一章 溺れる人魚姫/一 戻れない舞台【3】
「やっぱり、退部するのか?」
「……はい」
沈黙のあとで零した声が、遠くから聞こえてくる喧騒にかき消される。
心臓が嫌な音を立て、息が苦しくなった。
「そうか……。前にも言ったが、マネージャーという形で残る手もあるぞ?」
低く優しい声が、耳に届く。
遠慮がちに紡がれる言葉は、私の傷口をえぐらないようにしてくれているのだとわかる。
だけど、どれだけオブラートに包まれたって、心はひどく痛んだ。
「籍だけ残しておかせるわけにはいかないが、マネージャーとしてでも来年の夏まで在籍していれば、内申点にもなる。進学でも就職でも内申点は少しでもあるに越したことはないし、考え直してみないか?」
スポーツ推薦でこの
ただ、マネージャーとして残るという選択肢はまだ残されている。
あと一年在籍していれば、進路で有利に働くこともあるかもしれない。
「いえ……私は、もう……」
それをわかっていても、私にはどうしてもその選択肢を選ぶ勇気はなかった。
古谷先生は、太い眉を下げてため息をつく。
私は、先生から逃げるように俯いてしまった。
高校二年の一学期の今、来年の夏まではまだ一年以上もある。
ずっと選手として過ごしてきた部活内でこの先マネージャーとしてやっていけるほど、私は強くもなければ立ち直れてもいない。
内申点のことを考えれば、どうするのが最善なのかはわかるのに……。頭と心は、どうしたって寄り添えないほどに乖離している。
そんな私が出す答えは、どれだけ時間をかけても〝退部〟しかなかった。
「そうだよな……。酷だよな……」
筋肉質で日焼けした先生は、いつも体育教師らしく溌溂としている。
それなのに、今はとても寂しそうで悲しそうで、なんだか小さく見えた。
「力になってあげられなくて悪いな……」
「いえ……」
それ以上は、一文字も出てこなかった。
なにを言っても、涙が込み上げてしまいそうで。
どんな言葉を使っても、上辺だけのものになりそうで。
「最後に覗いていくか? 今日はコーチも来てる」
古谷先生の質問に即答できなかったのは、この時間には部員が揃っているとわかっているから。
あの輪の中に入ることはもうできない。
そんな私にとって、部内に顔を出すというのは簡単なことじゃない。
それでも、お世話になったコーチに最後の挨拶もしないというわけにもいかなくて、しばらくの沈黙のあとで息を吐いた。
迷いをあらわにした口元が、動くことをためらうように震える。
それを隠すように、喉の奥から声を絞り出す。
「じゃあ、少しだけ顔を出します……。コーチにも挨拶がしたいので……」
本音と建前のどちらが強かったのかは、考えなくても明白だった。
できることなら今すぐにでもここから逃げ出したいけれど、先延ばしにしてもきっとなにも変わらない。
退部届を出すまでに三ヶ月もの時間を要したのに、結局は覚悟を決め切れなかった今のように……。
どうせ時間を置いても今と同じ思いをするのなら、一気に傷口をえぐられることになったとしても、いっそ一息にすべてを終わらせたいと思った。
そして、一刻も早く、自分の生活の中心だったものと離れてしまいたかった。
これから職員会議だったらしい古谷先生は、一時間後なら一緒に行けると申し出てくれたけれど、「ひとりで大丈夫です」と笑顔でうそをついた。
重い足取りで向かうプールまではあっという間で、早朝と放課後に毎日通っていたのがもう随分と前のことのように思えた。
屋内プールが設置されている校内は、それ以外にも運動部の設備が整っている。
東緑が丘高校は、スポーツ推薦で入学する生徒が一定数いる。
そのため、運動部の活動に力を入れているのだ。
各部内の監督やコーチの大半は外部から来てもらっていたり、メディアで取り上げられる生徒がいたりする。
水泳部もそのひとつだった。
コーチは、インターハイとオリンピック出場経験を持つ女性に依頼していて、部内からはほぼ毎年インターハイに出場する生徒がいる。
昨夏のインターハイには私も出場し、五〇メートルのバタフライで二位に入賞した。
そのときに喜びよりも悔しさが大きかった私の目標は、『来年は優勝』だった。
一年後の自分が水の中に入ってすらいない、なんて想像もせずに……。
家にあるメダルは、少し前にクローゼットの奥にしまいこんだ。
今はもう、視界に入ることもない。
リビングにたくさんあったトロフィーや盾、賞状も、すべて母がどこかに片付けてしまっている。
水泳一色だったはずの我が家なのに、家族の口からは〝水泳〟という単語すら出ることはなくなり、テレビで水泳選手が映るとすぐにチャンネルを替える始末。
不自然なほどに、水泳に関わるすべてを遠ざけていた。
だけど、そうでもしなければ、私の涙が止まることはなかったかもしれない。
今も決して泣かなくなったわけじゃないものの、こうして普通に学校に来られるようになった。
少し前までは保健室登校していたくらいには、教室に入ることすら怖かった。
だから、甘いと思われるかもしれないけれど、私にとってはこれだけでも大きな進歩なのだ。
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