エンドレスサマー・ラブ

幸原風吹

エンドレスサマー・ラブ

 小さな田舎町にある民宿シーサイドは、夏になると宿泊客が倍増する。

 海辺にあるため、夏休み中の学生や、サーフィンを楽しむ人たちに需要があるのだ。

 宿泊客には大変評判が良い民宿ではあるが、従業員は短期アルバイトが多いため、職場としての定着率はかなり低い。

 働き者が多い年は、仕事が上手く回るが、怠け者が多い年は回りが遅く、仕事が滞ったりする。今年はどうやら後者の方らしい。

 「もぉ~……なんで誰も起きないの?」

 早朝5時に起きた奥瀬七海は、不満を口にしながらも、手際よく洗濯機から洗濯物を取り出す。

 七海はこの民宿を経営している奥瀬湊の一人娘だ。

 七海はまだ高校生2年生なのだが、夏休みになると、ほぼ毎日、宿の手伝いをしている。

 

 本来ならこういった雑用は、住み込みで働いているアルバイトの業務なのだが、声をかけても誰も起きてこないため、七海が代わりにやっている。

 注意するとすぐ辞めてしまうケースが多いため、何も言わないようにしているが、正直、納得はしていない。

 これでは雇っている意味が無い――苛立ちを感じたまま、洗濯物を入れたカゴを持ち、施設の外へと出る七海。

 

 ザバァァァ……ザザーン……。

 

 早朝の海、波の音は、時間の流れを感じさせないくらい穏やかだ。

 七海は背伸びをしながら、いつのもように海辺を見つめた。

「……あれ?」

 海辺で倒れている人がいる――いや、それとも寝ているのか? 分からないまま、凝視する。

 泳ぎ疲れた人が寝転んでいる可能性もある。

 しかし、こんな朝早くから泳ぐ人など滅多に居ない。

 それに、今日の宿泊客にサーファーは居なかったはずだ。

 不審に思った七海は、おそるおそる海辺へと近づいた。

 

 Tシャツにジーンズの青年が倒れている。

 服は濡れていないので、漂流では無いようだ。

「あ、あの……」

 身体を揺らすも、返事は無い。

 青年の手首に触れる――脈はあるので、生きているようだ。

 だが、気を失っているようで、返事がない。

 ふと青年の額に手を当てる。酷く熱い。

 このままでは命が危ない――七海は慌てて宿へと戻り、父の湊を呼んだ。


 ◇


 2時間後――診療所の先生が民宿へとやって来た。

 診療所の先生は、布団で横たわる青年の身体を診ると、命に別状はないと診断し、解熱剤を取り出した。

「この青年の名前は?」

「分からないんです……」

「何か身元が分かるものを所持してませんでしたか?」

「いえ、何も……」

「そうですか……意識が戻って、何か分かったら連絡下さい」

「分かりました」

 診療所の先生が去ると、湊は宿泊客の朝食の支度をしに厨房へと向かった。

 残された七海は、青年の看病を続ける。

 手を握り、青年の顔を見つめる七海。

 この青年に一体何が起きたのだろう――赤の他人の七海は、知る由もない。

 時間は刻々と過ぎていく。

 

 ◇

 

 1時間後――目を覚ました青年。

 朦朧とした意識で、天井をしばらく見つめた後、

「ここは……?」

 と、ポツリと呟き、横に居る七海に視線を向ける。

 「ここは海辺の民宿シーサイドだよ。私はその従業員の七海。あなたの名前は?」

「僕の名前……?」

「そう、あなたの名前」

「僕の名前……僕の……うっ」

 頭を押さえながら呻く青年。

「どうしたの……?」

「思い出せない……何も」

「えっ?」

「僕がなぜこの場所に居たのか……自分が一体何者なのか……」

「もしかして記憶喪失……?」

「分からない……僕はどうして……うっ」

「動かないで。まだ寝てて良いから……」

 無理に起き上がろうとする青年を落ち着かせ、再び寝かせる七海。

 天井を見つめたまま黙り込む青年。途方に暮れる七海。

 この町で生まれ育って17年――こんなことは生まれて初めてだった。

「とりあえず、交番に行こうか」

「……そうだね」

 熱が下がり、具合が良くなった後、青年は奥瀬親子と共に町の交番へと向かった。

 

 ◇

 

