49Peace 「悪魔」
そしてタバコは半分を越えることなく、風で消えた。
神父様は語る。
「私には、妻にしたかった女がいた」
「出会ったとき、彼女はよく礼拝で教会を訪れて、オルガンを披露して歌を歌ってくれて、もうトリコになった」
微かに笑う。
「若かりし日の私は、神父服に袖を通して間もなく恋をした」
まだまったく若く見える神父様は、消えたタバコをロザリオにしまった。
「幾年もあと、彼女は
歩き出す。
「彼女を失った60年前、私は当時の王国で流行っていた錬金術に懸けた」
「これに命をかけた、一生かけて彼女を蘇らせると誓ったんだ」
ある壁の一角に立ち止まる。
「それが、悪魔を呼んだ理由だ」
壁に見えたのは、壁一面に尊大に大きくそびえ立つ、パイプオルガンだった。
最初は単にあまりに壁の模様に溶け込むような、親しみの深いものだと思った。
けれど、見て違いに気づく。
なによりも巨大だった。聖堂の壁の、イエスの肖像画を横切って最も端から黄金色のパイプが伸びている。そこから反対の端まで60mはあろうか、パイプだけでも巨大に壁そのものとして君臨していた。
配色は、淵の木製のベージュ色と脚にブラウン色、演奏の椅子と、3つの段に別たれた鍵盤の乳白色、下一段目の鍵盤は真紅に染まっていた。
いかにも権威的で、雄弁なパイプオルガンだ。
「クレアさんに特注でね」
呟くように言った。
鍵盤を叩くと、遠く低くて突き刺した。
「ディラデーー」
この最初の三音で圧倒的に分かるのは。
「ヨハン・ゼバスティアン・バッハ トッカータとニ短調」
――そして空白だ。いや、深い余白だ。
広い音域と壮厳な景色が広がって、パイプオルガンの意図された思考の設置が、このパイプオルガンでより実現されている。
そして少し高音のシャープ。次に音階が上がって行き気が抜ける低音のあとで、吹き抜けるドの音で階を下がり深く引き込んで休符によって空間を
トタンに、聖堂を隅々まで震わせた。
パイプオルガンを語る代表曲にして、初聞の名曲。
音楽が人々に与える影響は大きい。
トッカータとフーガの二短調に別れていて、自由な即興演奏と厳格にリフレインされる演奏に別れた構成だ。
この演奏は単なる楽譜の通過とは格が違う。
品位と表現力だ。同時に、選曲の理由が明らかになる。
何度もアルトサックスを聞いて知っているが、神父様の表現力の広さ深さが妖しい。魅力的な
「悔しいんや、ここに来て心が動かされるなんて」
ディミトリは芸術に浅学だ、俺よりも。それでも音だけで魅了され魔力に射抜かれた。
その証拠に言葉以上に、胸を抑えて汗をかいている。
グレイは、この演奏を聴いて育ってきたのだろう。どんなにか、執着するか理由が分かる気がする。
その後も4/4拍子演奏は続く。
トッカータでは、楽譜それだけで即興的なところを。広い雰囲気を崩さず、上下する音階の中でいくつも音が入れられる。
音は光のように引き寄せる。
フーガでは低音を軸に、破壊的な音階の振動を演奏する。破壊的で情動が滲むなかに、賛美歌の歌声が聞こえる。
奥で誰かが泣いている。
いくつも手があるかのように激しい演奏。
「もっと優しい曲だと思ってた」
グレイが言う。
つられて俺も言う。
「神話の中でクジラが砂漠を進んでいる」
トッカータト短調は悪魔的な曲だ。悪魔的な表現力と重なって何倍も恐ろしい。意味は恐らく「悪魔」に
演奏が終わる。
「私の彼女に捧げる」
短い祈りの言葉に鏡のような震えがあった。過去を見ている目だ。
きっとオルガンを教えたのは彼女だったんだろう。
しかし、このあとに待つのは――決闘。そういう約束が交わされた。
つまり賛美歌が、泣き声が戦いに呑まれる。
「なんのつもりで演奏したの?」
グレイが言う。
そういえば、「もっと優しい曲だと思ってた」と言っていた。きっと今回のアレンジが思い出を、汚された気にされてしまったんだろう。
それは奥歯を噛んだ表情からよく伝わる。
「私の正義の為に」
神父様の口もとは硬く。威厳を取り戻していた。
「じゃあ、戦うということね」
「そうだ。私は君と戦う」
息遣いは2人とも、深く大きく一定だ。2人ともが冷静に戦える、よく訓練された戦士のような風格を持っていた。
「これは正々堂々でいいのかしら」
グレイは声で威嚇する。
2人は様子を伺うようにそれぞれ対象に左手へ動く。歩みで回る。
「そうだ、勝った方が敗者を殺す権利を持つ」
「決闘ね」
「決闘だ」
グレイはレイピアを構える。
「武器は?」
「これだ」
神父様は言いながら隅の、床板を踏む。すると杖が一本出てくる。
既に、つまりグレイの動きを都合よくコントロールすることに成功させていた。睨みを効かせながら杖の場所に行けるように誘導していた。
俺は既に、グレイと神父様の間の実力差が相当あることを知ってしまった。
しかし言ってもグレイは聞かないだろうから、俺は見届ける。
