怪物少女の無双奇譚《フォークロア》

第一章 等活地獄篇

プロローグ 1

「地獄に咲くのは彼岸花だって、相場が決まっているけどさ」

　白桃色のレースカーテン、その隙間から射し込む白光が、薄暗い部屋の輪郭を仄かに浮かび上がらせる。白い壁に四方を取り囲まれた、八畳程からなるその個室。天井に備え付けられたシーリングライトと、壁に沿って置かれたキングサイズのベッド以外には殆ど何も無いと言っていい、あまりにもシンプルなその空間――

「私は、もっといろいろな種類の花が咲いていても良いと思うのよね」

　其処には、一糸纏わぬ姿の女性が二人、ベッドの上に並んで座っていた。

　片や先程から言葉を発している、ウェーブがかった黒髪を肩まで伸ばした女。薄らと腹筋の浮かび上がる程度には引き締まった肢体。血を啜ったかのように紅く潤ったリップと、鋭く引かれた紫のアイライン。

「地獄って辛くて痛くて怖いところなんでしょー？　どうせ私みたいなのは地獄に落ちるんだし、なら死んだ後にも花を愛でるくらいの楽しみがないとやってられないわ。そう思わない？」

　その女は人差し指と中指の間で煙草の煙を退屈そうに燻らせながら――隣の、もう一人の女に語り掛けている。

「……そうですね。■（・）■（・）さんは、どんな花がお好きなんですか？」

　片やシーツの中にその身を丸ごと包みこんだ、艶のある黒髪を腰の辺りまで伸ばした女。モデル顔負けのすらりとした長身で細身。化粧っ気の無い顔には未だどこか幼さを残している。

　事実、彼女はまだ十七の少女であった。大きな瞳、長い睫毛、病的なまでに白い肌、それらが少女に精巧に作られた人形のような印象を与える。

「えー？　好きとか特に無いけど……うーん……まあ強いて言うなら……ユリの花とか？」

「……いいですね。地獄の底にそんなものが咲いていたなら、なんて素敵……思わず立ち止まって、見蕩れてしまいそうです」

　その少女は、未成年の前で煙草燻らす女の戯言にも真剣に耳を傾けていた。控えめな膨らみを帯びた自らの胸にそっと手を当て、思い浮かべるのは辺り一面、ユリの花畑。そこに自分と『あの人』が並び立っている情景。

「いやまあ、別にユリじゃなくてもいいんだけど……って聞いてないし」

　幸せな妄想はとめどなく溢れてきて。隣で苦笑する女を置き去りに、少女の思考は加速する。永遠に変わらぬ二人の絆。地獄の底で挙げるウェディング。そんな未来――

「愛（・）」

　――しかし。不意に降ってきた唇の感触が、少女にそれ以上の思考を許さなかった。

「じゃあさ。いつか、私達、地獄に落ちたらね」

　女は目を細め、朱を帯びた少女の頬に、優しく手を添える。

「一緒に探そう。ユリの花」

　そんな夢のような、約束にもならない約束。女は軽々しく、そんなことを口にした。

　少女にとってそれが、呪いになるとも知れず。

　◆

　■■■■年　■■月

　ぶんぶんぶん。

　少女がベッドの上で目を覚まして――最初に聞こえてきたのは、そんな蝿の羽音だった。

　いつから、どこから入り込んできたのだろう――少女の視界の端で白桃色のレースカーテンが微かに揺らめく。いつの間にか窓は開いていて、刺すような冷たい風が部屋の中へ容赦なく入り込んで来ていた。

　■■月。地上三十階下の窓の外へ目をやれば、雲のような雪化粧の上、人々の営みの灯りが星のように広がり、煌めいている。

　遠くから微かに聞こえてくる人の声。夜空に響き渡るクラクション。恐ろしくまともな日常が、足元に広がっている。

　不意に、シーツの中が蠢く。少女が隣に視線をやると、其処には人影が横たわっていた。照明に付いていない真夜中の一室、その人影の輪郭はぼやけていて、正体は解らない。

　けれど少女には見えずとも、その人影の正体が解っているようだった。だって自分が同じベッドで身を寄せ合い眠るような相手など、『あの人』以外にいないのだから――

「あ……ごめんなさい。起こしましたか」

　少女は声を掛ける――しかし返事はない。

　やがて雲の切れ間から月明かりが、薄いレースカーテンを通してベッドを照らした。

「……え？」

　――それは、ぱっくりと開いた胸元から、赤い血を流していて。

　おやすみなさいと囁き合って、共に寝床へ就いたはずの『あの人』はもう、息をしていなかった。

　ああ、どうして気が付かなかったの。まるで薔薇が咲いたかのような真っ赤な花畑の中に、私達は身を沈めていたのです――

　◆

　二〇一七年　十二月

「……え？」

　ぶんぶんぶん。

　夢の中の自身とまるでそっくり同じ声を上げ、少女は勢いよく目を見開く。

　そう、夢だった。薄いレースのカーテンを通し、ベッドに月明かりが落ちている。そこに『あの人』はいないし、ベッドな清潔な白のまま。うるさい蝿の羽音は、気付けばどこかへ遠ざかっていた。