 町の交番で事情を話す奥瀬親子と青年。

 すぐさま保護した青年と、警察の犯罪者データベースを照合してみたが、そのどれにも、合致するものは無かった。

 奥瀬親子も、緊張していた青年もホッと胸を撫で降ろす。

 続いて捜索願のデータも照合してもらったが、それに関しても青年の特徴と合致するものは無かった。

 行方不明になってから、まだ間もないのかもしれない。

 もしくは天涯孤独の身という可能性もある。

 青年はパッと見、10代後半~20代前半に見えるが、それは見た目だけの話であり、実年齢とは限らない。

 犯罪者じゃなかったことは喜ばしいことだが、青年のことは依然として分からないことだらけだ。

「記憶が戻るまで、施設に入所することになります」

 駐在が、淡々と呟く。

「施設……ですか」

 青年は俯いたまま黙り込む。気落ちしているようだ。

 それを見た七海も同じように、落ち込む。

「あの人辛そう……。どうにか出来ないのかな……」

 見かねた七海が湊に耳打ちをする。

「仕方ないよ。手続きとか、身体の検査をしなきゃいけないからね」

 「そうなんだ……」

 奥瀬親子にはどうすることも出来ない。

「では、手続きを始めますね」

 駐在の言葉に、拳をギュッと握りしめる青年。

 青年をチラチラと見る七海。青年のことが気になって仕方がないようだ。

「さぁ、行こうか七海」

 七海に呼びかけ、立ち上がる湊。

「で、でも……」

「後は行政に任せておけばいい」

 そう言って、交番から出る湊。

 なんて冷たいのだろう――立ち去る湊の背中を睨む七海。

「早く来いって」

 湊は交番の外から手招きをするが、七海はそっぽを向いている。

 駐在さんが溜息をつきながら、七海を見る。

「お嬢ちゃん、もう帰って良いよ。後はこっちでやっておくから」

「……はい」

 駐在の言葉に七海は渋々頷き、交番を後にした。

 

 ◇

 

 1週間後――交番に立ち寄り、青年のその後を訪ねてみたが、駐在の口が堅いため、『検査している』以外の情報を得ることは出来なかった。

 民宿のロッジの掃除をしながら、青年のことを思い返す七海。

 

 ザバァァァ……ザザーン……。


「今ごろどうしてるかなぁ……」

 もっと親身になってあげれば良かったと、反省をする七海。

 掃除する手を止めて、椅子に座る七海。

 テーブルに頬杖をつきながら、青年に思いを馳せる。

「あ、あの……」

 ふいに背後から声をかけられる。

「わっ!……い、いらっしゃいませ~!」

 仕事をしていない所を見られてしまったと、慌てて振り向く七海。

「この前はどうも……」

 声をかけて来たのは、先日の記憶喪失の青年だった。

 保護した日よりも顔色が良くなっていて、元気そうだ。

「いえいえ、こちらこそ……」

 深々と頭を下げる七海。

「あの後、この町の大学病院で精密検査したんです」

「結果は?」

「脳に異常はなく、外傷も無かったです。メンタル的な問題だと診断されました」

「なるほど……。それで、記憶の方は……?」

「戻ってないです」

「そっか……」

 肩を落とす七海。

「でも、行政の方に、すぐにでも働きたいって言ったら、早めに新規戸籍の手続きをしてくれました」

「働きたい……?」

「あ、はい。この民宿で働かせてもらおうかと」

「ここで!?」

「はい」

「宿泊の間違いでは?」

「いえ、ここで働きます」

「忙しいし、給料低いですよ……?」

 待遇が良いとは口が割けても言えない。

「良いんです。ここで働いてた方が気晴らしになるし、何か思い出すかもしれない」

「そうかもしれないけど……」

 

 ザバァァァ……ザザーン……。


 海を見つめる青年。

「これも何かの縁だと思うし……それに僕は、この宿が気に入りましたから」

「……分かりました。今から父に話してきますね」

「よろしくお願いします」


 こうして、青年は民宿シーサイドで働くこととなったのだった。


 ◇ 


「じゃあまず……お客さんが食べ終わった食器片づけてくれますか?」

「はい」

 青年が持っているおぼんの上に、次々と食器を重ねる七海。

 よろよろとしながらも、厨房へと運ぶ青年。

「皿洗いが終わったら、ベッドメイクと掃除お願いします」

「はい」

 青年はふらふらと階段を上がっていく。

「気をつけて下さいね。えーっと……」

 青年の名前を呼ぼうとして、口ごもる七海。

「なんて呼べばいいんだろう……?」

 七海は青年の名前を知らなかった。

 

 ◇

 

