振り返るとあいつがいる

尾瀬 有得

『振り返るとあいつがいる』

 ぎらぎらとした太陽が、甲子園球場の小高いマウンドを照り付けている。

 バックスクリーンの時計によると、時刻は午後二時五十六分。試合は最終回を迎え、超満員の観客席は騒然としている。


 相手側、三塁側アルプススタンドではチアガールが列をなし、吹奏楽部が『くれない』をかき鳴らし始めた。同じく応援団は猛暑をものともしない超長ランを着込み、声を張り上げている。


 悲壮感すら漂うその姿も無理はない。彼らは春夏連覇を目指す下馬評トップの優勝候補。対する俺たちは十数年ぶりに甲子園出場を果たした古豪。まさか初戦でこんな状況に陥るなど、彼らは夢にも思っていなかっただろう。

 俺は右手で日差しを遮りながらその様子を一望し、大きく深呼吸をする。


 ああ、暑ぃなぁ。疲れた。右肩が重てぇなぁ。


「おい、どうした? 伊波いば


 ホームから近寄りつつ声をかけてきたのはキャッチャーの朝比奈あさひな先輩だ。投球練習が終わっても俺がぐずぐずしていたので、心配になったのだろう。

 マスクを上げた顔は青ざめていて硬い。その顔が心配そうに俺を見る。


「どっか痛むのか?」


 俺は首を振って苦笑を返す。


「すんません。さすがにちょっと緊張して」


 俺の答えに、先輩は真っ青な顔のままで作り笑顔だ。黒の縦縞のユニフォームは泥だらけで、先ほど八回裏の得点をもぎ取った彼の激走ぶりを物語っている。

 虎の子の一点。守り切れば俺たちの勝利、大金星である。


 だが、この試合はそれだけではない。


「まあ無理もねえ。夏は史上初だからな」


 その言葉に釣られて俺は、俺たちの得点以外ゼロに埋め尽くされたスコアボードを見る。


「でも、完全試合だなんて、あんま意識すんなよ。記録はどうあれ、ホームを踏ませずにあと三つアウト取りゃいいんだから。な?」


 そう。一本のヒットもエラーも四死球もない、いわゆる夏の甲子園史上初の完全試合での勝利を、俺たちは目前にしている。


 でも、先輩。生まれたての小鹿みたいな足でそんなこと言われてもね。


 そんな心の声はぐっとしまい込み、俺は左手のグラブを差し出して先輩のミットと突き合わせた。


「打たせてきますんで。頼んます」


「おう。皆が付いてるぞ」


 皆、ね。


 後ろを振り返れば、守備についている仲間たちは皆、落ち着かないご様子だ。

 それも仕方ない。甲子園大会は全試合が全国中継されている。完全試合をふいにした自分のエラーがテレビで取り沙汰されることを思えば、誰だって冷静ではいられないだろう。


 もちろん、それは俺だって同じだ。四死球にせよ打たれるにせよ、どっちにしたって悲劇の主人公扱いは間違いないし、パワプロなら『寸前×』の特殊能力ゲット確定。相手を勢いづかせ、目前の勝利さえも危うくなるかもしれないのだから。


 ベンチを見やれば、監督は口を真一文字に引き結んでじっと俺を見ている。


 いけるか? はい、いけます。


 攻撃中のベンチでの会話を思い出す。当たり前だ。いけます以外に答えの選択肢なんてあったか? パーフェクト直前のピッチャーのリリーフなんて誰がしたいっていうんだ。


 ああ、嫌だ。誰か代わってくれねえかなぁ。


 不安と緊張に心臓が早鐘を打つ。震える足を睨みながら、俺は自分に落ち着けと言い聞かせる。すると――


 どん、と尻のあたりを誰かに叩かれた気がして俺は振り返った。

 でも、誰もいない。朝比奈先輩は駆け足でホームの方へ向かっていて、マウンドに残っているのは俺一人だ。


 参った……幻覚とかいよいよヤバいわ。


 叩かれた尻のあたりにはポケットがある。苦笑交じりにそこに手を突っ込むと、指先にざらりとしたフェルトの感触を感じた。


 中にあるのは手作りのお守り。黄色に野球の硬球柄の、お世辞にも縫い付けはきれいとは言えない素人感満載のそれは、甲子園出場を決めた日に幼馴染の女子からもらったものだ。


