第3話 摩耶との出会い

 夏休みを挟んで二学期が始まる頃には、僕自身も「いするぎ」を思い出さなくなっていた。夏の暑さが和らぐように、事件も過去になっていった。世は全てこともなし。

 そんな平穏な日々に心が弛緩したある日のこと、雛乃が僕の部屋のドアをゆっくりと開けた。雛乃と僕の部屋は南向きに隣り合っていて、雛乃はことあるごとに僕の部屋に来る。ノックなどしないで入ってくるから、僕は冷や汗をかくことが多い。もちろん僕がノックせずに雛乃の部屋に入ると、容赦なくぬいぐるみや本が飛んでくる。

「お兄ちゃん、いる? って何してるの」

 その時僕は部屋で逆立ちをしていた。逆立ちをすると血の巡りがよくなると優作に聞いたのだ。メグによると、続けることで成績もアップするとかなんとか。半信半疑でやってみたら、血が脳に行き渡るようで意外と気持ちがいい。

 三分後、さすがに耐えられず床の上にばたんと倒れた。ドアの隙間から見える雛乃の健康的な足を見ながら「何の用だ」と聞くと僕の胸の上に手紙を置いた。

「はい。差出人不明さんからのラブレターです」

 封筒は達筆な字で「藤原浩介様」と毛筆で書かれていた。中には秋模様の和柄の便箋が入っていて、


 拝啓 藤原浩介様 初秋の候 いかがお過ごしでしょうか。さて、不躾ですが本題に移らせていただきます。あなたがインタビューを受けたテレビ番組を私も拝見致しました。そしてたいへん驚きました。あなたはいするぎという名前に心当たりがないとお思いでしょうが、私はいするぎなる人物を知っております。つきましては住所と地図を同封致いたしますので、ぜひその場所に行ってみてください。時節柄ご自愛ください。 

                                     かしこ


 と書かれていた。手紙とともに丁寧な地図のイラストが添えてある。

 読み終わるタイミングを見計らって、雛乃が僕から手紙を奪おうと身を乗り出してきた。僕はとっさに手紙を隠す。なぜだか秘密にしておきたかったのだ。

「それで、誰からだったの。何て書いてあったの」

「何って果たし状さ。ほら、昨日見た時代劇でもあったろ……」

 と咄嗟にでまかせを言った。

「お兄ちゃんは嘘が下手すぎて将来浮気できないね。後で内容教えてね」

 恨めしそうに僕をジト目で睨み、部屋に戻っていった。雛乃が部屋に入ったのを確認し、手紙をもう一度読み直してみる。差出人が示す場所は僕の家から電車でひと駅、行こうと思えばすぐ行ける。でも僕はこの手紙に信憑性があるとは思えなかった。差出人の名前も書かずに、僕に信じてくれなんてずいぶん都合のいい話だ。信じてほいほい行ってみたら、怖い人にお金を巻き上げられる可能性だってある。だから、急ぎでもないしとりあえず行くか行かないかは保留にした。

 翌日優作に相談してみると、「面白いから行ってみたらどうだ。もしかすると運命の出会いがあるかもしれないぞ。お前はぜひ行って恋を探すべきだよ」と言った。メグも「行ってらっしゃい」と悪だくみするような顔をした。何だか怪しい手紙だけど、友だち二人も行った方がいいと言うし、僕はしぶしぶ手紙の家に行ってみることにした。


 僕は手紙が指示する通りにかもめ台駅で降り、地図をたどって「いするぎさん」の家を探した。かもめ台は昔は畑が広がっていたそうだが、今は農地を潰して住宅地が結構建っている。古い家と新しい家がまだらに存在していて、これから発展していく街に見えた。

 入り組んだ道を何度か右に左に折れ、雑木林とお寺を抜けたところに「石動」と書かれた家を見つけた。でも探しているのは「イシドウさん」ではなく「イスルギさん」だ。引き返そうかと思ったが、とりあえずインターホンを押してみる。二回ほどチャイムを鳴らすと、中から四十歳ぐらいのおじさんが出てきた。おじさんはアロハシャツの前ボタンを全部開け、短パンをだらしなく履いていた。よく見ればイケオジにも見えなくないけど、目が据わっていてカタギの人には見えない。手紙の主は僕を罠にはめたのだろうか、まずいところに来てしまったと心底後悔した。

