第3話 消えた動物たち
「うぅ……頭痛ぁ~い」
「細井、しゃんとしろ。たるんでるぞ!」
「そういう警部は平気なんですか? 昨日、相当飲んでたでしょ」
細井ちゃんが突っ込むと、高須警部は顔を歪めた。
「俺だってまだ頭が痛いよ。帰ったあとも嫁さんに怒られるし……」
「それなのに、なんで仲村さんはけろんとしてるんですかっ!」
いきなり話を振られた仲村さんは、一瞬びくっとしたが、すぐにいつも通りの無表情に戻る。
「…………」
「も~っ!」
何も言わない仲村さんに、細井ちゃんは頬をふくらませる。細井ちゃんの場合、怒る元気があるなら大丈夫そうな気もするが。
「ともかく、旭と仲村は今日もパトロール頼むぞ。俺らはちょっと……今日は使い物にならんかもしれない」
「……その前にこれを」
仲村さんが取り出したのは、大きな魔法瓶。揺らすと、氷が入っているのか、カラコロと音が鳴る。中身を交番にあった紙コップに注ぐと、高須警部と細井ちゃんに渡した。
「これは? なんかいい香り」
「トマトとオレンジの果汁百パーセントのジュースです。二日酔いに効きますので」
「お、ありがとな! 仲村」
「仲村さん、優しいところあるじゃないですか! ふふっ、わかりましたよ。ツンデレってやつですね?」
「……北川巡査、行きましょう」
「は、はい」
なんだ。仲村さん、やっぱりいい人じゃないか。なんだかんだ言って昨日は相当飲んでたけど、みんなのフォローもしてくれるし。それに今のジュース、ペットボトルのじゃなかったから、自分で作ってきたってことだよな。もし本当に気が回らない人だったら、わざわざこんなこともしなかっただろうし。一応彼女自身も打ち解けようと努力してるんだ。
「あの、北川巡査」
「なんですか?」
自転車に乗る前、仲村さんはオレに声をかけた。今日も同じく無表情。ただ、視線だけは厳しいような気がする。
「昨日の話は聞かなかったことにしてください」
「昨日の?」
「私の以前の部署についてです」
「ああ。わかりました」
捜査一課のキャリア組だったのに降格だもんな。そりゃあ他の人には内緒にしてもらいたい気持ちもわかる。だけど、そのあとの言葉。
『北川くんはラッキーよ。警察官になってから得る力が、どれだけ自分の足かせになるか知ることはないのだから』
あれはどういう意味だったんだろう。オレがラッキーって。聞きたいけど、もう仲村さんは昨日のことについては触れてほしそうにない顔をしている。
……いずれわかることなのかな。オレはまだ警察官になってさほど年次が経っていない。でも、この仕事をもっと長く続けていれば……。
今日も暑い中自転車にまたがると、パトロールに出かける。仲村さんのことはともかく、問題は解決していない。消えた黒部さんや猫たちのことだ。
今日のパトロールで動物たちに会ったら、少し話を聞いてみよう。嫌な予感がする。ペダルをこぎ出すと、さっそく犬の散歩でよく使われる公園に向かった。
「北川巡査、ここは?」
「あー……よく子ども連れの親子が来る場所なんですよ。道路にも接しているので、注意喚起を」
「なるほどね」
嘘ではない。現に今も、遊具で遊んでいる子どもや、それを見守っているお母さん方がいる。
「それでは、仲村さんはお母さんたちに安全指導を。オレは、犬の散歩をしている飼い主さんに話をしてきます」
「話?」
「小型犬でも、たまに子どもを噛んじゃったりするでしょう? そんな事故が起こらないようにって」
「……そういう注意も必要なのね。あなたを見ていると勉強になるわ。これからも色々指導してちょうだい。階級関係なく、ね」
「は、はい!」
いつも冷静な仲村さんに褒められると、正直照れくさい。高須警部はわりと後輩や部下の指導に長けている人だから、いいところがあると頻繁に褒めてくれる。つまり、褒めて伸ばすタイプだ。だからやる気が出るんだけど、仲村さんみたいにストイックに見える人だと、滅多に人を褒めたりしなさそう。これはオレの勝手な考えでしかないけど、そんな仲村さんに認められたところがあるってことは、なんか……うまく言えないけど、高須警部に褒められたとき以上の嬉しさがあるというか。これがいわゆるツンデレのデレの部分だとすると、その破壊力はすさまじいものなんだなと痛感する。
「じゃ、オレは向こうに行ってますから!」
顔が赤くなるのを誤魔化しながら、犬を連れた若い女性に声をかける。
「すみません、ちょっとよろしいですか?」
「はい」
「あの、ワンちゃんなんですが、ここは小さなお子様もいらっしゃるので、できるだけ目を離さないようご協力お願いします」
「ええ、わかってますよ」
「それで……ちょっとワンちゃん、なでてもいいですかね?」
オレの急な申し出に、飼い主の女性は目を丸くしたが笑顔でうなずいてくれた。
「ええ、ショコラといいます」
「ショコラちゃんかぁ。こんにちは」
「なんや、わしに用でもあんのか、兄ちゃん」
え、ショコラちゃん……女の子じゃ? 確認すると、ある。男の子……っていうか、おっちゃんだったか。
オレは飼い主さんが子どもを眺めているのを見計らって、ショコラの兄さんにこそっとたずねる。
「最近黒部さんがいなくなったのはご存知ですか」
「そりゃ知ってるがな! 大ニュースになってるからな。知りたいのはその情報っちゅーわけか。んだけど悪ぃのう。なんの情報も持っとらんのよ。他の犬と会う機会もあんましないしなぁ」
「そうですか……。何かわかったことがあったら教えてくれますか?」
「おうよ、任せとき!」
「ご協力、感謝します! ……ありがとうございました」
「いえ、いいのよ。ショコラちゃんも、おまわりさんバイバ~イって」
「じゃあの!」
……飼い主さん、ショコラの兄さんの本性を知らないんだろうなぁ。散歩に来ていたのは彼だけだったので、自転車を止めた場所に戻る。仲村さんはオレが来るのを待っていた。
「なんだかあなた、飼い主というよりも犬と会話していたみたいね?」
「えっ!」
