海に沈むジグラート39
七海ポルカ
第1話
眠りを妨げられる、扉を打つ音に目を覚ました。
フェルディナントはすぐに寝台の上で身を起こす。
「……旦那様、失礼いたします……」
執事の声だ。どんな時でも冷静な人物だが、それでも彼がこんな時間に声を潜めて寝室の扉を叩くというだけで、何か良からぬことが起きたのだと理解出来る。
フェルディナントは神聖ローマ帝国軍の将軍である。
三年前のフランスとの戦争で武勲を挙げ、公爵位を得た。
将軍にして、公爵。
こうして不穏な起こされ方をした時、彼が心配すべき相手は多方面にいる。
まず国。どこかの戦線で不測の事態が起こり、竜騎兵団に緊急に出撃要請が掛かることもある。国にとっての重鎮が亡くなった、それもまた国の重大事だろう。
しかしフェルディナントは貴族というよりは軍人だから、やはり戦線の異変が起こったのかもしれない。
「どうした?」
「王宮から遣いの方がいらっしゃいました。至急、お越しいただきたいとのことですが……」
「分かった。すぐに支度をする」
「はっ」
燭台だけ置いて、執事は去って行った。
月明かりの中手早く着替え、外套を羽織ると剣と護剣を持ち、部屋を出る。
五分ほど経っただろう。歩きながら廊下から階下を見下ろすと、エントランスで執事と話している姿に、彼は眉を寄せた。暗がりの中でも女物の、優雅な外套の影が見えた。
王宮からの遣いが女性であることは非常に珍しい。いや、決して有り得なかった。王宮の使者は全員顔が知れている。その中に女性はいないのだ。……たった一人を除いて。
フェルディナントは急いで階段を駆け下りて行った。
「ヤンゼ、何故明かりをつけない」
静かではあったがはっきりと叱責する声でフェルディナントが言うと、執事が深く頭を主に対して下げたが、すぐに柔らかな女の声がそれを止めた。
「良いのです、フェルディナント。わたくしが館の者を起こさないよう頼んだのです」
「妃殿下」
そこにいたのは仕えるべき皇帝の妻、イフレーア王妃だった。
冷静でいて、聡明で、穏やかな人柄で知られる王妃だったが、無論のこと、夜も更けない時刻に、臣下の館に王宮の遣いとして現われるような人物ではない。彼女の顔を見た時に、すでにフェルディナントは、何か大変なことが起きたのだとそのことが分かった。
しかし、それが皇帝に対して起こったことならば、王妃はそれこそ王宮から離れないはずであった。何かがおかしかった。
「フェルディナント……」
賢明な王妃が、年若い将軍であるフェルディナントの手を、包み込むようにして取った。
フェルディナントは彼女の生んだ、末の王子より、まだ年下の将軍であった。
「……大変なことが……」
これほど瞳を揺らす王妃を見るのは、初めてのことだった。
一瞬、溢れ出しそうになった感情を、強く目を一度閉じる仕草で封じ込め、王妃はいつもの、静かな眼差しに戻った。
「こんな時間に突然、申し訳ないわ。けれど……今すぐわたくしと共に、離宮に来てください」
急ぎましょう、と早々に馬車に乗り込むと、すぐに走り出した。
馬車の中でも、王妃は両手で、フェルディナントの右手を握り締めたままだった。
「わたしをこちらに遣いに向かわせたのは、陛下です」
彼女はそれだけを言った。
「西の離宮で、陛下があなたをお待ちです」
フェルディナントにとって、皇帝は恩がある人物だった。
この国において、彼がエルスタル王国の末の王子であることなどは、さして重要ではなく、フェルディナントが皇帝に見いだされたのは、血筋ではなく、竜騎兵としての才能、軍才だった。
軍人として取り立ててくれたのが当時皇太子であった今の皇帝で、自分が即位するとフェルディナントを最年少で将軍位に推挙し、竜騎兵団を任せてくれた。
今や、この皇帝の為に尽くすことこそ、自分の国であるエルスタルの父――王に尽くすことよりも重要なことだと思えた。
離宮に着くと、王妃が言った通り、皇帝が一人で待っていた。
王妃はすぐに場を外した。
先刻、国境付近の部隊から届いた報せだ、と文を手にしていたが、文面で伝えることも哀れだと思ったのだろう。
「どうか、心を鎮めて聞いてくれ……。恐ろしいことが起こった……。
【エルスタル】が……」
攻撃を受けた、ならまだいい。神聖ローマ帝国にとって同盟国であるから、すぐに援軍の部隊を送る、そう言ってやれた。しかし、援軍の必要はないのだ。言葉がなかった。
こんなことを、何度も伝えたくない、間違いがないか、幾度も確認させたが、どうしても別の報せが戻って来なかった。皇帝はそう言った。
攻撃を受けたのではない。
消し飛ばされたのだ。
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