「こちらはイシドウさんのお宅ですよね」

「イシドウ? それはイスルギと読むんだよこのバカタレが」

 僕がある人からここに来るように手紙をもらったと言うと、おじさんは急ににこやかな顔になり、

「まあとにかく家にハイレグ!」

 僕はわけがわからず「は?」と訊き返す。するとおじさんは昔流行ったらしいハイレグポーズをやってみせた。何が面白いのかわからず立ち尽くしていると、中から女の子が出てきて、「入って」とぼそっと言った。たぶん僕と同い年ぐらい。女の子はベージュのタートルネックに白のスカートを履いていた。暑いのに長袖なんてよほど寒がりなのか。肩まで伸びた黒髪が美人だなと見惚れていたら、彼女は不愛想に「ふんっ」と背中を向けた。

 通された八畳の和室はきれいに整頓され、見た目に寄らず家主は丁寧に生活しているようだった。サイドボードの上には家主とさっきの女の子がどこか旅行先で撮ったラフな笑顔の写真や、なぜかいろいろな魚の模型が飾られていた。

「お茶どうぞ……あっ、父さんこの人、木曜から夜遊びに出てた高校生だよ」

 不愛想な女の子は僕の顔を見るなり一歩後ずさり、招かれざる客人が来たかのような応対になった。別に僕は吉良邸に討ち入りに入った大石内蔵助ではないし、敵意も何もない。

それなのに僕を得体の知れないものとでも思っているのか、父親も僕の顔を見て、煎餅を丸ごと呑み込んだような低く詰まった声を出した。そしてばんっとテーブルを強く叩いた。

「ついに乗り込んできやがったか。摩耶、真剣持ってこい」

 すさまじい剣幕のおじさんに、僕は人生で初めて身の危険を感じた。これは冗談では済まないし、ことによっては逃げなくてはならない。摩耶と呼ばれた女の子は真剣を取りにどたどたと階段を駆け上がっていった。

「なぜ殺されなくてはならないのですか!」

 真剣だけに真剣な顔をして言うとおじさんは、

「だってお前、俺たちを殺したいほど憎んでいるんだろう? テレビでそう言ってたじゃないか。だから遠路はるばるうちまで来たんだろう。でもひとりでのこのこ来たのが運の尽きだ。さあ、武器を出しな」

 妙に優しい顔をして僕から武器を取り上げようとした。でも武器なんて持っていない。そのうちに摩耶が降りてきて布袋をおじさんに渡す。しかし中身は真剣などではなく、土産物屋に売っているチープな木刀だった。拍子抜けした僕を見て、

「観念したほうがいいわよ。お父さんは剣道五段だから」

 摩耶はにこやかに言うが、これ以上茶番に付き合っていられない。こんなへんてこな家からは早く立ち去るのみだ。

 僕は両手を挙げ二人に頭を下げる。するとおじさんは持っていた木刀を静かにしまい、やれやれといったポーズを取った。

「あのテレビ番組で言ったことは全部でたらめなんです。いするぎという名前も咄嗟に浮かんだものでした」

「いするぎなんて名前普通は出てこないわ。もしかして親戚に石動さんがいたりする? あなたのお名前何だっけ」

「藤原浩介」

「えっ、藤原!? まさかあなたは……」

 しばらく無言の時が流れた。摩耶は氷のように固まっている。その静寂を破るように、大時計が大きく五回部屋中に響き渡った。窓の外から光が差し込み、僕と彼女の影が重なる。これが、摩耶が僕を認識した最初の出来事だったのだ。瞳の中に僕を映して、彼女は何を思ったのだろう。

「じゃ、気を付けてな」

 石動家を出るころには陽が傾きかけていた。摩耶とおじさんが玄関前で僕を見送る。帰り際に摩耶が「遊びに来たくなったらいつでも来てね」と冗談とも本気ともつかない言い方で微笑む。もう彼女に会うこともないだろうと、僕はできるかぎりの愛想笑いで石動家を後にした。一期一会の精神が大事なのだ。くわばらくわばら、何とか生き延びられた。

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2025年1月10日 07:00
2025年1月11日 17:00
2025年1月12日 17:00

殺したいほど憎んでいるいするぎさん 栗山煉瓦 @Karintou0930

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