殺したいほど憎んでいるいするぎさん
栗山煉瓦
第1話 パンドラの箱が開くとき
平和な夏の日曜日。渋谷のスクランブル交差点の真ん中で、僕は制服を着ていることを少し後悔していた。シャツは半袖だし百歩譲っていいとして、問題はこのネクタイだ。しっかりと喉元まできゅっと締められているから、首の周りが蒸れてしょうがないのだ。でもせっかく妹が結んでくれたネクタイだし外すのはもったいない。
休日だけあって、渋谷は大勢の人でごった返していた。今日は渋谷で高校生の英語弁論大会が行われ、妹の雛乃が出場することになっている。数か月前から妹はみっちりと練習を重ね、先月は地区大会で見事金賞を受賞し、今日関東大会に出場する。雛乃は僕より一歳下の高校一年だけど、そのずばぬけた努力と根性、そして人生を謳歌する姿勢で多方面で活躍していた。僕たちの通う高校で藤原雛乃の名を知らない生徒はいないくらい、学年の間でも際立っている。僕にとっては誇らしい、自慢の妹だ。
一方の兄である僕は、いたって平凡な学生生活を送っていた。賞状をもらうほど良いことをするわけでもなく、職員室に呼ばれるような悪さもしない。これからの人生で世界を救うこともないし、世紀の大発明もしない。平和に波乱なく生きて、この地で生を終える。それで満足なのかと言われれば確かに不満はある。でもいまさらち特殊能力に目覚めるわけでもないし、現状維持も悪くない。
僕は人波に流されながらも、目的地までの道を歩き続ける。スマホの地図機能によると弁論大会の会場まではあと五百メートルほどだ。時計を確認するとまだ十時二十分。開始まで四十分ほどあるし、ゆっくり行こう。
会場はたぶん飲食禁止だし、今のうちに軽く腹ごしらえをしておきたい。僕は近くのコンビニでコカ・コーラとあずきバーを買い、木陰に座ってアイスにかじりつく。あずきバーは歯が折れそうなくらい硬い。
アイスをかじりながら、雛乃のことを考えていた。今朝、まだ夜も開けない時間から、妹は準備に余念がなかった。隣の部屋からは何度も、喉の調子を確認したり原稿を読み上げる声が聞こえた。僕はあえて雛乃に「大丈夫か」とか「ガンバレ」などとは言わない。それはもちろん妹のことを信じているからだ。
「お兄ちゃん、絶対見に来てね。雛乃が一番になったら、何かごちそうしてよね」
雛乃は制服のリボンを直しながら僕の部屋のドアを少しだけ開けた。ウェーブがかった茶色の髪はいつもより入念に整えられ、気合いの入りが違う。
漫画を読んでいた僕は、思わずくしゃみをする。本当は家でのんびりしようと思っていたけど、妹の晴れ舞台だし兄としては応援しないわけにはいかない。僕が「OK」と言うと、雛乃はこちらを見ずに大きくVサインを掲げた。
両親は娘の晴れ舞台だというのに仕事に行ってしまった。母は介護職で父は警察官。夜勤や休日出勤が多い仕事で、なかなか僕たちの行事に合わせて休みをとれない。だから必然的に雛乃のイベントには僕が出ることが多いのだ。
でもそんなことにくよくよするような雛乃ではない。彼女はポジティブオーラの塊で、妹ながらその行動力には驚嘆する。勉強、スポーツ、それにバイトもしっかりとこなす。想像をはるかに超えるバイタリティを持ち、エネルギーは無尽蔵の永久機関だ。
時計を見ると弁論大会まであと二十五分。そろそろ会場に移動しようかと思っていたとき、数名の男女が集まってきた。男性陣はカメラと大きな撮影機材を持ち、女性は色のついたマイクを持っている。猛暑にひとり男子高校生があずきバーを食べている姿が物珍しく目を引いたのか、好奇心に満ちた目を僕に向けた。
「私たちは木曜日から夜遊びという番組のスタッフです。インタビューに答えてもらってもいいですか」
どうやらテレビ番組の撮影らしく、彼らは腕の腕章を僕に見せた。誰もが知っているテレビ局の名前がそこに書かれている。「木曜日から夜遊び」という番組は聞いたことはある。街を歩いている人に声をかけ、面白い答えやリアクションを楽しむ番組だ。僕は見たことがないけど、たぶん雛乃は知っているはずだ。
