第22話

「待て」

 フレッドの制止に合わせて、角を曲がった先の廊下からヴァンパイアたちの声が聞こえてくる。声の感じから若い男が二人のようだ。

「おい、聞いたか? どうやら侵入者がいるらしいぞ」

「ヴァンパイアの城に侵入するとは、とんだ命知らずもいたもんだな。どこの魔物だ?」

「いや、たぶん人間だってさ。うまそうな血の匂いがするって言ってた」

「血の匂い? ……そういや、夢魔の使い魔が言ってたよな。薔薇の花嫁が生まれてるかもしれないって」

「侵入者が薔薇の花嫁とでも言うつもりか? 冗談だろ」

「でも……何か、イイ匂いがしないか?」

「……確かに、うまそうな匂いがするな」

 ぎくりと身を震わせたアリシアの手を取って、フレッドが近くの部屋に滑り込んだ。幸いにして空き部屋だったようで、室内には夜の闇が沈殿している。

「さすがにお前の血の匂いまでは防げなかったな」

「指輪で眠らせてみる?」

「いや、時間が惜しい。……俺が囮になる」

「えっ! でも……」

「俺たちが侵入したことがバレてるなら、きっと他の奴らも動いてくるはずだ。目の前の敵を相手にしている間に、背後から襲われるとも限らない。俺たちの目的はノクスの奪還だ。早いとこ連れ出して、ここから逃げ出したほうがいい」

 銃弾の装填を終えた銃を腰のホルダーにしまって、フレッドが扉の向こうの様子を窺う。先程のヴァンパイアたちは反対側の方へ歩いて行ったようだ。

「ウィル。ここから地下牢まではどれくらいだ?」

「そんなに遠く……ない、よ。まっすぐ行って、突き当たり……右に曲がって、ちょっと……いったくらい」

「お前たち、そこまでアリシアを守れるか?」

 フレッドの視線を受けて、レオナルドとメアリーが姿勢を正した。レオナルドは小声で「ンマァ~」と喉の調子を確かめて、メアリーは手にしたバスターソードを「ムンッ!」と振り上げている。そんな二人に負けじと、アリシアも黒水晶のステッキを握りしめて大きく頷いた。

「私だって自分の身は自分で守るわ。だからフレッドも無茶しないで」

「そりゃ頼もしい限りだな。……アリシア、マントを脱げ」

「マント?」

「お前の匂いの付いたマントで多少目眩ましできるだろ」

 マントを脱いでフレッドに手渡すと、身を守るものがなくなった気がしてほんの少しだけ体が震えた。その不安をフレッドが感じ取ったのかはわからない。けれどマントを受け取ったその手で、フレッドはぎゅっとアリシアの体を抱きしめてきた。

「フレッドっ?」

「マントの残り香だけだと不安だからな。こうしたら直接匂いも移るだろ」

 そう言ってしばらくの間アリシアを抱きしめた後、フレッドはマントを羽織ってフードを目深に被った。背の高さは誤魔化しようがないが、顔が隠れていれば少しの間くらいはヴァンパイアたちもマントに残ったアリシアの匂いに惑わされてくれるだろう。

「俺はある程度奴らを巻いたら、そのまま城を出て親父さんのところへ戻る。だからお前たちは、ノクスを見つけたら俺を待たずに転送石で纏めて親父さんのところへ飛べ」

 外の気配を窺いながら、フレッドが扉をそっと開いた。一人で出て行く前に、もう一度振り返って、アリシアをじっと見つめる。

「支配の指輪と転送石があれば、お前は大丈夫だ。どうしてもヤバくなったら……ノクスは諦めて転送石を使え」

「……わかったわ。フレッドも気をつけて」

 返事はせず、軽く腕を上げて、フレッドはするりと廊下へ飛び出して行った。しばらくすると、扉の向こうが急に騒がしくなる。入り乱れる足音と、悍ましい欲望を吐き捨てるヴァンパイアたちの声が大きくなって――そして遠ざかっていく。

「さ、お嬢。フレッド殿が囮であるとバレるのも時間の問題です。行きましょう」

 ウィルが外の気配を探り、誰もいないことを確かめてから廊下に出る。

 その後はもう無我夢中で走った。ヴァンパイアが出てくるかもしれない恐怖を原動力に変えて、アリシアは全速力で廊下を駆け抜ける。多少音が響いても構わない。今は一刻も早くノクスのもとへ辿り着くことが重要だ。

