第23話
真っ暗だと思っていた室内は、薄くぼんやりとオレンジ色の光で照らされていた。壁に備え付けられた燭台に、ろうそくの炎が揺れている。
冷たい石造りの部屋だ。他の牢と違って、質素だがちゃんとしたベッドも置いてある。床には薄い絨毯が敷いてあって、その上には食事をするためだと思われるテーブルもあり、この部屋で最低限暮らせるだけの設備が整っていた。
けれど、室内の空気は澱んでいる。濃い血の臭いが充満していた。
「……ノクス」
ろうそくの炎は弱く、部屋の奥までを照らすには至らない。ひとまず壁にかかった燭台を手に取ろうと進んだところで――ぐしょり、と足元から湿った音が聞こえた。
絨毯を踏んだアリシアの靴に、血が飛び散っていた。よく見れば絨毯の赤い色は模様などではなく、たっぷりと染み込んだ血液だ。鮮やかな赤もあれば、くすんだ黒に近い色もある。それが全部血なのだと理解した瞬間、アリシアは息を呑んで立ち尽くしてしまった。
薄闇に慣れた目が部屋の惨状をありありと映し出す。
血に濡れた絨毯。正面の壁から垂れる鎖の手枷。部屋の隅に置かれたベッドのシーツはぼろぼろに破れていて、そこにも夥しい量の血痕が残されていた。
「ノクス……っ!」
見渡した限りで死角になっている場所はベッドの向こうだけだ。ろうそくの明かりも届かない暗闇へ目を向けると、ベッドと壁の間に澱む闇が僅かに揺れた。
そこにノクスがいると確信した。これほどの血を流しているのだ。もしかして動けず、床に倒れ込んでいるのかもしれない。不安ばかりが押し寄せて、アリシアがベッドのそばへ駆け寄ろうとしたその瞬間。
「それ以上、近付かないで下さい」
暗闇の中から、懐かしいノクスの声がした。
声は少し掠れていて、覇気がなかった。それでもアリシアの足を止めるほどの鋭利さは残っていて、薄暗い室内に束の間の沈黙が漂った。
「全く……こんなところまで来るなんて、無謀にもほどがあります」
ノクスはベッドと壁の間に座り込んでいるのだろう。その姿は闇に紛れてはっきりとは見えないが、かすかな息づかいはノクスが確かにそこに存在していることをアリシアにしっかりと伝えてきた。
間に合った。
生きている。
無事とは言えないけれど、それでも再びこうしてノクスの声を聞けたことに安堵して、アリシアの体から力が一気に抜け落ちた。座り込みそうになるのを必死に堪えて一歩踏み出せば、近付くアリシアを拒絶するようにノクスが僅かに身を退くのがわかった。
「聞こえませんでしたか? それ以上、こちらへは近付かないで下さい」
「ノクス。一緒に帰りましょう。私たち、皆であなたを迎えに来たわ」
「言ったでしょう。私はもう戻れません」
「どうしてそんなこと言うの? 私たち……私はもう、ノクスが何者なのか知ってる。それでもそばにいてほしいって思ったから、ここにいるのよ。それじゃ駄目なの? それとも、もう……ノクスは私と、一緒に……いたく、ない?」
ノクスは黙ったままで、その無言がアリシアの勇気をじわじわと削っていく。
誰もが、ノクスを連れ戻せるのはアリシアだけだと言った。その言葉に勇気をもらったけれど、やっと再会したノクスは顔すら見せてくれないまま、アリシアの思いにもひたすら無言を貫いている。そうしている間にも時間はどんどん過ぎていき、敵に見つかるかもしれない不安が再び胸の奥に染み出してきた。
「ね、とりあえず……ここから逃げましょう。話は屋敷に戻ってからでも……」
「……私は一緒に行けません」
「っ、どうして! こんなところに……こんなっ……ノクスを傷つける場所にいていいはずがないでしょ! ねぇ、どうしたらいいの? どうしたら伝わるの?」
思わず荒げた声がスイッチになって、アリシアの視界が涙に歪んだ。
部屋のあちこちに染みついた血痕。薄闇の中に浮かび上がる悍ましいその色は、闇に隠しきれない暴力の痕だ。
命を、人の尊厳を踏みにじるような場所にノクスを置いてはいけない。そう気持ちばかりが焦るのに、当の本人は何をどう思っているのか、この期に及んでまだ本心を打ち明けてはくれない。
それが悲しくて。
けれど、逆に力尽くでもここから引っ張り上げなければと思った。