ぎくっとしたが、仲村さんはそれに気づかず、すぐに無線を手にした。どうやら事件らしい。
「北川巡査、二丁目三番地でひったくり事件よ。ここから近いわよね」
「そこの角を曲がったすぐのところです! 行きましょう!」
急いで自転車に飛び乗ると、オレたちは猛スピードで二丁目に向かった。
住宅街の現場に急行すると、そこにはおばあさんが座り込んでいた。自転車を止めると、オレはさっそく声をかける。無線から聞いた被害者と特徴が合致している。
「あ、ああ、おまわりさん。若い男に手提げを取られてしまってねぇ」
「何か特徴はありますか? 身長はオレに比べて低いとか、高いとか……」
「おまわりさんよりと同じくらいかねぇ。あとは黒い上着を着ていたとしか」
オレと同じだったら、百七十五センチくらいか。それにしても夏場に黒い上着はおかしい。偽りの特徴ってことだな。
「…………」
「仲村さん、何してるんですか! まだ被疑者はこの辺にいる可能性だってあるんですよ!」
オレがおばあさんに話を聞いていたのに、仲村さんはというとひまわりの花に手をかざしていた。
「……犯人はこの先を走って直進。途中で上着を脱いでいるわ。今はグリーンのTシャツでうろついているはず。急ぐわよ!」
「え?」
「ほら、早くっ!」
仲村さんに急かされるまま、また自転車に乗る。彼女の言う通りに直進していると、確かに途中で遺留品だと思われるジャンパーを回収した。あとはグリーンのTシャツの男が本当にいるかどうか……。
キョロキョロと辺りを見回していると、本当にいた。手にはあずき色のバッグ。おばあちゃんが手提げと言っていたものだろう。若い男が持っているのは、明らかに不自然だ。
「確保!」
「わっ!」
オレが叫ぶと、男は走って逃げだす。それに簡単に追いついた仲村さんは、自転車を乗り捨てると男にタックルを食らわせる。腕を捻りあげ背に回すと、手錠を用意する。
「北川巡査、時間!」
「午後一時三十六分です!」
「窃盗、現行犯逮捕!」
「な、なんでこんな早く……」
がくっとうなだれる男に、仲村さんは冷たく言った。
「警察をなめないことね」
しばらくして、男を署に連行するためのパトカーが到着する。それに被疑者を乗せると、オレたちはホッと一息をつく。
「そういえば、ここの課に来て初めての逮捕じゃないですか? 仲村さん」
「言われてみればそうね」
人の視線がないことを確認すると、一本八十円の缶コーヒーが売っている自販機で冷たいブラックをふたりで買う。
それにしても、なんで仲村さんは犯人の逃走経路や上着のことがわかったんだ? 刑事の勘? にしてもおかしい。上着の下に着ていたTシャツの色まではさすがにわからないだろう。
この人……やっぱり謎が多すぎる。少しは理解してきたと思ってたけど、それは奢りだった。過去のことも、今のことも。
ごくりと最後の一滴まで飲み干すと、仲村さんは缶をゴミ箱に捨て、自転車にまたがる。
「早く行くわよ」
オレも急いで飲み干すと、次のパトロール先へと向かった。
くたくたになって夕方交番に戻ると、いつもなら誰も来ていないのに、大勢の市民が駆けこんできていた。
「な、何が起きたんですか?」
人を避けて高須警部に近づくと、ちょうどよかったと言わんばかりに対応するように指示される。細井ちゃんもせわしなく動いているし、人手が足りなかったみたいだ。
さっそく住民に話を聞こうとしたところで、ハッとした。この人、確か……。
「うちのシロがいなくなったんだよ!」
そうだ。シロくんの飼い主さん! 向こうで細井ちゃんが対応しているのは、モフちゃんのお母さんだし、オレと同じく帰ってからすぐに応対に回るように言われた仲村さんと話しているのは、ゲンタおじさんの……。ここにいるのは犬の飼い主たち? とりあえず交番に来ていた飼い主たちの話を一通り聞き終えると、オレは頭をかいた。
「一体どうなってるんだ? 東雲西の犬たちが、一斉に行方不明になるなんて」
「犬泥棒でしょうか? でも、その割には一般家庭のワンちゃんを狙ってますよね。しかもミックスの子もいますし……」
細井ちゃんの家から見ればどこも一般家庭になってしまうんだけど、確かに名家だとかそういう犬ばかりが消えたわけではない。普通の家の子が消えている。
「でも、これは確実に誘拐だわ。飼い犬が全員脱走なんてあり得ないでしょう」
そうなんだよな……。仲村さんの言う通りだ。外で飼われている子だけじゃなく、室内犬でも目を離した隙にいなくなってた、というケースもあった。
「まるでハーメルンの笛吹男みたいだな。あれは犬ではなくてネズミだったか。笛を吹いて、犬を呼び寄せてるんじゃないか?」
「まっさかぁ!」
細井ちゃんが高須警部の背中を叩くが、なくはない話だと思う。誰かが動物を操って、さらったとしたら? だけど、そんなことができる人間なんているのだろうか。ともかく、もう少し情報が必要だ。しかし、猫たちも見かけなくなったし、あと聞ける相手は……。
「うーん、あいつらと接触するのは難しそうだけど、やってみるしかないな」
オレは仕事上がりを待って、近所の大きな神社に行ってみることにした。
氷上神社――そこには大きな木がたくさんある。夜は鳩やカラスの寝床になっているのだ。
「あいつら、夜目が効かないからなぁ。夜に話を聞くのは難しいと思うんだけど、仕方がない」
本当は朝、ゴミ捨ての時間に聞くのが一番だが、ちょうど出勤時間と重なってしまい、ゆっくりと目撃証言を聞けない。それに今は夏だ。昼間は暑いから、鳥たちは木陰で休んでいる。それを大声で呼び出すのはさすがにまずい。警察官が鳥に呼びかけているところなんて、運が悪ければ事案だ。
オレは人気がないことを確認すると、声を上げてみる。夜に餌を撒いても、鳥たちは来ない。だから手段はこれしかないのだ。
「おーい、誰でもいいんだけど、捜査に協力してくれないか?」
「………」
返答なし。もう一回、同じように呼びかけてもダメ。
困っていたら羽音が聞こえた。誰かいることはいる。なのにオレは無視? なんでだ?