「もう無理、限界、飛びてーって思ったら、これを握りなよ。助けてあげる」


 耳元であいつがそう言っている気がして、俺はお守りをポケットの中でぎゅっと握り、マウンドの足場をならした。


 あー、もう無理、限界、飛びてー……助けてくれよ、慧――




 思えば、幼なじみの六道慧りくどうけいといつ出会ったのか、記憶にはない。

 俺たちは保育園の乳幼児クラスのときから一緒で、年次が進んでもそれは不思議と変わらなかった。


「ほら、しっかりしろ、りっくん。男だろ!」


 それが幼い頃の慧の口癖だった。

 あの頃のあいつはいつも前にいて、俺の手を引いて、何をするにも先にいた。俺はいつもあいつの陰に隠れていて、傍から見ると、俺たちは姉弟のようだった。


 野球を始めたのは小学二年生の時だ。言い出したのは慧だった。


「私、甲子園行く!」地元球団の空色の野球帽を被り、慧はジャングルジムの頂上で胸を張った。「りっくんも一緒に行こう!」


 あいつがどうして突然そんなことを言い出したのかは謎だ。でも、俺は黙って頷いた。慧がやるなら付いて行くのが当然だったからだ。甲子園に女子が出られないという高校野球規約も、男女の体力差も、当時の俺たちには関係のない話だった。