「私はノクスが好き。ノクスにそばにいてほしいの。これからも……ずっと!」
叫ぶように思いの丈をぶつけると、アリシアの中で最後の箍が外れた。
「ノクスがダンピールだって、そんなの百も承知よ。それでもノクスがいいって言ってるの! 毒舌だって、ダンピールだって構わないわ。それがノクスなんだもの。そういうノクスが好きなんだもの!」
「住む世界が、違います。私ではお嬢様を幸せにはできません」
「幸せになんかしなくていい。自分の幸せくらい自分で掴むわ!」
頑なにアリシアの言葉を拒絶するノクスに、だんだんと腹が立ってきた。誰もノクスに幸せにしてほしいわけじゃない。アリシアはノクスと一緒に、幸せになりたいのだ。ノクスの秘密も、過去も、その悲しみも苦しみも受け止めて、これからも一緒に生きていきたい。ただそれだけだ。
「ノクスだって幸せにしてみせる! こんなに恐ろしい場所なんかじゃなく、ノクスに相応しい場所はこっちにある。私の生きる世界が、ノクスの生きる世界よ。今までだってそうしてきたじゃない。恐れないで。誰もノクスを恐れてなんかいないから」
一歩、ノクスのほうへ近付いた。僅かにノクスが動く気配がする。けれど、もう近付くなとは言わなかった。
「私の手を取って、ノクス。あなたが何者であろうと、私はこの手をはなさない」
もう一歩、近付いた。ノクスはもう、怯えて震えることはない。しばらく待つと、諦めたように溜息をつく音が聞こえた。
「……全く……本当にあなたは困ったレディですね。そのたびに私がどれほど気を揉んだかお分かりですか?」
「だって、仕方ないじゃない。ノクスが勝手にいなくなるんだもの」
「人の話は聞かない。何度止めても危険の中へ飛び込んでいく。無自覚に他の男を惹きつける。身を切る思いで立ち去ったのに、こうも簡単に私の決意を砕いてくる。本当に……厄介な人ですね」
空気が和らいだ。ノクスはもうアリシアを拒絶していないことが、物言わぬ背中から伝わってくる。
触れたくて。早くその熱を確かめたくて。けれど逸る心を慎重に抑え込んで、アリシアはノクスの心を閉じ込める最後の扉にゆっくりと手を伸ばした。
「ノクス。そっちにいっても、いい? 顔を見せて」
「……見られたくありません」
言葉は拒絶しているのに、それを発する声音はひどくやわらかい。だからほんの少しだけ、我が儘を言ってみた。
「私は見たいわ。ノクスの顔」
ゆっくりと、足音をわざと大きく立てて近付いた。ベッドを回り込んで壁際に向かうと、床に座り込んだままぐったりとしているノクスの姿が目に入った。
白いシャツはボタンがすべて千切れてはだけており、晒された肌には未だ乾かない鮮血がべっとりと張り付いていた。赤く腫れた箇所もあれば、内出血を起こして青黒く変色している部分もある。見ているだけでこちらにも痛みが伝わりそうなくらい壮絶な姿だったが、アリシアはノクスから決して目を逸らすことはしなかった。
ノクスが体に、心に負った傷を、アリシアが直に共有することはできない。だからできることと言えば少なくて、それを求められているのかどうかはまだ不安だけど。
痛みと不安で傷ついた心が少しでも和らぐようにと――アリシアはノクスの体をふわりと包み込むようにして抱きしめた。
「……やっと、つかまえた」
体の自由を奪われ、指一本さえ動かせなかったあの夜とは違う。
連れ戻そうとして、空振りに終わったあの夜とも違う。
抱きしめる腕にしっかりと伝わるノクスの熱。ノクスの匂い。もう絶対に離さないと伝えるように、アリシアはノクスを抱きしめる腕にキュッと力を込めた。
「汚れますよ」
「構わないわ」
「……そうですか」
少しだけ、甘えるように首筋に頬を寄せてみる。
とくん。
とくん、と。
互いの心音が密かに重なったのを合図にして、ノクスがゆっくりとアリシアの背中に腕を回した。壊れ物を扱うように、ふんわりと儚い力だ。それがもどかしくて、アリシアは代わりにもっと強くノクスにしがみ付いた。
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