我が剣は推しのために!

塩狼

プロローグ

第1話 出会い

風に乗って届く喧噪が、いつもより賑やかだった。


「なんだか、街が騒がしいわね」


リリアは冒険者ギルドの窓から通りを見下ろした。普段は整然と並ぶ露店が、今日は秩序もなく道を埋め尽くしている。人々は何かに沸き立っているようだった。


「ああ、そういえば、王女様がお忍びで来られるっていう噂があったわね」


カウンターの向こうで、ギルド職員のマリアが言った。彼女は普段からおしゃべり好きだ。


「へえ」


リリアは気のない返事をした。王族の動向など、彼女には関係のないことだった。


「王族がこの街に来られるなんて、珍しいことよ。しかも、聞くところによると、今回来られるのはグラティア王国の第二王女、エステル様だっていうじゃないの。噂じゃ、天使のように可愛らしい方だとか」


「ふーん」


リリアはため息まじりに依頼書に目を落とした。今日も簡単な護衛の仕事をこなすつもりでいる。力を抑えて、目立たないように。それが彼女の日課だった。


「あ、そうそう」マリアが思い出したように付け加える。


「エステル様は、孤児院とかもよく訪問されるそうよ。庶民の暮らしを気にかけてくださるなんて、お優しい方ね」


「へー」


リリアは三度目の生返事をした。優しい王族様? はいはい、お偉いさんの上手な演出ですねー。世の中そんなに甘くないでしょ。


しかし、その皮肉な思考は、運命によってもろくも打ち砕かれることになる。


通りの喧噪が突然の悲鳴に変わった時、リリアの体は反射的に動いていた。窓から身を乗り出すと、群衆が右往左往する中、一人の少女が転んでいるのが見えた。薄桃色の髪が風に揺れている。


その時だった。


空から巨大な影が差した。暴れ出した配送用の飛行魔獣が、制御を失って地上めがけて突っ込んでくる。


少女の真上を狙って。


「っっっ!」


リリアは迷うことなく窓から飛び出していた。力強く地面を蹴り、風を切って少女に向かって飛ぶ。


腰の剣に手をかけ、魔獣の突進路に入り込む。


抜刀から納刀まで、誰の目にも捉えられないほどの速度。魔獣は優雅な放物線を描いて横に逸れ、空き地に着地した。誰一人として怪我もない。


それは、あまりに完璧な剣術だった。


(やってしまった…!)


しかし、リリアは内心で青ざめる。人前でこんな派手な剣術を見せるつもりじゃなかった。でも、目の前で人が死にそうになっているのを見過ごすわけにも……。


「あの、ありがとうございます」


背後から、透明感のある声が聞こえた。振り返ると、そこには薄桃色の髪を持つ、愛らしい少女が立っていた。


大きな瞳。優しい微笑み。まるで画家が丹精込めて描いた絵のような……。


(か、か、か、可愛い!!!)


「私、エステルと申します。本当に、ありがとう」


(エステル?)


その笑顔に、リリアの心臓が大きく跳ねた。


(王女様!?)


リリアの心の中で警報が鳴り響く。これはヤバい、本当にヤバい。マリアの言っていた天使のような可愛らしさは、誇張でも演出でもなかった。むしろ控えめな表現だった。


いつの時代も「推し」との出会いは唐突に訪れる。


リリアの心は、エステルを自分の「推し」として完全に刻み込んでしまっていた。


こうして、実力を隠して生きると決めていた彼女の人生は、思いもよらない方向へと大きく舵を切ることになる。

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