 七海は、記憶喪失の青年のことを『クジラ君』と呼ぶことにした。

 クジラの死体のように倒れていたのが名前の由来である。

 青年は、新しい戸籍の名前で呼んで欲しいと頼んだが、七海があまりにも楽しそうに『クジラ君』と呼ぶため、その呼び方で良いことになったらしい。

 クジラ君は日々の忙しさに戸惑いつつも、少しずつ民宿の暮らしに馴染んできたようだ。

 しかしまだ、クジラ君の記憶は戻っていないし、彼らしき捜索願も出されていない。彼の身の回りのことは何一つ進んでいなかった。

「こんなに忙しいとは思わなかった……」

 民宿のロッジの椅子に座り、濡らしたタオルを顔に当てるクジラ君。

 やることが多すぎて、目が回ってしまったようだ。

「大丈夫……?」

 七海が気を利かせて、背中をさする。

「はぁ……僕はなんて不甲斐ないんだ。記憶喪失になる前もダメ人間だったに違いない……」

「そんなことないよ」

「いや、きっとろくでもない人間だったんだ……」

「そんなに落ち込まないで。クジラ君が居て、すごーく助かってるんだよ? 本当にありがとう」

 クジラ君に笑顔を向ける七海。

「僕……役に立ってる?」

「うん。すっごく役に立ってる」

 少しスローペースなところはあるが、サボりがちなアルバイトより全然良い。

「……そうか。僕、役に立ってるのか……」

「そうだよ。だから、もっと前向きになろうよ」

「……うん」

 七海の励ましにより、元気を取り戻すクジラ君。

 時計の時刻を確認する。

 予約客が宿にやってくる時間だ。

「あっ、15時から予約入ってるから、準備しなきゃ」

「うん。そうだね」

「料理は父さんの方が上手いけど、接客は私がやらないとね!」

「ふふっ、頼もしいね、七海ちゃん」

 クジラ君は戸惑いつつも、楽しそうに笑っている。

 七海との他愛も無い会話が、気分転換になったようだった。


 ◇


 今日は完全オフの日。従業員たちが民宿の外で、クジラ君の歓迎会をしている。

 ……といっても、海辺でバーベキューをしているだけなのだが。

 成人している従業員はビールを飲み、未成年や酒が得意ではない人は、お茶や炭酸ジュースなどを飲む。

 クジラ君は年齢の判別が出来ないため、お茶を飲むらしい。

「お疲れ様です、湊さん」

 優しい笑顔でコップにビールを注ぐクジラ君。

 どうやら、接客の才能があるようだ。

 そんな心優しいクジラ君なので、民宿の従業員たちみんなに好かれているようだ。

 湊は頭を撫で、猫のように可愛がり、他の従業員もクジラ君との雑談で盛り上がる。

 本来は、七海もそれに混ざりたがっていたが、友達に夏祭りへと誘われたため、歓迎会が始まる前には出かけてしまった。

 七海が帰って来たのは、それから2時間後だった。

「ただいまー」

 歓迎会も終わりかけの頃であり、ビールを飲んだ湊や従業員は、酔い潰れて寝てしまった。

 酒を飲まない人たちも、隣町へと遊びに歩いてしまったらしい。

「おかえり、七海ちゃん」

 ただ1人、クジラ君だけが歓迎会の片付けをしている。

「手伝おうか?」

「いいよ。1人でやれるから」

「じゃあ、お言葉に甘えて……」

 七海は、クジラ君を通り過ぎて、海辺へと佇んだ。

「夏祭りは楽しかった?」

「うん!」

「その浴衣、可愛いね。ナンパされたでしょ?」

「あはは……こんな田舎の小娘、誰も相手にしないって」

「そんなこと無いよ」

「お世辞でも嬉しいかも」

「お世辞じゃないって」

 七海は嬉しそうに、浴衣姿でクルクルと回った。

「これ、死んだお母さんの形見なの」

「そうなんだ……」

「毎年着てるの。着れなくなるまで、ずっと着るんだ」

「……そうだね。その方が良い」

 クジラ君は優しい笑みを浮かべたまま、七海を見つめる。

 七海のショートカットが風に揺れた。

 その姿はまるで、青春時代の象徴のようだ。

「ねぇ、後で線香花火しようよ」

「花火か……いつぶりだろうなぁ」

「……子どもっぽい?」

「子どもの遊びだけど……僕もやりたいな」

「やったー!」

「ふふっ……急いで片づけるね」

「じゃあ、私も手伝う!」

 歓迎会が終わった後――七海とクジラ君は、線香花火をしてゆったりした時間を過ごしたのだった。

 