 実際、慧には関係がなかった。四年生になる頃には、女子ながら遠投も足の速さもチームで一番で、左利きということもあってそのままエースピッチャーに抜擢されたのだ。


律樹りつき。お前はライトでリリーフだ。慧がピンチになったら、お前が助けるんだからな」


 監督のその言葉にも、俺は口を尖らせた。他の多くの男子たち、上級生たちと同じく。

 その頃になると俺はすでに泣き虫を卒業していて、慧の背中に隠れるばかりではなくなっていたのだ。身長は伸び、遠投も足の速さもバッティングも上級生に負けてなかった。

 ただし、慧の次に。


 あいつさえいなければ、俺がエースなのに。


 それが悔しくて、いつの間にか俺は練習の時以外では慧を遠ざけるようになっていた。女のくせに、なんて陰口を仲間たちと叩きつつ。




 やがて中学一年になり、俺は当然のようにそのまま地元の公立中学の野球部に入った。


伊波律樹いばりつきです。よろしくお願いします!」


 横一列に並んだ新入部員たちを先輩たちが値踏みするように見ている中、小柄な壮年の監督は俺の姿を見上げて、小さく何度か頷いた。


「君、でかいなぁ。期待してるぞ」


「はい!」


 大きく返事をすると監督は俺の肩を叩く。そして隣に視線を移した瞬間、微かな驚きに目が丸くなった。

 まっさらな練習用ユニフォームを着た慧が、そこには立っていた。


「六道慧です。よろしくお願いします!」


 監督も含めた全員の奇異の目など委細構わず、慧は元気よく声を張る。明らかな戸惑いの空気がその場に広がっていた。

 それはそうだ。俺の肩ほどもない背の、猫のように大きな目をした細身の女子は、明らかに場違いだった。


 監督はため息を漏らす。


「なるほど、君が……確かに女子だから入部できないっていうことはないが――」


「大丈夫です。体力は男子以上ですから!」


 監督の言葉を遮るように言って、慧は背筋を伸ばしたままにっこりと微笑む。あっけにとられた監督は対照的に渋い顔だ。


「……軟式とはいえ、あまり無理しないように。怪我にだけは気を付けて」


「はい! よろしくお願いします!」


 慧が一礼し、自己紹介はさらにその隣へと進んでいった。


 やがて皆の視線が列の端の方へ向いていくと、慧がちらりと横目で俺を見た。


「追い返されたらどうしようかと思ったよ」


 小声でそう言って片目を瞑るあいつに、俺は小さくため息を返した。


「腫物扱いは覚悟の上なんだろが」


 どんな中学でも選手としての女子の入部はかなり珍しい。少年野球の経験者でも大抵はソフトボールに流れるのが常だ。入部を許されないところもある分、ここは寛容である。


「まあね。別に平気だよ。見てな、すぐエースの座を奪ってやるんだから」


 自信たっぷりに言い切る慧に、俺は思わず舌打ちをする。


「ん? どしたの?」


「……別に」


 俺はそう吐き捨てて、それきり口を噤んで同級生の自己紹介を黙って聞いていた。


 見てろ。いつまでもお前の控えじゃねえ。エースになるのは俺だ。

 

 そう、心の中で息巻いて。




 とはいえ、俺の中学は公立ながら県内では強豪だったので、練習は当然のように厳しかった。同級生が何人も辞めていき、俺もエースどころか日々の練習についていくのがやっとだった。