「私はレイピアよ大丈夫かしら、刃物を使った方がいいんじゃない?」
グレイは挑発する。
「これは私の特注でね」
言って、神父様は右手に持って、顔よりも高く床に並行に構える。左手は方の高さでLの字にラフに構えた。足は肩幅より拳ひとつ分開いて深く腰を落とす。
「杖術……」
杖術だった。杖なのは、得意だからかハンデかをこれで確証がつけられなくなった。
ただ2人は構えて尚、少しずつ左側へにじりながら進んでいる。
この動きは、この街では重拓術として格闘技的な動きにあった。
それは合理性に長けている。理由は、
まず。右利きの人間は、右に武器を持つ。武器は相手から見て近い方に持っていると、攻撃の予備動作のうちに、間合いの中でもゼロ距離は有効にならない。
だから近づかれてもいいように、相手から奥に武器を持つ、だから左半身を前に構える。
次に。左側を前にしていると、もし相手が左側に動いた時、相手が撃ちやすい面積が左側だけの時より大きくなる。だからそれを防ぐ為に、お互いに面積を狙い合う為に、共に左側へ回る。
同時に、間合いを注意しなければいけない。
杖の長さは1mと20cm。ここに、一歩で進める幅と、腰を回して動いた分の腰の幅が併せた距離を間合いにすることになる。つまりガタイのいい神父様の間合いは、少なくとも3mと40cmになる。
グレイの間合いは、レイピアの剣心が長さ60cmになり腰は女性の体格で細くて、歩幅は身長172cmと見て推定40cm程度だと見える。つまりグレイの間合いが大きくても1mと30cm。
体格と武器の違いでのハンデは既に絶望的。
しかし、武器の扱い次第で、何もかも変わってしまうことが戦いだ。
杖はカウンター攻撃に向いた武器だ。その心は突きや払いの攻撃がやりやすいところにある。
レイピアは先制攻撃や撹乱に向いた武器だ。その心は柔軟な動きとコンパクトな性質にある。
2人はお互いに呼吸を読んでいる。より読まれ難いようにする、相手の呼吸に紛れるように、そのうちにシンクロしていく。
動く。やはりグレイが動いた。
「スっ」
様子見の攻撃だ。ジャブだろう、神父様の間合いに大きく近づくことはない。これは神父様にも間合いに入らない分、反撃し難い効果がある。
しかし、反撃があった。
「スカン!」
いきなり振り下ろした。大きな一歩が戦闘を動かす。
少しレイピアを掠める。グレイは身をよじって最小限で避ける、もうレイピアの間合いだ。
「シュリン!」
神父様の頬を薄く切った。
それを受け空かさず顔を除けると。杖の持ち手でグレイの顔を殴る。
これもグレイには当らない。どころか更に神父様の耳を浅く切った。
神父様の
これに神父様は距離を取る。
「早いし応用的なところは評価できるだろう、しかしまだ粗が目立つ」
恐らく踏み込みのことだ。訓練で木人には出来ていたが、反撃されながらでは話が違う。十分に腰を落としていなかったからリーチが僅かに足らずに浅い弱いカウンターになったのだ。
神父様は構えを変える。それはまるでレイピアを構えるようだ。
右で握った杖の塚を、左の手のひらで下から包む。明らかに攻撃的な変化だ。
「ダン!」
杖の先端がまっすぐ突き進む。
踏み込んだ重力で床が
ズッと打ち出される杖にグレイは、レイピアを突き刺す。
「シュピンッ」
風が
杖が真正面から弾き返される。
「サッ」
すかさず、空いたスペースの首にレイピアを打った。
「スカンッ」
杖の塚のL字で簡単に退けてしまう。それは極可憐な動作だ。
ダッと一音が轟く。
「くあっ」
グレイの悲鳴と横になって床を転がる光景。
神父様が、あの床を踏み込む脚力で蹴った。
体術も使いこなしていた。杖術にも余裕が見える。
「私の呼び込んだ悪魔が悪事をしたようだ」
神父様は杖を手のひらに叩きながら収めながら言う。
「承知していた、悪魔との取り引きの代価だ」
「私は未だに偽ったことがない」
グレイが立つのを待っていた。
「私は錬成の知識を望んだ。私の正義は私の悲願」
グレイは立ち上がる。
「私は体を悪魔に貸した。悪魔を止めたいなら」
「私の正義を潰せ」
ついに構えた。意図してグレイはついに光る。
完全に制御された黄金の雷。
「最初からそのつもりよ」
能力は正々堂々の範疇よね。と言い、腰を引いて膝丈ほど何倍も低く構えを変える。
右足をベタで立てて左足を指で床をギュッと掴む。開脚の幅は極限に達する。その左膝を極限まで降ろして床に触れない圧力で止める。
脇を閉めてレイピアの塚を両手で胸に抱いた。
先端の刃を神父の心臓に定めている。
「ならば……」
「ならば君の正義で私の正義を否定しろ」
神父様もさっきの構え取って。眼光鋭く待ち受ける。
つまり、グレイは利己の正義と衝突している。
どうなるか。
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