何度も何度も声をかけてみる。そのうち野太い怒声が聞こえた。
「うっせぇよ! 人間なんかに話すことなんてねぇ!」
オレの目の前の木に姿を現したのは、大きなカラスだった。カラスはどうやら怒っている。ここで騒いだからか? だとしたら先に謝るべきだな。
「うるさくしたのは悪かった。キミ、少し聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」
「言ったろ。人間に話すことなんてねぇ。駅近くの街路樹を切りやがって……それ以外も『鳥の声がうるさいから』って、人間の活動するところの木を全部切り倒したろ! 俺
たちは住む場所がなくなってるんだぞ!」
カラスの声に、どこからか「そうだ、そうだ!」とか「もっと言ってやれ!」という声が混じってくる。鳥たちは人間を恨んでいるのか……。そりゃそうだよな。カラスなんて害鳥なんて言われて嫌われてるし、鳩もフンをするからって言われてるし……。他の県だと、強制的に駆除されたりもしている。うちの管轄では駆除まではされていないから、オレに情報は来ないけど……他県から来た鳥たちもこの中にはいるんだろうな。だとしたら、人間が恨まれていても文句は言えない。
でも、どうしても情報はもらいたい。オレは粘ることにした。
「なぁ、どうすれば話を聞いてもらえるか? できることなら何でもする」
「だったらさっさと出て行け! 人間にできることなんて、ひとつもねーよ!」
うっ、手厳しいな。カラスたちはギャーギャーと威嚇するように鳴く。今日のところは引き上げるしかない。また散歩している犬に片っ端から当たるしかない。
神社から出ようとうしろを向くと、ジャリっと砂を踏む音が聞こえた。
「ずいぶん苦戦しているようね」
「な、仲村さん? なんでこんなところに!」
「それはあなたも同じでしょう?」
「オレは、その……」
鳥たちと話をしにきたとは言えない。オレの能力や白波のことは口にできないんだ。
ふと、仲村さんの足元に目が行く。黒のパンプス。あの歓迎会の日も確か彼女はこの靴を履いていた。そして猫を探しに行ったとき、オレをつけていた人間もヒールのある靴を履いていた。まさか、あのときにオレを追いかけていたのは、仲村さん?
「仲村さん、あなたは――」
「また明日ね、北川くん」
彼女は一体何者なんだ? 踵を返し、その場を去る仲村さんの背を見つめるオレ。その頭の中はクエスチョンマークでいっぱいだった。
マウンテンバイクに乗り、小屋に向かっているときのことだった。道路に何か落ちていた。いや、『落ちていた』んじゃない。『倒れていた』。ボロボロでケガをしている豆しばだ。オレはマウンテンバイクをその場に倒すと、急いで犬に駆け寄った。
「おい! 大丈夫か?」
見たところ、交通事故ではなさそうだ。だが、ガリガリに痩せているし、かなり毛も汚れている。動物病院はこの辺にない。オレは躊躇なくリュックの中に犬を入れ、顔だけ出るようにする。
「うちまで我慢してくれな?」
またバイクに乗ると、小屋まで急ぐ。
到着すると、すぐに犬をリュックから出し、とりあえずケガの手当てをしようと思った。だが、その前に身体を洗ってやらないと。雑菌が入ってしまうかもしれない。だが、うちの小屋には風呂がない。キッチンに流しはあるけど、この子が入るには狭い。
オレは犬を抱いたまま、おばちゃん家のインターフォンを鳴らした。
「あらぁ、どうかした? 旭ちゃん」
「おばちゃん! 外のガーデニングに使ってる水道っていうか、ホース、借りていい?」
「いいけど……そのワンちゃんを洗ってあげるの? だったらひとりじゃ大変でしょう。つみき~!」
「なあに、お母さん」
「旭ちゃんの手伝い、してあげてちょうだい。ワンちゃんを洗うんだって」
「ケガしてるの?」
ワンピースを着ているつみきちゃんに、オレはうなずいてみせる。かわいい格好をしているのに、手伝わせたら服を汚してしまうかもしれないな。
「手伝いはいいよ。オレだけで大丈夫」