 二年生になっても控え投手にもなれず、外野手としてさえ補欠にすら手が届かない有様。

 そんな俺を尻目に、慧は一年生の秋の新人戦からベンチ入りを果たし、二年になるとチームのエースとなった。

 ここでもあいつは並みいる男子たちを向こうに回して、言葉通りに背番号一を勝ち取ったのだ。


 練習はレギュラー組と控え組、それ以外で別れ、俺たちが一緒にいる時間は、練習の時さえもほとんどなくなった。

 でも、俺はもう悔しくなかった。日々の練習は惰性になり、悔しさはすでに自分の才能に対する諦めに変わっていた。


 天才って、本当にいるんだな。あいつは女なのに。もしかしたら、本当にルールなんてぶっ飛ばして甲子園に出ちまうかも……


 そんな羨望と嫉妬、もやもやした行き場のない感情を抱え、当時の俺は腐り始めていた。いつ部を、野球を辞めていてもおかしくはなかったかもしれない。


 そんな中、夏の大会の直前に問題が起きた。

 慧のピッチングが、目に見えて精彩を欠くようになったのだ。




「お前、抜いて投げてんだろ?」


 地区予選の試合の前日、投球練習の相手をしていた俺は慧に声をかけた。

 グラウンドでは仲間たちが監督のノックを受けていて、こちらを気にかける様子はない。


 俺が慧の相手を命じられたのは、幼なじみなんだからなにか悩みがあるなら聞いてやれ、ということだったらしい。


 俺が投げ返したボールを受け取ると、慧は憮然として口を尖らせ、振りかぶった。


「そんなことないよ」


 投じられた球は良いスピンがきいている。ボールをグラブにおさめ、俺は首を傾げた。


「じゃあ、なんでこれが試合でできねんだよ」


 投げ返すと慧は悪戯っ子の様に含み笑いする。


「なんかさー、りっくんがベンチにいないと調子が出ないんだよねー」


「なんだそれ。気持ち悪ぃこと言うな」


「本当だってば……あ、そうだ。監督に言ってみようか。りっくんをベンチ入りさせてくれって。出ないと私、全力出せなくてってさ?」


 その瞬間、全身の血が沸騰したように意識と感覚が遠ざかり、俺はへらへらと笑う慧に、無言で近寄った。


「りっく――」


「……テメエ、いい加減にしろよ。ナメてんのか」


 気が付けば俺は慧の胸ぐらを掴み、持ち上げていた。その身体はとても軽くて、想像以上に弱弱しくて、俺はすぐに我に返る。


 慧にしてみれば自分の不調を肴にした冗談のつもりだったのだろう。多分、他の誰かが同じことを言ったなら、ここまで腹は立たなかったはずだ。


 でも俺は……多分、慧にだけはそんな風に侮られたくなかったのだ。

 同時に、俺は驚いてもいた。

 自分のしでかした行動に。自分の中にまだ、こんなにも悔しさが残っていたことに。


 ふと周りを見ればさっきまでノックを受けていた連中も監督も、グラウンドにいた他の部の奴らまで、皆が俺たちの方を見ていた。


 慧は目を見開いていた。その目にみるみる涙が溜まっていき、それを零さないようにぐっと奥歯を噛んでいるのが、俺には分かった。


 針のような視線が俺に集まり、明らかに気まずい空気がその場に漂う。

 俺は慌てて慧から手を放し、叩きつけるようにグラブを放り投げて、逃げるようにグラウンドを後にした。


 俺はこの一件で監督からこっぴどく叱られ、二週間の部活禁止を命じられた。

 ちなみに、地区予選は一回戦負け。慧の調子は戻らず、取り返しがつかないほどボコボコに打ち込まれたらしい。


 そして、俺が部に復帰した時、慧は練習に来ていなかった。

 聞けば、部を辞めたという。

 その理由は部活を終えて帰宅したときに両親から聞いて判明した。


 試合の翌日から慧は入院していたのだった。




 入院を知った次の日に見舞いに行くと、ベッドで野球雑誌を読んでいた慧は目を丸くした。


「あれ、りっくん、練習は? むむ、さぼっただろ」


「さぼってねぇし。終わってから来たんだ」


「なら、許す」


 からかう様に笑う慧の様子に、俺はここが病院であることを一瞬忘れそうになった。ちょっと気まずくて構えてきたのが馬鹿みたいだ。


 病室は個室で割と広かった。昼の光を遮る白のカーテンとテレビ、棚と椅子があるだけの殺風景な空間で入院服を着た慧は、表面上は普段と変わらなく見えた。

 俺はそれに少し安堵しながらベッドに近づいて、軽く小突くふりをする。


「お前、入院するなんて聞いてねえぞ」


 俺が不満たっぷりに言うと、慧は申し訳なさそうに首をすくめた。


「ごめんごめん。言ってなかったっけ。まあ、ほら。そんな大げさなもんじゃないからさ。単なる検査入院だよ」


「……検査? どこか、悪いのか?」


「それを検査してるんでしょ。馬鹿ねぇ」


 それはそうだ。だが心配している幼馴染に向けて馬鹿呼ばわりはない。そもそも普通なら検査入院なんてそうそうするもんじゃない。前々からその兆候があったはずだ。


 俺はそこではたと気づいた。


「お前……最近調子悪かったの、それか?」


 睨む俺に慧はばつが悪そうに舌を出した。