「お姉ちゃん! あの扉! その先にノクスさんがいるよぅ!」

 ウィルが教えてくれた扉は、けれど頑丈に鍵がかかっていた。

「そんな……」

 ここまで来て、愕然とする。扉に鍵がかかっていることくらい前もって予想できたはずなのに、一番肝心なことが頭からすっぽりと抜け落ちていた。

「どうしよう。何か……鍵を開けるもの……」

「ドイテ。ワタシガ、ヤル!」

 アリシアが振り返るより先に、ヒョォッと凄まじい風が肌を撫でていく。次の瞬間、ドゴォッと鈍い音が響いたかと思うと、目の前の扉がメアリーの振り下ろしたバスターソードで物の見事に砕け散っていた。

「えぇっ? メアリー、何その怪力!」

「バスターソードノ、チカラ。パパン、スゴイ!」

「感心するのは後ですぞ。今の音で奴らに気付かれたかもしれません。お嬢、急ぎましょう!」

「そうね。メアリー、ありがとう!」

 地下へと続く階段は暗かった。けれどアリシアに明かりはいらない。前を進むウィルの青い炎がある。

 もしかすると牢番がいるかもしれないが、今のアリシアに恐怖はなかった。メアリーも、レオナルドもいる。一人じゃないということは、こんなにも心を強くするのだと実感した。

 だから、この思いを早くノクスに伝えたい。

 ノクスは一人なんかじゃない。こんなにもたくさんの仲間が、友達が、家族がいる。もちろんアリシアも絶対にノクスを一人きりにはしない。

 だから手を伸ばしてほしい。ノクスが求めてくれるなら、アリシアは絶対にその手を離しはしないから。


 ――ううん、違う。


 ノクスが手を伸ばさなくても、アリシアはノクスの手を引いていく。多少の無理はしても、ノクスをこんな暗く寂しい闇の世界から引き摺り出さなくてはいけない。

 ノクスの生きる世界は、アリシアの生きる世界だ。

「ノクス!」

 階段を下りきった先に続く地下牢に向かって、アリシアは強くノクスの名前を呼んだ。

 血の臭いの充満する湿った地下牢の奥、僅かに闇が揺らめく。その気配を探る前にアリシアの目に映ったのは、驚愕の表情を浮かべてこちらを振り返った牢番のヴァンパイアの姿だった。

「あっ、ヤバ……」

「お嬢! ここは私にお任せを。耳栓準備!」

 アリシアの肩からレオナルドが華麗にぴょーんっと跳び上がった。空中で一回転するとパッと手足を大きく広げ、真下にいるヴァンパイア二人めがけて思いきり絶叫した。

「くらえ! 終わりなき死者のララバイ! ルラララァァンッ!」

 暗い地下には不釣り合いな、驚くほど澄んだ美声が響き渡った。おまけにしっかり完璧なビブラートまでかかっている。それはもうマンドラゴラの絶叫などではなく、誰もがうっとり聞き惚れるほどの歌声だ。

 しかしどんなに美しい声でも、やはりマンドラゴラの絶叫である。レオナルドが命名した不気味な技名の通り、ヴァンパイアたちは揃って意識を失い、バッタリと床に倒れて眠ってしまった。そのうち、一人のヴァンパイアの頭にスチャッと着地したレオナルドは、「どうだ」と言わんばかりに小さな胸を張っていた。

「レオナルドさん、凄い。いっぺんに……ふたりも!」

「私の美声がヴァンパイアにも効いたのはセドリック殿のおかげですよ」

「コイツラ、ドウスル?」

「途中で目覚められても困るし、私のステッキに吸い込んでおきましょうか」

 アリシアの持つ黒水晶のステッキもセドリックによって強化されている。試しにステッキを振ってみると、鈍く光った黒水晶の中へヴァンパイアたちが吸い込まれていった。

 ……かと思ったが、どうやら容量が超えたらしく、片腕だけが黒水晶から飛び出してしまった。

「キモッ! 気持ち悪いですぞ、お嬢!」

「うえぇぇ! ヴァンパイアも吸い込めるってお父様言ってたのに!」

「パパさん……確か、ひとりくらいなら……って、言ってた気がする」

「イッテタ!」

「ど、どうしよう、これ」

「ひとまずそのままがいいかと。出した衝撃で目覚められても困りますからな」

「そ、そうね! 今はノクスを探すほうが先だわ」

 そうしてヴァンパイアの片腕が飛び出した黒水晶のステッキを持ったまま、アリシアたちは暗い地下牢の奥へと進んでいった。


 石造りの地下に、硬い靴音が響いていく。思っていたより地下の空間は広く、通路の脇にはたくさんの牢が並んでいた。けれど牢の中に囚人らしき姿は誰もおらず、不気味なほど静かな空間にどこからか滴る水音が聞こえてくるだけだ。