「気を遣わなくてもいいよ。私もやる。ワンちゃん、かわいそうだし。あと消毒液とか必要だよね。お母さんはそれ、用意しておいて!」
そういうとつみきちゃんはサンダルを履いて、オレの住む小屋の近くにある蛇口をひねった。ホースの先についているシャワーを手にあて、温度を確認。水だけど、暑いせいかぬるま湯に近い。これなら平気だろう。
オレは犬を立たせると、泥がこびりついたところをゆっくりと洗っていく。途中犬は痛がったが、それでも大人しかった。つみきちゃんは犬の顔にかからないように、水をかけてくれる。
「キミ、どうしたんだ? あんなところに倒れていて」
「……北川旭さんですね?」
「え……オレのこと知ってるのか?」
「細かい話はあとで。彼女の前だと不都合でしょう」
「あっ」
つみきちゃんは不思議そうな顔でオレを見ている。そうだよな、警察内部でも特殊な存在なのに、つみきちゃんに能力のことを知られたら……。
「よしっ! きれいにはなったかな。あとは消毒液。染みるけど、我慢してね?」
つみきちゃんが消毒液を染み込ませたガーゼを傷口に当てると、「キャンッ!」と小さく鳴いた。
「旭くん、ワンちゃんのご飯はあるの?」
「一応、犬用の缶詰、買い置きがあるんだ」
「え、なんで!」
「たまに迷子犬を保護することがあって。ほら、署で預かることもできるけど、ここならもともと猫屋敷だったし、いいかなって。犬も人と一緒のほうが安心するだろ?」
「あー、そういうことだったんだ。なんだ、旭くんがたまに犬缶食べるのかと思った!」
「オレ、そんな風に見える? 変人じゃん!」
「ふふっ、旭くんはいい人だけど、変人だよ。まぁ、そういう変なところ、嫌いじゃないけどね!」
「それってどういう意味だよ……」
「別に意味なんてないよ。……あとは大丈夫だよね。じゃあおやすみ!」
細井ちゃんといいつみきちゃんといい、褒めてるのか、けなしてるのかわからない。女性陣ってなんでこうなんだろうなぁ……。
「つみきさん、いい人ですね」
手当の済んだ豆しばがつぶやくと、オレはついため息をついてしまった。
「いい子なんだけどねぇ、たまによくわからない。……さ、それよりもキミの事情聴取をしないといけないな」
豆しばを抱き上げると、縁側へと連れていく。白いプラスチックの皿の上に犬の缶詰を出してあげたら、あっという間にペロリと平らげた。
豆しばは桜子さんと名乗った。彼女はオレの東雲西交番管轄の地域に住んでいる野良だった。
「餌を探していたら声がしたんです。旭さんのお噂は聞いていましたから、てっきりあなただと」
「なんでそう思ったの?」
「……私の言葉を理解していたようだったので。名乗ったら、『桜子さんだね』って復唱しましたし」
まさか。この近くで、オレと同じような能力を持っている人間がいるということか? 白波のメンバーか? そうだとしたら自然に限られてくる。この辺で活動しているのは東雲西交番の面子だ。そうなると怪しいのは……。
「仲村さん?」
そう言えば彼女が来てからだ。変なことが起こり始めたのは。これは偶然なのか? 同じ仲間を疑いたくはないけど、さっきの件もある。オレを尾行していたことは確かだし、カラスと話をしているときも『苦戦している』ってわかっていたみたいだし……。
仲村さんのことはともかくだ。桜子さんの身に何が起こったのかが問題だろう。オレは話を元に戻す。
「桜子さん、キミはどうしてあんなところで倒れてたんだ?」
「捕まったあと、逃げてきたんです。犬や猫の言葉がわかる人間に操られて、いつの間にか工場にいたんです。そこでまた、記憶を失ったんですが……」
桜子さんは怯えながらオレに話す。桜子さんは記憶を失ったあと、運よく目を覚ますことができた。そこで見た光景というのが、催眠をかけられた動物たちが人形を食いちぎるというものだった。
「本物の人ではなかったんですが、人形の腕には本当の肉が付けられていて……私、直感で思ったんです。これは私たちに人を殺させる訓練をさせているんだって」
彼女の言うことが事実ならば、かなりまずい。犬や猫を兵器として開発しているってことじゃないか!
