一章 溺れる人魚姫/一 戻れない舞台【4】
屋内プールに繋がっているドアを潜ると、まずは更衣室がある。
決して広くはないけれど、ふたりのマネージャーがいつも掃除をしてくれている。
おかげで、ロッカーも床も市民プールなんかよりもずっと清潔に保たれていた。
更衣室の奥にあるドアを抜ければ、プールサイドに繋がる道へと出ることができ、練習の前後にはその途中に設置してあるシャワーを浴びるのが決まりだ。
浴びるといっても、水着のまま。
仕切りなどもないから何分も時間をかけることはないものの、シャワーブースにはいつも順番を待つ部員たちがいた。
ただ、今日の私は制服だ。
プールに入ることもシャワーを浴びる必要もない。
たったそれだけのことが、まるで初めての場所に足を踏み入れるときのような不安を抱かせ、ここで引き返したくなるくらいには足が動かなかった。
聞こえてくるのは、コーチや部員たちの声と水の音。
バシャバシャと響く水音からは、しぶきが上がる様を想像させられ、懐かしくも歯がゆい気持ちに包まれた。
「やったじゃない! 自己ベストだよ!」
しばらく立ち尽くしていると、唐突にコーチの明るい声が響いた。
誰かが自己ベストを出したことを教えられ、呼吸の仕方を忘れてしまったかのように胸が苦しくなる。
「すごいじゃん!」
「さすがうちの新エース!
それでも、なんとか足に力を込めていた私の耳に届いたのは、部員たちの賞賛や激励混じりの言葉と、後輩の名前だった。
もともと実力があった彼女は、入部当時からコーチや部員たちから期待されていたようだったのは知っている。
だけど――。
「美波があんなことになってから、どうなるかと思ったけど……。今年の夏も、うちらで美波の分まで頑張ろう!」
次の瞬間、誰かが口にした言葉が胸の奥を鋭く突き刺した。
(わかってる……。わかってるけど……)
心の中で繰り返してみても、本心では納得なんてできない。
〝あんなこと〟さえなければ、あの場所でみんなに囲まれていたのは私だったのかもしれない。
そんな気持ちがふつふつと湧き上がり、もう選手として泳げないことに改めて絶望して……。後輩の新記録を喜べない自分自身に、ひどい嫌悪感を抱いた。
唇を噛みしめていなければ、涙が浮かんでしまいそうだった。
少し前の私は、いつも部員たちの前を泳いでいた。
ライバルたちの存在に刺激され、自分の目標を達成するためにはもちろん、周囲の目標であり続けるためにもよりいっそう練習に力が入り、夢に向かって歩んでいた。
それなのに、今はみんなの前を泳ぐことはおろか、同じフィールドに立つとことすらできない。
あの場所には、もう決して戻れないのだ。
夢が破れる可能性を考えたことはあっても、こんな未来を想像したことなんて一度だってなかった。
だけど、私の左足は、もうあの頃のように動いてはくれない。
泳ぐことはできても、選手として輝く未来は決してない。
「私、牧野先輩の代わりになれるように頑張ります!」
「……っ!」
そんな現実を改めて突きつけられたことに絶望していたとき、未恵の言葉によって心を貫かれ、どん底に突き落とされた――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます