橘 菜摘
私はマグロが好きだ。ただそれだけのこと。小さい頃、寿司屋に行くたびに「マグロ!」と叫んでいた私を見て、母は笑っていた。「菜摘ちゃんはマグロが好きなんだね。じゃあ、ツナって呼ぼうか?ナツミにもツナが入ってる!」そうしてつけられたあだ名だった。
ツナ。可愛らしい響きで、私は気に入っていた。友達に呼ばれるよりも、母に「ツナ」と呼ばれると、特別な感じがした。私だけの名前みたいで。
中学生になってからだろうか。お母さんが怖いと思うようになったのは。幼い頃は「ツナちゃんのため」と言われる度に飛び上がるほど嬉しかったけど、いつの間にかその言葉が鎖のように縛り付けていった。「ツナちゃんのために」と言いながら、私のスマホを勝手に見て、SNSアカウントに勝手にログインして、友達との関係全てに文句をつけた。「ツナちゃんのために」と言いながら、部屋を掃除し、隠していたものをすべて探し出して見つける。私が何か反論すると、決まって母はこう言った。
「私はね、ツナちゃんのことを思ってやっているの。大好きだから」
その言葉を聞くたびに、私は何度も息が詰まり、死にたくなる。希死念慮に拍車をかけたのは確実にあの時だった。
「ツナってね、泳ぎ続けないと死んじゃうんだって。ふふ面白いわよね。止まることができない魚なんて、凄く馬鹿なのね」
そう母が口にした時、全てに絶望した。その言葉が、私に向けられているように思えてならなかった。止まるなと。休むなと。お前は自分の意思では動けない人間なのだと。私が少しでも母の期待を裏切るようなことをすれば、それはきっと許されないのだと、そう感じた。
私のあだ名が、自分自身を縛りつける重たい大きな鎖だったのだと気づいたのはその時だった。
母の干渉は歳を重ねるたび、強まった。進学先、成績、友達付き合い、すべてに口を出した。友達に誘われた遊びを断るとき、「お母さんが嫌がるから」と理由をつけるのが癖だった。友達も、先生も、私のことを「母親想いのいい子だね」と褒めてくれる。でも、本当は違う。ただ、母が怖くて従っているだけだ。
何度も何度も逃げたいと思った。でも、逃げる先なんてどこにもなかった。私はツナだった。泳ぎ続けなければ、死ぬしかない魚だった。だから、あの日の夜のことも、きっとそうなるべくして起きたことだったのだと思う。
「なんでそんなことするの!」
声を荒らげたのは母だった。小さな反抗の1ミリも許されなかった。私は自分の声が震えているのが分かった。もうこれ以上、この海で泳ぎ続けたくなかった。止まりたかった。でも止まれば死ぬのは私で。だから私は、お母さんに向かって叫んだ。
「私はツナじゃない」
身体からパンと弾けるような音がした。気づいた時には、手には紐が握られ、母は倒れて動いていなかった。その瞬間、初めて止まって呼吸ができた。静かな部屋で、私はただ立ち尽くした。
ツナは泳ぎ続けなければ死んでしまう。でも、私は泳ぐのをやめた。泳ぐのをやめても、生きていられることを証明したかった。私はツナじゃないのだから。
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