人を襲った動物の末路。軽傷だったり、ちゃんと飼い主がいて責任を取ってくれるならまだいい。だが、野良だった場合は――。
「桜子さん、今日はとりあえず休もう。明日の夜、他のみんながどこにいるか、案内してもらえるかな。怖いことは承知だけど、もしかしたら今誘拐されているみんなも、そこにいるかもしれない」
「わかりました。その代わり……今日は旭さんと一緒に眠ってもいいですか? まだ怖くって」
「うん」
軽くうなずくと、窓を開けて万年床に横たわった。街の動物たちを利用して、悪いことをしようとするやつは絶対に許せない――。オレは、桜子さんが寝つくまでできるだけ身体を優しくなでながら、悪と戦おうと強く決心していた。
「旭さん、おはようございます」
キャン! と声がする。ごろんと寝転がって時計を見ると、六時。目覚ましが鳴る前に桜子さんが起こしてくれたようだ。
「おはよう、桜子さん」
桜子さんは安心して眠ったおかげか、は昨日よりだいぶ回復しているように見えた。ご飯をあげると、オレは水で冷やしたタオルで身体を拭く。この小屋の難点は、シャワーと浴室がないところだ。おばちゃんに言えば、お風呂は貸してくれるんだけど、さすがに申し訳ない。それにどうせ仕事中に汗はかくんだ。最後にデオドラトシートでもう一度拭き、スプレーをする。シャツに着替えたら、縁側へ行く。
「あ、旭くん、おはよう!」
「あれ? おばちゃんは?」
いつもだったらおばちゃんが土いじりをしている時間なのに、今日はいない。つみきちゃんが代わりに庭に水を撒いていた。
「お母さんは珍しく寝坊。朝ご飯あるよ! 今日は時間大丈夫だよね?」
「うん。珍しく寝坊しなかった」
オレが笑うと、つみきちゃんは一度家に戻る。少し待つと、玄関からお盆を持って出てきた。今日はだし巻玉子に肉じゃが、わかめの味噌汁とご飯だ。
「和食だ。もしかして、つみきちゃんの手作り?」
「お母さんが寝坊したんだから、私の手作りに決まってるじゃん。お母さんいつも洋食だから、たまには和食が食べたいんじゃないかなぁって思ったの」
「ありがたいよ! いただきます!」
だし巻玉子はほのかに甘い。うちの母さんが作るのと同じ味だ。肉じゃがも味が染みてるし、ご飯との相性はバツグンだ。
「うん、うまい! これは朝からラッキーだったな」
「そんなに褒めてもらうと嬉しいな。夏休みの間、またお母さんが寝坊したら、私が作ってあげるよ」
ご飯をごちそうになっているだけでもありがたいのに、本当につみきちゃんはいい子だ。普通だったら自分の家の敷地内に住み着いた謎の男に、ここまでしてはくれないだろう。
もぐもぐと朝ご飯を食べていると、桜子さんが近づいてきた。
「旭さんはつみきさんとお付き合いされてるんですか?」
「ぶっ!」
突然の質問に、オレは味噌汁を噴き出す。
「ちょっと、大丈夫? のどに詰まったんじゃない?」
「い、いや、大丈夫だよ。……桜子さん! いきなり変なこと聞くなよ!」
小声で文句をいうと、桜子さんはぺろんと自分の鼻を舐めて笑う。
「だって、どう見ても恋人同士だったから」
「違うよ。ただの居候とその家主の娘!」
「そうでしょうか? つみきさんは旭さんのこと、好きなんじゃないかなぁ?」
「まさか。いい子だし、かわいいんだから、高校に彼氏でもいるんじゃない?」
「じゃあ、旭さんに彼女は?」
「オレは……」
……そういや、考えたことなかったな。高校一年のときは陸上部一筋だったし、そのあとは引きこもりからいきなり警察官になったんだ。警察学校でも出会いなんてなかったし……。え、オレって今初めて気がついたんだけど、恋ってしたことないんじゃないか? はぁ、そうだよなぁ。仕事に慣れることしか考えてなかったもんな。
「でも、今は彼女とか言ってる場合じゃないよ。オレはオレの職務を全うしないといけないからな!」
「ふふっ、かっこいいね、旭くん」
「え! つ、つみきちゃん、聞こえた?」
「大きな声で、はっきりきっぱり言い切ってたじゃない。そりゃ聞こえたよ」
「あはは、参ったな……」
桜子さんは楽しそうにしっぽを振っている。彼女にしてやられたなぁ。
だけど、今行ったことは事実だ。勤務が終わったらみんなを助けに行かないと。きっと飼い主がいる子たちは家に帰りたがっているだろう。そうじゃない子たちだって、怖い目にあわされているんだ。
「桜子さん、夜までにしっかり休んでおくんだよ」
「はい、わかってます」
「あ、そうだ、つみきちゃん。今日って部活あるの?」
「ないけど、どうかした?」
「この子、桜子さんっていうんだけど、面倒見てあげてくれる? 小屋の中だと暑いから、できれば庭で」
「うん、いいよ」
本当につみきちゃんはいい子だ。オレは桜子さんを彼女に預けると、いつも通りマウンテンバイクに乗って署に向かった。
「……北川巡査のおかげで、だいぶパトロールにも慣れた気がします」
「そう……ですか」
違反駐輪している自転車にタグをつけ、書類に記入をしていた仲村さんは、オレのほうを向いた。
「何? 聞きたいことがあるなら、率直に言いなさい」
「昨日、なんであなたはオレのあとをつけてきたんですか? あなたは一体何者なんですか!」
オレがたずねると、仲村さんは帽子をかぶり直した。
「私は私の役目を果たすために動いているだけ。それ以上言うことはないわ」