「まあ、そんなとこ」


「お前なぁ……そんなんで、どうして試合なんか出たんだよ」


 んー、と慧はぶりっ子みたいに首を傾げる。


「そりゃあ私、エースだもん」


「なにが……スコア見たぞ。あんなザマでよく言えたな」


「それは返す言葉もない。でも、ムカつく!」


 べえ、と慧は舌を突き出す。そのひどい顔に俺は思わず吹き出し、慧もまた同じく笑って、しばらく二人でけらけらと笑った。


 やがて笑いの発作がだんだんと収まり、俺は何の気なく慧の顔を見て、ぎょっとする。

 突然、慧の目からするりと一筋の涙が流れるのが見えたからだ。


「あ、あれ?」慧にとってもそれは思いもよらないことだったらしい。慌てて両手で涙を拭い、再びけらけらと笑う。「参ったな。コンタクトがずれたのかな」


 嘘だ。慧の視力にコンタクトなんていらない。聞いたこともない。

 でも俺はどうしてか何も言えなかった。


「いや、あれだな。今になって悔しさが沸々と戻ってきたっていうか。うん」


 ぱちぱちと自分の頬を叩く慧。鼻をすすって照れ臭そうに笑う顔は、いつもと同じ。でも――背筋にぞくりと悪寒が走り、俺は慧の顔をじっと見つめる。


 そういえば、少し痩せたか? お前……


「……どれくらいで退院すんだ?」


 浮かんだ疑念を頭の隅に追いやり、俺は努めて明るく訊ねる。そうしないとその不安が現実になってしまいそうで怖かったからだ。


「んー、一週間くらい、かなぁ」


「……そっか。学校は?」


「そりゃ普通に行くよ」


 本当だな、と喉元まで出かかって、どうにか飲み込む。代わりに――


「……本当に辞めんのか、部活」


 そう問うと慧はどこか清々しささえ感じるすっきりした表情で「まあねー」と首を振る。


「いや、私は平気なんだけどさ。一応、激しい運動はお控え下さいって言われてるし」


「辞めることねえだろ。マネとかさ」


「選手でいられないなら、いる意味ない」きっぱりと慧は言い放つ。「私は野球がやりたいの。見ていたいわけじゃないんだ」


 なんでそこまで、と言いかけて俺は口を噤む。慧の黒々とした大きな目がじっとこちらを見つめてきて、その眼力が俺を黙らせたのだ。


「……甲子園、行きたかったんだ」そしてその目がどこか遠くを見るように窓の外へ向けられる。「子供の頃、急に言い出したからびっくりしたよね。理由なんかよく分かんない。でも、なんか憧れがあるんだ。おかしいよね?」


「……別にそんなことはねえよ。でも……」


 俺が先を口にするのを手で制し、慧は苦笑交じりに頷いた。


「分かってる。ルール上無理なことくらい。でも男子顔負けの実力になったら特例貰えるかも、なんて思っててさ。頑張った。うん、マジで頑張ったと思う」


 その結果、慧は並みいる男子たちの、県の選抜にも選ばれるような連中を置き去りにして、エースの座に君臨した。

 頑張った、というのは本当だろう。きっと俺の想像を遥かに超える努力があったはずだ。


 でも、と慧はこちらを向いた。俺はその顔をじっと見つめ、どうしようもなく胸が痛む。


 どこかで見たことのある顔。それは諦めた者の顔だった。


 俺の顔だった。


「もう、頑張ることもできないんだ、私。お母さんが隠れて泣いてるのもバレバレだし。漫画みたいなこと言うけど、自分の身体だもん。なんとなく分かるんだよね」


 俺はその言葉を黙って受け止める。言えることなんてない。何を言っても無意味だ。


「ねえ、りっくん」


 そのまっすぐな呼びかけに、俺はあいつから目を逸らしたくなるのを必死に堪える。


 やめろよ、慧。そんな目で俺を見るな。


 その目に映る感情を、俺は誰よりも理解できる。


 羨望。嫉妬。諦観。


「悔しいよ、りっくん……理不尽じゃん。なんで私がこんな目に合わなきゃならないの?」


 慧の目からするりと涙が零れる。今度はそれを隠そうともしない。


「りっくん、あの時、ナメてんのかーって私に掴みかかったよね。私、泣くほど嬉しかった。りっくん、悔しいんじゃん。ずっと、私に引っ張り込まれて嫌々……なんとなく野球やってるんじゃないかって、思ってたからさ」


 あの日の光景が頭に浮かぶ。記憶の中の泣き顔の慧と、目の前の慧の顔が重なる。


 違うよ、慧。きっかけはお前の後にくっついてっただけだけど、今は違うんだよ。俺はお前に勝ちたいって、ちゃんと思ってたよ。


 でなきゃ、いつまでもお前の後ろじゃ、カッコつかねえから――


「ねえ、りっくん。そんな気持ちがあるなら、頑張りなよ。ううん、頑張ってよ。自分が悔しいなら、自分のために頑張りなよ」


 そこで慧は、堰を切ったように嗚咽を漏らす。それはあいつがため込んでいた色々なものがすべてないまぜになったような、感情の濁流だった。


「でないと私、りっくんのこと嫌いになっちゃうよ。その身体寄越せよって、私に頑張らせろよって、怒鳴っちゃいそうだよ。うらやましくて、妬ましくて、顔見るだけでボロクソ言っちゃいそうだよ」