 ◇幕間


 時々、悲しい夢を見る。

 幼い姿の僕が『父さん』と呼ぶ人に抱き着こうとして、拒絶される夢だ。

 そういう時は、いつも怒鳴られる。

 僕は悲しくて涙を流す。

 だけど、その悲しみを『父さん』は分かってくれない。

 そして、悲しい気持ちのまま目が覚める。

 涙が頬を伝う。

 もし、これが失われた記憶の一部だとしたら……。

 僕は……。

 僕……は……。

 

 ◇

 

 ある日、七海とクジラ君は、一緒に隣町の市場で買い出しをすることになった。

 あれから更に、1週間は過ぎたが、未だに記憶は戻らず、身元も判明していない。

 彼の特徴と合致した届出もされていないようだ。

 クジラ君本人はそんなことを気に病むこともなく、今ではすっかり民宿の従業員として生活している。

 今日も七海と雑談をしながら、楽しく買い物をしている。

「今日はマグロが安いね」

「ホタテも買い時だよ」

「ほんとだ! 今日は豪華な夕食になるね!」

「あはは……そうだね。お客さんきっと喜ぶよ」

 カゴに次々と刺身を入れるクジラ君。

 その横顔を嬉しそうに見つめる七海。

 そして、ぼんやりと思う。

 クジラ君がこのままずっと一緒に居てくれたら良いのに――思ってはいけないことを頭に浮かべる。

 別れの日がくることを知りながら、永遠を望んでしまう矛盾。

 その日が来たらどうなってしまうのだろう――途端に切なさを募らせる七海。

 七海の胸の中で少しずつ膨れ上がっていく気持ち。クジラ君に気づかれまいと、必死に隠し続けている。

「ねぇ、買い出し終わったら、雑貨屋に行っても良いかな?」

 始めての給料を貰ったらしいクジラ君は、雑貨屋に行きたいと呟く。

「うん、いいよ」

 七海はそれに頷いて、一緒に雑貨屋へと向かった。


 ◇

 

 民宿の近くでやっている観光客向けの雑貨屋。

 地元に所縁のある食べ物や民芸品が並んでいる。

 もちろん、アクセサリーやキーホルダーなども売っている。

「いらっしゃい七海ちゃん。彼氏も一緒かい?」

「ち、違うってば! うちの従業員って言ってるじゃない!」

「ふふっ……どうなんだかね~」

 七海は即座に否定するものの、店主はニヤリと笑っている。

 店主は既にクジラ君のことは知っているはずなのだが、話題づくりのために、あえて茶化しているのだろう。

「もう……からかうのやめてよ」

 顔を真っ赤にさせながら、店内の商品を眺める。

 店主のからかいなど気にも留めず、七海の後ろを付いて歩くクジラ君。

「七海ちゃんは何が欲しいの?」

「私はいいから、クジラ君選んでよ」

「僕はいらないよ。七海ちゃんにプレゼントしたいだけだから」

「私に?」

「そう。今までのお礼」

「お礼って?……」

「君は、僕の命の恩人だから……」

 海辺で倒れていたのを保護したことを言っているのだろう。

「いや……当たり前のことしただけだから」

「七海ちゃんが居なかったら、僕は死んでた」

「それはそうだけど……」

「僕を見つけてくれて、ありがとう」

 七海に優しい笑みを浮かべるクジラ君。

 その純粋無垢な笑顔に、ドキリとする七海。

「……じゃあ、これ買ってもらおうかな」

 七海が気を紛らわすように、1000円ほどのネックレスをクジラ君に渡す。

「これでいいの? もっと良いやつにしたら?」

「いいの。残りのお金はクジラ君の生活費なんだから」

「まぁ、そうだけど……」

「気にしないで。田舎の小娘には、これぐらいが丁度いいの」

「気を遣わせてごめんね。お金溜まったらもっと良いの買ってあげるからね」

「ダメ……自分のために溜めておいて」

「あはは……だよね」

 苦笑いを浮かべて、そのままレジへと向かうクジラ君。

 会計をしたネックレスを、七海に手渡す。

 ネックレスを掲げ、まじまじと見つめる七海。

「……綺麗」

 満面の笑みを浮かべる七海。

 1000円の安物ネックレスではあるが、七海にとっては大事な宝物だ。

 「喜んでくれて嬉しいよ」

 クジラ君も嬉しそうに笑う。

 たった30分ではあるが、穏やかな時間を過ごした2人であった。


 ◇

  