「そんな……」
率直に聞けと言われたから聞いたのに、結局はぐらかされるなんて。仲村さんは書類を自転車のケースにしまうと、オレをちらりと見た。
「次の場所に移動するわよ」
仲村さんの役目って、一体なんだ? オレを監視すること? だとしたら何のために……。
仲村さんに関してはわからないことばかりだ。オレは自転車をこいでいる途中、ずっと唸っていた。
交番勤務が終わると、オレは署にある自分のデスクを見た。そこには一通の封書。『親展』のハンコが押されている。送り主の名前はない。当たり前だ。これはオレが今朝、白波の特権で申請した逮捕状。通常の逮捕状だったら、裁判所から上長に送られてくる。だが、これはオレが独断で取ったものだ。
着替えを終えると、トイレの個室で封を開ける。罪状、『窃盗罪』。被疑者名は空欄だ。動物の誘拐なのに窃盗罪になるのは、動物が法律上『物』に価するから。
人間の誘拐はもっと重い罪になるのに……。やるせない思いがしても、今のオレにどうこうできる力はない。法律を変えるのは国会議員の役目だ。オレたち警察官は、雲の上の人間が作った法律に則ってしか動けない。それが歯がゆくも思うが、国のバランスを取るには仕方のないことなのだろう。それなら――『最強の特権』を使ってやる。
逮捕状をリュックにしまうと、急いでマウンテンバイクを走らせた。明日が休みだったのはありがたい。できれば今夜中に犬や猫たちを助けて、明日には元の住処に返してやりたい。
この間と同じように、白い特殊制服に身を包み、帯刀する。
「桜子さん、準備はいい?」
「はい。怖いですけど……旭さんが守ってくれるんですよね?」
「うん、もちろんだ。さ、リュックに入ってくれるかな?」
「リュック……ですか?」
桜子さんは不思議そうな顔をした。多分彼女は、オレが車で来ると思ったのだろう。いつも犯人を逮捕するときは覆面パトカーを借りている。だが、今回は違う。
「今日は愛車を使うから」
小屋のうしろからこっそり出したのは、赤いモンキーだ。こんなものが止まっていることは、おばちゃんも知らないはず。できるだけ隠しておいたから。
桜子さんは心配そうな目でオレを見つめた。彼女の勘はおそらく当たっている。普段バイクやパトカーを使わない理由。それは街中だったら自転車のほうが小回りが利くから。それ以外にもうひとつ。
――オレが覆面パトカーを借りないときは、相手を逮捕する気がないときだ。
「……桜子さん、どっちの方向かわかる?」
「えっと、確か東のほう……近くに大きなゴミ収集場があるところです」
「ゴミ収集場……緑沢か!」
エンジンをいささか乱暴にかけると、桜子さんが小さく「きゃっ」と叫んだ。
「わっ、旭さんって運転荒いんですね。自転車のときとは大違い」
「…………」
「旭さん?」
「あ、あはは、ごめんね。気をつけるよ」
バイクを車道まで持っていくと、赤いヘルメットをかぶり、オレは十五分かかる緑沢のゴミ収集場まで五分で到着させた。
「はぁ、はぁ……やっと着いたんですね。バイクでこんなに酔うなんて」
「あー……ごめんね? 桜子さん。免許取ってからあんまり運転する機会ってないから、つい調子に乗っちゃって」
「旭さんはずっと自転車に乗っててくださいっ!」
桜子さんに怒られてしまった……。
ともかく、気合いを入れ直さないと。この先の工場に、みんながいるはずなんだよな。耳をすますが、動物の声は聞こえない。
「きっとみんな催眠にかけられてるんだわ」
「もう少し近づいてみようか」
ざりっ、と砂を踏んだそのとき――。
「っ!」
「きゃああっ!」
「ワンワンワンッ!」
「ンニャアアッ!」
「み、みんな!」
オレはとびかかって来た大勢の犬や猫たちを腕で防ぐ。鋭い爪や牙でひっかかれたり噛まれたりする。襲ってきた動物たちの中には、黒部さんの姿もあった。やっぱり、みんな操られてるっ!
「目を覚ませっ! みんな!」
オレの声は誰にも届いていないみたいだ。足元でずっと唸り声を上げている。
「くっ、どうすれば……」
「どうするもこうするもないよ。諦めたら? キミは無力だった。それだけのことだよ」
「誰だっ!」
動物たちが道を開けると、釣り目で細身、黒いスーツに手袋をした男が出てきた。この男、オレは知っている……。
「蓼丸……蓼丸尊、か?」
「久しぶりだね、北川クン。高校のとき以来かな? お互い辞めてしまったから関係ないかもしれないけど」
蓼丸は高校一年のとき、同じクラスの生徒だったやつだ。こいつがどうして動物を操っているんだ? 白波のメンバーはもちろん、警察内部の人間でもないはずなのに。
「その白い制服、特別能力捜査官のもの……『白波』っていうんだっけ?」
「なんで知っている!」
「さあ? それで、キミの武器は刀ってところか。でもそれじゃあ、キミの仲間たちを傷つけてしまうんじゃない? それを使ってボクを倒せるの?」
金倉みたいに刀は通用しない。もともとその予定だった。今回刀を抜くつもりはない。だってこれは単なる『脅しに使う道具』だからだ。本当のオレの武器、それは――。
「止めなさい、北川巡査」
胸に手を近づけようとしたところ、うしろから声がかかった。
「な、仲村さん!」
なんでここに彼女が。しかもその白い制服は……『白浪』?