 蝉の声と慧の嗚咽が響く病室で、俺は黙って彼女の言葉を受け止めた。


 どれくらい経ったか。落ち着きを取り戻した慧は深呼吸をして顔を上げた。


「あーあ……ごめん。変なこと言って」


 気まずそうに舌を出す慧。

 俺は黙って両手を握り締めていた。拳の中に爪が突き刺さる痛みと共に、ふと頭には少年野球の頃の監督の言葉が浮かんだ。


「慧がピンチになったら、お前が助けるんだからな」


 分かってるよ、監督。


「なあ……慧」


 そういえば名前で呼んだのはいつ以来だろう。意識してみると急に顔が熱くなった。自分がこれから、どれだけ恥知らずな大言壮語を吐くのかという自覚もまた、それを手伝った。


 それでも、言わなくちゃならない。

 それは、俺の夢でもあったはずだから。


 俺は慧に右手を差し出して、言った。


「俺、甲子園に行くよ。頑張る。死ぬ気で頑張るから。だからさ……一緒に行こう。必ず。だから、助けてくれ」




 その後、新学期になると慧は学校に来た。そして俺のところにやってきて、ノートを見せてきた。

 中身は練習メニューだ。とんでもない量の。


「……やれって、ことだよな?」


「うん。練習後にね」


「おま……殺す気かよ」


「死なないよ。私はやってたもん。ねえ、死ぬ気で頑張るんでしょ。ちゃんとやって」


 俺は、死ぬ気でやった。本当に。


 そうして一年後の中学三年の夏の大会、全国をあと一歩で逃したものの、俺は背番号一を背負い、かつて県内では甲子園の常連だった古豪から誘いを受けるほどの活躍を見せた。それは周囲の誰もが驚く急成長だった。