 以前の記憶を思い出せないまま、日々が過ぎていく。

 思い出せないということは、思い出したくないということなのかもしれない――何かを悟り、開き直るクジラ君。

 このまま、第2の人生を始めようかな――そう言いながら、屈託のない笑みを浮かべる。

 意外にも、クジラ君は現在の暮らしに、前向きな姿勢を見せていた。

 他の従業員とも楽しく会話し、お客さんにも心地よい接客をするクジラ君。

 子どもにもかなり好かれていて、砂遊びや水遊び、花火なども一緒にやったりする。

 そんなクジラ君を見て、湊は『好きなだけここに居て良い』と口癖のように話す。  

 七海も同じ気持ちなので、その度に、激しく頷く。

 クジラ君本人が望んでいるのなら、それでいいのだ。

 七海は、未来のことを想像し、期待に胸を躍らせた。


 しかし、幸せは長くは続かない。

 終わりは突然やってくる。


 ◇

 

 ある雨の日、民宿シーサイドの駐車場に、高級車が停まった。

 上流階級の人だろうか――疑問に思いながらも、傘を差し出し、手厚く出迎える七海。

 車の中からブランド品を身に纏い、サングラスをかけた華やかな女性が出てくる。

「いらっしゃいませ。1名様でしょうか? 予約はされてますか?」

 黙り込む女性。七海の質問には答えない。

「……賢哉いる?」

「賢哉?」

「神宮司賢哉。いるんでしょ?ここに」

「いえ、そのような名前の従業員は……」

「いいから、賢哉を呼んできて」

「……すみません、さっきから何をおっしゃってるのですか?」

 明らかに機嫌悪そうに溜息をつく女性。

「ったくもう、話が分かんない子ね。婚約者を迎えに来たのよ」

「婚約者……?」

「絶対にいるはずなんだから」

「そんな人……いませんよ」

 ますます訳が分からない。首を傾げる七海。

「どうしたの七海ちゃん……?」

 心配したクジラ君が、玄関のドアを開け、顔を出す。

「賢哉!!」

 女性はクジラ君の傍へと駆け寄り、思い切りその胸へと顔を埋める。

「えっ……?」

 頭が真っ白になる七海。

「探したのよ賢哉……会いたかった」

「あ、あなたは……?」

「何言ってるのよ、賢哉。桜華よ。三条桜華。あなたの婚約者じゃない!」

 サングラスを外し、素顔を見せる桜華。

「あの……僕は賢哉って名前なんですか?」

 困惑した顔で桜華を見つめるクジラ君。

「やっぱり記憶が無いの……?」

 唖然としている桜華。

「はい……すみません」

申し訳なさそうに頭を下げるクジラ君。

「そ、そんな……」

 後ずさりをし、身体を震わせる桜華。

「過去の僕を知ってるのはあなただけです。良ければ『神宮司賢哉』の話を聞かせてもらえませんか」

「……分かったわ」

「こちらへどうぞ」

 クジラ君――いや、神宮司賢哉は、桜華を民宿の中へと招き入れ、ロビーへと案内した。

 傘を地面に置いたまま、曇り空を見上げる七海。

 雨はより一層強くなっていく。


 ◇

 