仲村さんはオレと蓼丸の間に入る。動物たちは唸ったままだが、それもいとわない。まっすぐにオレをにらみつけると、すっと近寄り手を押さえた。
「白波『赤星』所属・北川旭巡査。あなたのやろうとしている行為は、最強特権行為ね?」
無言を貫くが、仲村さんには完全に気づかれてしまっている。
オレは、動物たちが好きだ。もちろん『みんなの街のおまわりさん』でいることも嫌いじゃない。子どもやおじさん、おばちゃんたちも。だけど、人間よりも動物たちは弱い。権利もないようなものだ。だから、特権を持ったオレが代わりに……。
「どいてください、仲村さん。そこにいるのは、動物を使って人を殺そうと企む、最低なやつだ!」
「そういうところが危険だと判断されたのね、あなたは」
「え?」
「私が東雲署に来たのは、同じ赤星のメンバーとして、あなたの監視役として派遣されたからなのよ」
オレの行動は、お上からも目をつけられていたってことか。でもオレは、別に違反行為はしていない。越権行為だって。すべて白波の規定範囲内の行動だ。
「監視役だろうがお目付け役だろうが、関係ありませんよ! オレは……オレは蓼丸に話がある!」
「悪いけど、ボクにはなくなってしまった、かな」
「蓼丸!」
「白波同士のゴタゴタは、よそでやってよね。ボクにはボクの仕事があるんだ。北川クンを出迎えたのは、ただ邪魔をされそうだったからってだけだったしね」
蓼丸はそれだけ言うと、オレたちに背を向ける。動物たちも、蓼丸のあとに従ってついていく。
くそ、みんなはあんなに近くにいるのに、声も気持ちも届かないなんて! オレは胸に当てていた手を拳にして、大声をあげた。
「みんな! 家族や仲間が待ってるんだぞ! そんな男についていくなっ!」
「……あ、そうだ。北川クン」
蓼丸は振り向くと、釣り目を細めてひとこと言い捨てた。
「動物と話ができるんだっけ。キモいね」
「っ!」
言葉が何もうかばなかった。身体はこわばり、一歩も動かない。動いたところで仲村さんがいるから蓼丸に攻撃することはできないが、せめて……せめてみんなを引き止めたかったのに。
「旭さん……」
リュックから心配そうに顔を出す桜子さん。キモい。気持ち悪い。キモチワルイ。
『北川、お前キモいよ! 頭大丈夫?』
オレを嘲笑する声が響く。もうあのときと同じじゃない。オレは克服したはずだ。あのときの気持ちを。オレは強い。気持ち悪くなんてない。オレの能力は、みんなを救うことのできる力……。
「……そうだよ。そのはずなんだ。なのに、結局救えてないじゃないか……」
がくりとひざから崩れ落ちると、仲村さんはオレに向かってはっきり言った。
「無様ね。あなたは白波にも警察にも向いていないわ」
「だったらオレ……どうすればいいんですか? 白波の一員でいられなかったら、オレの存在意義なんて……」
「はぁ、これだから若い子は。仕方ないわね。私のほうから署には連絡を入れておく。三日くらい休みを取りなさい。そんなやわな神経じゃ、犯人逮捕なんてできないわよ」
そういうと仲村さんはオレに手を差し伸べる。涙目で彼女の顔を見て手を取ろうとしたら、振り払われた。
「違うわ。甘えないで。バイクのキーを貸しなさい。これはしばらく没収よ。三日間の休暇だけど、謹慎期間でもあることを忘れないように」
「謹慎?」
「あなたの行為に違反はない。だけど、あなたの監視役である私の判断よ。わかったわね」
仕方なくバイクのキーを渡すと、仲村さんは数歩進んでつぶやいた。
「……気持ちが悪いのは、当たり前なのよ」
それだけをオレの耳に残すと、無情にも去っていってしまった。それでも自分が気持ち悪いなんて、認めたくなかった。認めてしまえば自分の存在意義がなくなる。悔しくてしかたがなかった。涙だけがぽたぽたと落ちる。
リュックから出てきた桜子さんが、オレの頬を舐めて慰めてくれる。
「気を落とさないでください。一応みんながまだ無事だってわかったし……」
「でも……」
「わかりませんけど、あの男は何か企んでる感じだった。だから、そのときまでみんなは大丈夫。そう信じましょう」
「……うん」
オレはようやく立ち上がると、桜子さんと一緒に長い道のりを歩いて帰ることになった。
深夜一時半。こんな格好でうろうろしていたら不審者だ。ただ安心なのは、ここの辺りをパトロールする夜勤の警察官がサボリがちというところくらい。それでも安心できないから、オレは白い制服の上を脱ぎ、武器をそこに包んだ。
桜子さんにご飯と水をあげると、オレはTシャツにジャージ姿で縁側に座り、星を眺めていた。
高校時代のこと思い出す。この能力を手に入れた頃のことを。陸上部だったオレに、最初に話しかけてきたのは、ジョギングコースで毎日会う犬たちだった。
「お兄さん、毎日頑張ってるね!」
その子はまだ幼くて、ふわふわもこもこしていた。もちろんオレは気のせいだと思ったが、綿毛みたいなトイプードルは、毎日オレに声をかけてきた。
「もうすぐ大会なんでしょう? うちのお姉ちゃんが言ってたんだ!」
無視をしてもへこたれず、何度も何度も話しかけられるものだから、オレはつい飼い主の女の子に、ある日「この子、なでてもいいですか?」と言った。
なでてあげると、その子犬は嬉しそうに尻尾を振り、頭を手にすりすりと擦りつけてきた。当時はペットなんて飼っていなかったし、動物の声が聞こえるなんて信じてなかったけど、その姿を見たオレまで犬と同じように嬉しくなってしまった。心が通じ合ったって気がしたんだ。
それから毎日、オレはこの犬をなでさせてもらった。飼い主の女の子とも少し話をしたが、今となっては内容まで覚えていない。ただ、その子もオレと同じ高校の一年だったということだけ。だが、彼女は違ったようだ。