 でも慧は「当たり前」とにべもなく言い、そして「もうちょっとメニュー増やすかなぁ」とさらりと続けた。


「お前、マジで俺を殺す気だろ……」


「だって全国逃してるじゃん。死ぬ気でやんなよ」


 ごもっとも。この時にあいつが作った新バージョンのメニューを思い出すだけで、俺の足は生まれたての小鹿みたいになる。


 それから卒業までの間、俺は慧の作ったメニューをひたすらこなした。そのおかげか、入学後の春季大会の後で俺は一年生にしてベンチ入りを果たすことになる。


 その頃になると慧と会う回数は少しずつ減っていった。俺は練習が忙しかったし、慧は高校に進学しなかったからだ。


「こら。練習しなよ、練習」


 それでも週一回は顔を出していた俺を、慧はいつもそう言って追い返した。

 その先に続く言葉も、いつも変わらない。


「甲子園出場決めてきたら、その時に来て」


 俺はそんな風にあいつに文句を言われつつ、大会期間中以外は週一であいつの家か病院を訪れた。


 一年経って、俺は二年生にして背番号一を得る。そして迎えた夏の県大会、俺たちは順当に勝ち上がっていった。

 そして、ようやくに念願の甲子園出場を決めると、俺は勇んであいつの元へ向かった。

 でも――




 過去から今。現実へ引き戻され、俺はバッターボックスの九番打者を睨む。

 振りかぶり、全力でボールを投げ込むと、乾いたミット音が響いた。


「ストライク、ツー!」


 観客席のどよめきがどこか遠くに聞こえる。よく聞こえないが、ベンチからは「あと一球だ」とか「腕を振れ」だとか聞こえてくる。


 分かってるよ、うるせえな。


 七番にはどでかい一発を打たれかけ、八番の当りはたまたまショートの正面。二つのアウトは単なる幸運だった。


 もう無理、限界、飛びてー。


 俺は心の中でぶちぶちと弱音を吐きながら、足元のロジンバックを叩く。


 完全試合も勝つのも、どうでもいい。甲子園来たじゃん。俺、超頑張ったぜ。一生分、努力したよ。もう、どうにでもなれ。


 俺の身体は意思を超えて勝手に投球モーションに入る。先輩の出すサインに頷き、そして構えるミットに全力で投げ込む。


 きん、という背筋の凍るような金属音がして、白球がライト方向に飛んだ。


 振り返ると、それはあわやのところで白線の外、ファールグラウンドに転がる。


 心臓が早鐘を打つ。安堵と恐怖。自分でもよく分からない複雑な感情を持て余し、俺は鋭く息を吐いた。


 へっ、どうにでもなれ、なんだろ。なに焦ってんだ、俺……


 審判から返ってきたボールを受け取り、俺はふと涙がどうしようもなく零れてくるのを、帽子をとって汗を拭うふりをして必死に隠す。


 俯くと土に汚れたマウンドの白色が滲んで見え、頭の中に一つの光景を蘇らせる。


 バカ、今は出てくんなよ、空気読め。




 甲子園出場を決めて、病室へ着いた俺を迎えたのは、すすり泣く慧のお袋さんと、その肩を抱く親父さんの姿。

 真っ白なベッドに横たわる慧と、白い掛布団と、顔にかけられた白い布。

 枕元には俺の特集がされた高校野球雑誌があって、かつて物凄い変化球を操っていたあいつの指先は絆創膏だらけで、信じられないくらい細かった。


 慧の治療がすでに緩和ケアに移行していたのは知っていた。そう遠くないうちに別れが来るのも理解できていたし、覚悟もしていた。

 でも、それはあまりに唐突だった。


 立ち尽くしている俺に、親父さんは淡々と言った。


「ありがとう。いつもあの子といてくれて」


 続いたのは、容態の急変が本人の希望で俺には伏せられていたという話。

 次いで手渡されたのは、手作りのお守り。


 俺はそれをどう受け取ったのかは覚えていない。どう返事したのかも。

 ただ、親父さんの静かな声だけが、確かに頭に、胸に、残っている。 


「もう無理、限界、飛びてーって思ったら、これを握りなよ。助けてあげる……だそうだ」




 ふと叫びたくなる衝動に任せ、俺はマウンドの上で吠えた。


「うああー!」


 顔を上げ、頬を叩いて現実を引き戻し、涙を拭ってポケットのお守りを握る。

 それでも涙は止まらない。先輩の出すサインが涙で滲んで見えない。


「くそっ……助けろよ、慧。俺、もう頑張れねえよ……」


 そんな泣き言を呟いた直後――突然の強い風が俺の頬を撫でた。

 釣られて俺はバックスクリーンを振り返る。そして思わず目を見張り、嘘だろ、と言葉が漏れた。


 だって、いるはずがない。時計の上、国旗が風ではためいているその傍らに、


「慧……?」


 俺の通っていた中学の制服を着て、空色の野球帽を被っているその少女は、まさしく六道慧だった。

 肩までの癖毛を揺らし、両足をぶらぶらさせて、あいつは両手でメガホンを作り何かを叫んでいる。


 満員の歓声。ブラバンの『ルパン』。応援団の太鼓。そんな音に包まれた球場にあって、当たり前のように、その声は聞こえない。


 そう。当たり前だ。だってあいつは……

 でも、確かに伝わった。


 しっかりしろ、りっくん! 男だろ、と。


 心の底がかっと熱くなる。身体が軽くなり、今からもう一試合投げてもいい気さえしてくる。振り返るとあいつがいると思うと、力が湧いてくる。


 ったく、本当に助けに来やがった。お前、死んでまで――


「なら、カッコつけねぇとな」


 俺は再びホームを見据え、先輩の出したサインに力強く頷くと、大きく振りかぶった。

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