空と白い雲に、流れる風と、―――。

 いまだけは、平穏をしめす空を飛ぶ鳥の姿に。

 言葉を無くしている神尾に、滝岡が振り向く。

「神尾」

「はい、―――」

 振り仰ぐ空は、いまは平穏であり。

 僅かに刻を隔てただけである、感染症の脅威に世界が陥った刻から。

 言葉の無い神尾に、滝岡がしずかにいう。

「神尾、…――もし、鳥が帰って来ても」

「…滝岡、さん、…?」

不思議な微笑みを、それでも何処か暖かく思える何かを滝岡に感じて、神尾が驚いて見詰める。

「世界に、また鳥が帰って来ても、…―――」

 鳥、と滝岡がいうのが比喩であることは理解できる。

 あるいは、それは渡り鳥が運ぶ鳥インフルエンザとも。

「帰って来ることがあっても、人類は一度、それを経験しているんだ。」

「…滝岡さん、―――」

「大丈夫だ。準備して、さらに備え、…――何事もなければ、それに越したことはないんだからな」

ぽん、と肩を叩く滝岡に、少しばかり何故か泣きそうになってうなずく。

「…そう、ですね。何事もなければ、それで、…―――」

「油断せず、構えよう。しかし、な。」

「はい?」

うれしそうに、滝岡が食堂の食事をとった盆をみせていう。

「めしをしっかり食って備えよう。どうだ?」

「…―――凄いですね、…。これ、紅鮭の西京焼きにみぞれはともかくとして、…――」

いや、その紅鮭の西京焼きもレベルが凄いのだが。

もはや芸術級に美しいみぞれ――大根おろしのことだが――に乗せられた七味の美しいようす。吸い物に、そして。

「白子ですか、…?」

「ほら」

「え?」

滝岡が得意気にしめしてみせる先には、食堂のカウンタ越しに厨房に入って軽く手を挙げている関がいる。

「…関さん?」

滝岡の幼なじみで、刑事の関が何故か食堂の厨房にいるのに驚いて。

「ええと、…あの?今日のお昼ご飯は関さんが?」

「おれと、おまえの分だけだがな?特別扱いだ。他の人達には悪いが」

「ええ、それは、…―――ありがとうございます、…関さん、ですか」

「そうだ。どんな問題があっても、奴の料理を食べるときは、集中して他の問題は忘れるだろう?」

「あ、その、…」

もしかして、心配されて?と気付いて神尾が何といっていいのか困っていると。

厨房から手を洗い、あいさつをして出て来た関がやってきていう。

「神尾さん、お久し振りです。実は、此方もしばらく忙しくて、家に帰る暇がありませんでね。それで、こいつに相談したら、厨房の主が許可してくれたら、おれたちの分だけなら、作ってもいいといわれましてね」

「ええと、…関さん、つまり?」

にっこりと、関がすがすがしい笑顔で伸びをしていう。

「確かに、他の人達に料理は出せませんから。此処は食堂ですしね。特別扱いで、こいつやあなたになら、私的にということで出してもいいだろうと。しばらく振りに、いい気分転換になりました。…神尾さん」

「はい?」

刑事だが、料亭の料理人並の日本料理の腕を持ち、さらに、退職後は必ず店を開く、と常々公言している関だが。強面の黒スーツ姿の上着を着直してしまえば、とても料理人には見えないのだが。

「ストレス解消になりました。神尾さんは、しばらくちゃんと料理はなさってるんですか?」

「―――あ、…。」

いわれて、自身の趣味を思い出す。趣味というか、何というか。

「そう、ですね、…。忘れてました」

「いけませんね。俺だって、料理でこうしてストレス解消してるんですよ?神尾さんも割とそうでしょう」

「…そう、でしたね。…忘れてました」

実は、神尾にとってもストレス解消法は凝った料理を作ることであり。

 ――此処しばらく、また鳥インフルエンザ等を追って、忘れてましたね、…。

「しっかり考えるには、ちゃんとめしを食わないと駄目だぞ?」

そういうと滝岡が席に着き、その前に関がすでに盆に載せられた美しい日本料理を置くのを。

「…僕の分ですか?」

「勿論です。こいつだけに食わせてたら勿体ないですからね?白子の酒蒸しと、焼き海苔を炙って麦飯につけておいたので、どうぞ召し上がってください」

「…―――ありがとうございます」

美しい盛り付けに、すまし汁や何かのあっさりとしたものが多いことに気がついて。

「本当に、おまえ、白子白子ってうるさいんだからな?」

「いいじゃないか、好きなんだ」

「いってろ、―――」

何やら、頭上の関と滝岡がにぎやかにいっているのを聞きながら置かれた食事の前に着く。

 ――おいしそうですね。

にぎやかな、関と滝岡の気遣いに。

 そして。

「ありがとうございます。…―――いただきます」

「どうぞ」

関の微笑みと、それから。

向かい合って座る滝岡の無言の気遣いに感謝して。

 ――ありがとうございます、…―――。

言葉には、あまりできない。だけれど、世界を覆っていまだに影響のあるあの感染症の後に。

 鳥インフルエンザのヒト上気道への感染が容易になる変異がみられたこと、―――。

考えれば、肝が冷えずにいることはできない。また、そして、先の感染拡大は大きな悲劇ではあったけれど、―――。

 もし、本当に鳥インフルエンザが。

 D.1.1型の感染が、地域散発型で収まってくれればいいとおもう。

 致死率は、いつでも初期に高い。

 だが、それが落ち着くまでに犠牲となった生命が、――――。

 失われた命は、戻りはしないのだ。

 必死に、繋ぎ止めようとしても。

 …手が、離れてしまうことが。

「…―――」

 神尾は沈黙して、吸い物椀に手をかけて、しばし香りを嗅いで。

 そっとその瞬間に何も考えず、心を落ち着ける豊かな香りに力が抜けるのを感じていた。

 温かく、身体を温めるその食べ物が。

 丁寧に仕事をして、…―――。

 いま、食べる滝岡や神尾のことを気遣い、材料を選び、調理して食が身体を支えて。少しでも体力をつけられるようにと、選ばれて調理されているのを。

 食べながら感じて、息を吐いていた。

 澄んで馥郁たる香りのする椀に。

 焼き海苔の香ばしさ。

 麦飯に焼き海苔に、香ばしい棒焙じ茶に。

 ゆっくりと、癒やされる時間を感じながら、ほっとする。


 いつ、それが来るのかはわからない。

 鳥が、来るのか。

 帰来、―――。

 

 鳥、帰り来たるか、―――。


 それが帰り来たるとき、帰来せしとき。

 何が起きてもいいように、備えようと。

 鳥がいつ帰り来たるかは、人にわかることではない。

 それがいつ来るのかは、―――。

 それでも、備えようと。



 刻に備え、無駄であればそれがいいと笑いつつ。


 その刻に、―――。




 唯、そうして、かれらは備えてある。

 その刻に、手を伸ばし。

 救える命を、増やす為に、―――――。





 帰来、―――――。







                         「帰来」

                            了





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