どうやら彼女の犬は、彼女がオレのことを好きだと毎日話しかけていたから、オレに声をかけてきたらしい。犬から「うちのお姉ちゃん、かわいいと思わない?」と何度か聞かれていたが、オレは「君のほうがかわいいけどなぁ」と誤魔化していた。
だが、そんな誤魔化しはいつまでも通用しない。とうとうオレはある日告白された。オレは少し考えて、「YES」と答えた。彼女がどうとかいうより、オレは……もっと犬と話したかったんだ。
もちろんそんなことを知らない彼女は、犬を連れてこないでオレのジョギングコースに現れるようになった。その度にオレは「今日、犬は?」と聞いていた。あまりにも毎回聞くものだから、彼女もムッとしたらしい。
ついに彼女に問い詰められたオレは、素直に話をした。きっと彼女も犬が好きならわかってもらえる。そう信じていたのに、言われたのは……「そんなの、気持ち悪いよ」。
彼女にそう言われた日をかわきりに、出会う動物すべての声が聞こえるようになった。前の家の番犬が、オレに朝の挨拶をする。壁を歩く猫が、世間話を振ってくる。
さすがにひとりで抱えきれなくなったオレは、クラスの友人たちに打ち明けた。だけどこんな話をみんなが信じてくれるわけもなく、オレは……。
「あれ~? 旭くん、まだ起きてたの?」
二階の窓から、つみきちゃんが顔を出す。
「そういうつみきちゃんも、どうしたの?」
できるだけ笑顔で返す。何ごともなかったかのようにうちわで扇ぎながら。蚊取り線香のにおいだけが、辺りを包む。夜でも暑いけど昼よりもだいぶマシ。オレはペットボトルの生ぬるくなった麦茶を飲んだ。
「明日は部活が休みだからさ、夏休みの課題、終わらせようと思って。旭くん、気分転換に話に行っていい?」
そういう気分ではなかったけど、つみきちゃんと話すだけで少しは楽になればいいな。オレがうなずくと、階段を降りる足音がしたあと、玄関が開いた。
「旭くん、これ」
「ソーダアイス? ありがと」
「ふふっ、なんだかずいぶんお疲れみたいだね。そこじゃ暑くて眠れないのはわかるけど、それでもいつもだったら爆睡してるでしょ?」
オレは黙ってアイスをかじった。頭がキーンとしてもだえる姿を見て、つみきちゃんは笑う。
この子もやっぱりそうなのかな。みんなと同じように、オレのことを気持ち悪いって思うのかな。つみきちゃんがいい子なのはよく知ってる。だけど……。
「あのさ、私高校生だし、さすがに大人の悩みはわからないけど……あんまり自分で抱え込まないほうがいいよ? できたら話してもらってすっきりしてほしいけど、私じゃね。お母さんにも声かけとくし、いつでも相談してよ」
迷惑かけてるなぁ、オレ。しかも悩んでることがバレバレだ。平気そうに見せたつもりなのに、嘘は下手なのかも。
「あのさ、つみきちゃん」
ゆっくりと口を開く。これは仮定の話だ。オレのことじゃない。
「つみきちゃんは、もし……動物と話すことができたら、どうする?」
「え~! 嬉しいよ! 私、犬も猫も好きだし! あ、桜子さんは?」
「今寝てる。疲れちゃってるみたい」
「ふうん」
桜子さんは、うしろでスースーと寝息を立てている。さっきよっぽど緊張したんだろうな。彼女も無理やりつきあわせてしまって悪かったと思っている。
……つみきちゃんは『嬉しい』と答えた。でも、それが永遠に叶わないことだとわかっているからなんだろう。だったら、質問を変える。
「もう一個質問。もしオレが、犬とか猫とかと話せるって言ったら?」
「どういうこと?」
「そのままだよ。桜子さんの言葉が、オレには理解できるって言ったらどう思う?」
つみきちゃんはスカートのすそをつまみ、小さく笑うと、少し首をかしげた。
「なんでそんな質問するのかわかんないんだけど」
「……あはは、そうだよね」
困らせただけか。大体、こんな質問をするだけでも気持ち悪い――。
「だけど、旭くんなら、なんとなく本当にできちゃいそうな気がする。ほら、変わってるから」
「褒められてないなぁ」
「うん、褒めてはない」
つみきちゃんはいい子だけど、手厳しい。素直と言えば素直なんだけど、たまにぐさっと言葉のナイフが刺さる。それでも彼女は、アイスを食べながら空を見上げて、ふふっとこぼした。
「褒めてはいないけど、変でもいいと思うんだよねぇ。色んな人がいるんだから、誰だってどこかは変なんだよ。動物と話せるような変な人がそばにいても、それはそれでいいと思う」
「つみきちゃん……」
「なんてね、お母さんの受け売りが少し入ってるけど」
おばちゃんの言葉か。この親子は本当に……本当にすごいよ。いつも前向きで、人生を楽しんでるんだから。オレもできるだけポジティブでいたいと思ってるけど、たまにはどうしても後ろ向きになってしまう。それでもまた前を向けるのは、きっとふたりがいてくれるからなんだろうな。
「オレ、感謝しないとね。つみきちゃんにもおばちゃんにも」
「急になに! それよりも旭くん、寝ないでいいの? 明日も仕事なんじゃないの?」
「あはは、失敗しちゃって、しばらく謹慎」
「そうなの? なんだ、だったら気兼ねなく朝まで話ができるね!」
「勉強は?」
「明日やればいいよ! 今は今を楽しむ!」
これだからつみきちゃんは……。『今は今を楽しむ』か。たまにはそれでもいいかもしれない。明日は昼から銭湯にでも行こうかな。今日は汗をかいたのに、銭湯が開いている時間には間に合わなかったし、夏場だ。疲れた身体を休ませることも必要だ。のんびり過ごそう、夏の日を――。
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