「ノクスさんの気配は……この奥、だよ」

 ウィルが示した先には、今まで通り過ぎた牢とは明らかに違う、灰色の鉄扉が立ち塞がっていた。

 鍵穴もなければ取っ手もない、不思議な扉だ。恐る恐るステッキの柄で突いてみると、衝撃を感じた扉の表面がゆるくさざめいて一瞬だけ赤い魔法陣を浮かび上がらせた。

「この扉、どうやって開けるのかしら」

「ワタシ、ヤッテミル!」

 そう言ったメアリーが、先程と同じくバスターソードを扉めがけて振り下ろしてみる。鈍い音が響いたが、扉はまた魔法陣を一瞬揺らめかせただけで、元の灰色の鉄扉に戻ってしまった。

「何か、術が施されているようですな。赤い魔法陣が、結界となって扉を守っている。しかしわざわざ地下牢に捕らえているわけですから、奴らもノクス殿の命までは取るつもりはないはずですが」

「ごはん抜きで……餓死、させる気かも」

 一番純粋なウィルから物騒な言葉が飛び出した。純粋すぎて逆にどこまでも残酷になれるのかもしれない。

「それはないでしょう。初めからノクス殿を殺すつもりなら、捕らえた時点でそうしているはずです。ここに捕らわれているということは、奴らはノクス殿を殺すつもりはない。だとすれば食事も当然与えるでしょうし、そのためにはこの扉も開かれるはず。どこかに鍵となる仕掛けがあると思うのですが……」

 レオナルドの推測が本当だとするなら、ノクスが生きていることに安心するのが当然だ。もちろんアリシアもホッと胸を撫で下ろしたが、それと同時に心の奥にまでべっとりと張り付く気持ちの悪い不安も押し寄せてきた。

 ノクスは子供の頃、ヴァンパイアたちに拷問に近い仕打ちを受けていた。ヴァンパイアたちがダンピールであるノクスを虐げることに愉悦を感じていたとするなら、ノクスはこの扉の向こうで一体どれほどまでに傷つけられているのだろう。想像するだけで血が凍り、瞼の奥から涙が滲み出した。

「早く助けないと……!」

 焦った拍子に黒水晶のステッキが扉に触れた。また赤い魔法陣が揺れて浮かび上がったが、今度は少し様子が違っていた。

 魔法陣の真ん中に、手形が浮かび上がったのだ。

「お嬢! それです! 黒水晶のステッキです!」

 レオナルドが何かに気付いたのか、アリシアの持つステッキについている黒水晶を指差した。そこには吸い込みきれなかったヴァンパイアの腕が力なくぶら下がったままだ。

「牢番のヴァンパイアの手を、手形に合わせるのです!」

 言われるがまま、黒水晶からはみ出したヴァンパイアの手を扉に浮かび上がった手形に合わせてみる。すると赤かった魔法陣が灰色に変化して、鉄扉と混じり合いながら消えていった。

 がちゃり、と低い音が聞こえたかと思うと、灰色の鉄扉が錆びた音を立てて僅かに開く。いてもたってもいられず、すぐに飛び込もうとしたアリシアを、レオナルドの落ち着いた声が制止した。

「お嬢。おそらくノクス殿はひどい状態だと思われます。気を確かに持つのですぞ」

「……わかったわ」

「ステッキ、アズカル」

「え?」

「せっかくの再会に、野暮なヴァンパイアは必要ないでしょう。私たちはしばらくここで敵が来ないか見張っておりますゆえ、お嬢は早くノクス殿のところへ」

「でも、怖いから……ちょっとだけで、ごめんね?」

「皆……ありがとう。五分だけ待ってて」

「あぇっ? い、一分くらいじゃ……お嬢? お嬢ー!」

 レオナルドの声は聞こえなかったふりをして、アリシアは扉を開けて中へ滑り込んだ。

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