閑話休題 氷の王女の微笑み
「報告が遅れています」
執務室の静けさを破って、秘書官が恐る恐る声をかける。隣国の第一継承者、クラリス・アルテミシアは、大量の書類に埋もれていた。
「ごめんなさい。あと少し……」
「陛下からの緊急の……」
「分かっています。でも、まだエステル様の……」
秘書官は、主の机の上に積み上げられた書類の束を見る。そこには、グラティア王国からの公式文書や外交書簡の間に、別の種類の書類が混ざっていた。
「エステル様の執務姿における仕草の分析、其の五」
「エステル様の微笑みのパターン別整理、附:状況対応表」
「エステル様の立ち振る舞いに関する詳細報告」
いずれもリリアからの非公式な報告書。クラリスは真剣な表情で、それらを整理していた。
「殿下、外交儀礼の決裁が……」
「はい。でも、エステル様の笑顔のカテゴリ分けが済んでいないので」
通常は冷静沈着な第一継承者の、珍しく熱心な様子に、秘書官は戸惑いを隠せない。
部屋の壁には、一枚の絵が掛けられていた。宮廷画家に特別に依頼して描かせた、エステルの肖像画。
クラリスは時折、その絵に目を向けては、溜め息をつく。
「グラティアとの外交関係強化のために、もう一度訪問する必要がありそうですね」
「はい、ですが……先月も同じ理由で」
「前回は文化交流。今回は経済協定の調印式を……」
秘書官は小さくため息をつく。ここ数ヶ月、主からグラティア訪問に関する提案が増えている。その度に、もっともらしい外交上の理由が付けられるのだが。
「エステル様の立ち居振る舞いを参考に、我が国の礼儀作法を改めることは、極めて重要な課題です」
「儀礼の研究、という名目でしたら」
秘書官の言葉に、クラリスの目が輝く。
「そうですね!エステル様の礼儀作法は完璧という以外の言葉がありません。特に、お辞儀の角度が実に素晴らしくて……」
熱が入りすぎた声を慌てて抑える。第一継承者としての威厳を保とうとするが、その瞳は輝きを増すばかり。
「というわけで、来月にでも」
「殿下」秘書官が諦めたように言う。「グラティアからの使者が、既に来月の訪問予定を伝えに……」
「まあ!」
クラリスの声が一段高くなる。慌てて咳払いをして取り繕う。
「そう、ですか。では、それに合わせて……」
冷静を装いながらも、その表情には喜びが滲んでいた。
机の上に、新たな報告書が広げられる。
「エステル様の日常における仕草の記録と分析、其の六」
この第一継承者の、密やかな「推し活」は、まだ始まったばかりだった――。
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