　代わりに、純白のシーツの中で静かに横たわっていたのは、真四角の、小さな箱。

　それを認識した次の瞬間――少女の周りを、冷たい風が吹き抜ける。

　目を覚ました少女はいつの間にか自分でも気付かぬ内に、ベッドの上ではなく、冬の寒空の下にいた。

　黒いセーラー服纏う少女、その首には、いつも肌身離さず身に付けている茜色のペンダントがしっかりと下げられている。

　少女の細腕が抱える小さな箱が、ひとりでに音を立てる。それは木材と、布と、陶器が触れ合う、無機質な音だった。

　十二月。ベランダにひとり立つ少女の眼下には、雲のような雪化粧の上、人々の営みの灯りが星のように広がり、煌めいている。遠くから微かに聞こえてくる人の声。夜空に響き渡るクラクション。恐ろしくまともな日常が、足元に広がっている。

　その日、少女が学校から帰宅すると、『あの人』は寝室で自ら命を絶っていた。

　ひとり、胸に果物ナイフを突き立てて。真っ赤に染まった寝台の上で、ぞっとするほど美しい寝顔のまま、彼女は息を引き取っていた。

　火葬場へ運ばれた『あの人』は、一糸纏わぬ姿で金属の炉に入れられた。時間をかけ、骨だけを残して。私を愛し、私が愛した『あの人』は、この世界から完全に消え去ったのだ。

『一緒に探そう。ユリの花』

　そうして文字通り何も無くなったこの世界で独り、涙すら枯れ果てた、今日この日。世間では所謂クリスマスと呼ばれるその日の夜――寒空の下、少女が不意に思い出したのが、その言葉だった。

　どんな時でも『あの人』は嘘を言わなかったし、言ったことは全て本当になった。

　だ（・）か（・）ら（・）き（・）っ（・）と（・）、（・）今（・）回（・）も（・）そ（・）う（・）な（・）の（・）だ（・）。

　――『あの人』は今もきっと、地獄のどこかで花を探してる。

　――なら、私も行かなければ。行って、一緒に探さなければ。ユリの花を。

　――そういう約束なのだから。

　少女は何の躊躇いも無く、ベランダの錆びた手すりへ足をかける。『あの人』の遺骨を胸に抱きなおして。壺に入っているはずなのに、中から微かに『あの人』の臭いが漂ってきたような気がした。煙草と、アルコールと、香水の臭い――

　――そのまま、当たり前のように。軽やかなステップで、少女は手すりを蹴っていた。

　地上三十階から、真っ逆さま。真っ白な地面が迫る。耳元で風が唸る。

　こんな時にでも、思い出すのは『あの人』との思い出ばかり。

　少女の目から溢れる玉のような雫は、落ちることなく、空へ空へと昇っていく。

「あ……」

　ふと気付けば、つい先程まで両手に感じていた重みが消えていた。『あの人』の遺骨は少女の手からするりと離れ、重力に逆らうこと無く少女より一足先に地面へ向かって落ちていく。

「まってください」

　手を伸ばす。

「おいていかないでください」

　あとほんの少し、届きかけた指先が――冷たい地面に触れた瞬間。

　視界が赤く弾けて、何も見えなくなって、何も聞こえなくなって――

　少女の意識はこの世から、永遠に消え去ったのです。

　◆

『こんにちは』

　死んだ。あの高さから飛び降りて、生きているわけがない。確実に死んだはずだ――それなのに。

　何も無い、白い闇だけが広がる空間――気が付いた時には既に、少女は其処に居た。

『わたしは Earth（エ） Narrative（ン） Manager（マ）――あなたをサポートします』

　肉体の感覚が無い。まるで魂だけが其処に在るように、闇の中を彼女は漂っている。

　そんな彼女の脳内に――奇妙で、奇怪で、無機質な、そんな『声』が響く。

『検証を開始――――完了。あなたの名称が『黄昏（たそがれ）愛（あい）』であることを確認しました』

　果たして頭から落ちた自分に脳は残っているのだろうか、という疑問はあるものの――それは脳内で響いているとしか形容の出来ない体験だった。

『続いて魂の分析を開始――――完了。あなたのモデルを『ぬ（・）え（・）』に決定しました』

　声の紡ぐ言葉の意味は理解出来ないものだったが、その声に耳を傾けるほどに、身体に感覚が蘇っていくのを彼女は感じていた。

『権限の譲渡を開始――――エラー。再実行――――エラー』

　感覚を取り戻すごとに、輪郭を取り戻すごとに、次第に少女は理解し始める。

　既に自分が、ヒトではない何かに、置き変わりつつあることを。

『――――モデルの変更を確認。権限の譲渡を開始――――成功』

　そうして、すっかり変わり果ててしまった彼女――黄昏愛は、直感する。

　ああ、そうだ。きっと、この先に――

『排出開始――――ようこそ、黄昏愛。あなたを歓迎します――――』

　――念願の地獄が、待っている。