 三条桜華は病院を運営する企業グループの娘だ。その婚約相手が神宮司賢哉なのである。

  実は彼も、有名な資産家の息子なのだという。年齢は19歳。お金持ちが集う、私立大学に通っている学生だ。

 桜華が雑誌をペラペラとめくり、賢哉の特集や写真が載っているページを見せる。

 優秀な学生が取り上げられている記事だ。

 記事から察するに、クジラ君はとても誠実で、賢い人間のようだ。

 これで、記憶喪失のクジラ君と神宮司賢哉は同一人物だということがハッキリした。

「僕が資産家の息子……? 本当に? 全然しっくりこない……」

 賢哉は混乱しているようだ。

「あなたはとても素晴らしい人間なの」

「僕が……? 何かの間違いじゃないのかな? うっ……」

 頭を押さえ、呻くクジラ君。

「無理しないで、賢哉。さぁ、帰りましょう」

 賢哉の手を握る桜華。

「でも、僕はまだここでやることがあるんだ。この民宿で……」

「こんな所に居て、何になるの?」

「だけど……」

「あなたには約束された未来があるの。ここに留まる必要は無いわ」

「約束された未来……?」

「そうよ。あなたの記憶喪失は絶対治る。最先端の医療を受けさせてあげるわ。お父様に頼んであげる」

「桜華さん……」

「こんな嘘だらけの生活で生きていけるわけないでしょ? あなたは資産家の息子、私の婚約者なんだから」

 嘘だらけの生活――桜華の言葉が重く心にのしかかる。

「このままじゃダメなんだね……」

「そうよ。あなたは元の世界に戻るべき」

「そうだよね……そうした方が良いんだよね」

 渋々頷き、立ち上がる賢哉。桜華に連れられ、宿の外へと出る。

「クジラ君……!!」

 七海に呼び止められるが、振り返ることも無く車へと乗り込む賢哉。

 七海は名残惜しそうに賢哉を見つめる。

 後部座席に座った賢哉も七海を見つめ返す。

「さよなら……クジラ君」

 無理矢理作った笑顔を見せ、手を振る七海。

 窓越しに何かを呟く賢哉。

 〇〇〇〇〇――何と言ってるかは分からない。

 七海は直感でメッセージを受け取った。

 車が勢いよく走り出し、あっという間に消え去る。

 

 ザバァァァ……ザザーン……。

 

 天候が悪く、荒れた海。

 バイバイ、クジラ君――買ってもらったネックレスを握りしめ、号泣する七海。

 雨が降りしきる日に、彼女の初恋は終わったのだった。


 ◇

 

 1年後の夏――民宿シーサイドは夏休みシーズンで、繁忙期を迎えていた。

「なんで私が買い出し……?」

 相変わらず短期アルバイトへの愚痴を呟きながら、小道を歩く七海。

 

ザバァァァ……ザザーン……。


 ふと、海沿いの道から海を眺める。

「クジラ君……元気にしてるかなぁ」

 遠い夏の日々を思い出す。あの夏は特別だった。

 あんな素晴らしい夏はもう2度とやって来ないだろう――溜息をつき、再び歩き出す七海。

 

 ザシュ!


「あっ!」

 使い込んだサンダルの紐が切れ、その衝動で転んでしまう七海。

「いたたた……最悪ぅ」

 痛みに耐えながら、足をさする。……今日は全然ツイてない日だ。

「あの……大丈夫ですか?」

 穏やかな声で、そっと手を差し伸べられる。

「……え?」

 この声、この手の形、もしかして……。

 既視感を感じる七海。

「久しぶりだね」

 七海が顔を上げると、そこには神宮司賢哉――いや、クジラ君の姿があった。

「クジラく……賢哉さん!!」

「クジラ君で良いよ」

「あ、うん……」

差し伸べられた手を掴み、立ち上がる七海。

「元気にしてた?」

 あの頃と変わらない優しさを向けてくれるクジラ君。

「どうしてここに……?」

「民宿で働きたくて、またここに戻ってきちゃった」

「えぇー!?」

 驚いた顔で賢哉を見つめる七海。

「全部思い出したよ。良いことも悪いことも全部……ね」

「それで……?」

「記憶を取り戻したうえで、ここに居たいって思ったんだ」

「資産家の息子なのに……?」

「父さんとは絶縁したよ。勘当されたんだ」

「えっ、そうなの?」

「うん。だから、僕はもう自由の身」

「じゃあ……桜華さんとは?」

 一番気にしていたことを、おそるおそる聞いてみる。

「桜華とも別れたよ。元々、財産目当ての婚約だったから」

「それで良かったの……?」

「うん。彼女にはもっと相応しい人が見つかるはず。それに、僕はもう神宮司の人間じゃ無いからね」

「そうなんだ……」

 お金持ちにも色々あるのだな、としみじみと感じる七海。

「でも良いんだ。僕の帰る場所は他にもあるから」

 スッキリした顔で七海を見る賢哉。

「また一緒に働いてくれるの?」

「もちろん。一緒に民宿をもっと盛り上げていこうよ」

「ありがとう……」

 嬉し泣きをする七海。

「これからはずっと……七海ちゃんと一緒だよ」

「クジラ君……」

 夢にまで見た光景だ。

「湊さんにも教えないとね」

「うん!」

 七海が、大きな声で返事をする。

 しかし、足を動かすのを躊躇する七海。

「サンダルの紐切れちゃったんだね。ほら、一緒に歩こう」

「うん」

 手を繋いで、歩き出す七海と賢哉。 

 

 雲1つない青空は、どこまでも澄んでいる。


          

         終






 




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