マイクを向けられた僕は、取材拒否する理由もないから「いいですよ」と生返事をした。
「えーと、お名前は?」
「藤原浩介、高二です」
自己紹介や簡単な質問から始まり、雑談を上手に混ぜながらインタビューは進んで行った。さすがにテレビの人だけあって、巧みに話を引き出していく。彼らの話術に乗せられて、僕も饒舌になってきた。そしていよいよメインの質問。
「あなたが殺したいほど憎んでいる人はいますか?」
それは思いも寄らない質問だった。レポーターが笑顔で不穏な言葉を口にしたから、僕はふいを衝かれた猫のように焦ってしまう。できるだけ冷静にテレビ向けの笑顔を崩さずにオーバーなリアクションを取ってみる。僕が答えに窮して困った顔をすると、いい絵が取れたと思ったのかだんだんカメラを寄せてくる。テレビスタッフの期待が一身に僕の肩にのしかかる。
次第に僕は何かを言わなくてはと追い詰められていく。何か言え、藤原浩介。殺したい人……憎んでいる人……誰だ。僕に教えてくれ。蝉の声がじりじりと前頭葉を締め付ける。そして咄嗟に、
「僕が殺したいほど憎んでいるのは、いするぎさんです」
と思い浮かんだ名前を呟いていた。
「いするぎさん!? それは君とどういう関係の人なのかな。詳しく聞かせて」
でも実はいするぎなんて知り合いも敵討ちの相手もいない。テレビスタッフが固唾を呑んで次の言葉を待っている。ここでがっかりさせるわけにはいかない。
「えーと、何ていうか。前世の因縁ってやつですかね、へへ」
レポーターは突拍子もない返答にも上手に話を合わせてくれる。その後は何を話したのか、自分でも記憶が曖昧だ。でもは僕の答えに十分満足しているようで、スタッフ同士顔を見合わせて、うんうんと頷いている。
「ありがとうございます~。放送されるかはわからないけど、また連絡しますからね。あ、同意書にサインお願いしま~す」
そしてインタビューは終わった。さらさらと同意書にサインし、レポーターは満足そうに紙を受け取ると「ありがとう」と言って、次のターゲットを探しに行ってしまった。
彼らがいなくなり、僕は平穏を取り戻した。会場へ向かう間、僕はなぜ知りもしない「いするぎ」などという不可思議な名前を口にしたのだろうかと考えていた。しかも「殺したいほど憎んでいる」なんて。僕の知り合いの顔をひとりひとり思い浮かべても、いするぎという名前の人物はいない。喉の奥にその名前がひっかかったけど、弁論大会の会場に着くころにはインタビューされたことも、変な名前を口走ったこともほとんど忘れてしまっていた。
弁論大会の会場は高校生たちの熱気に包まれている。僕は前から二十五列目の右側に座り、発表者のスピーチを聞くことにした。ホール内はほぼ満席状態で、もっとガラガラだと思っていたのに、こんなにも聴者がいるのかと僕は驚いてしまった。張りつめた空気が会場内に漂い、背筋をピンと伸ばして聴かなければと身が引き締まる思いだ。
雛乃のスピーチは十九番目でまだまだ先だったけど、外は暑いし座って聴いているほうが楽だ。そしてスピーチが始まり、次々と壇上に立つ発表者は思い思い言葉に感情を込め、身振り手振りを駆使しながらにこやかに聴衆に語りかけていた。高校生とは思えないほどスピーチがうまい。僕も英語はそこそこできるほうだけど、彼らは格が違う。発音もネイティブ並みだし、内容も洗練されていた。こんな猛者どもを相手に、雛乃は大丈夫だろうかと心配になる。
しかしそれは杞憂だった。
「I am very happy to see all of you today」
十八番目のスピーチが終わり雛乃がスピーチを始めると、会場の空気は今までとは違った静けさに包まれた。場内を見回すと、お客さん達はスピーチを食い入るように聴いている。
「Today I would like to talk about ancient bird worship, and in particular birds as symbols」
雛乃の発表は何やら古代の鳥崇拝についてのようだ。随分と難しいテーマではあるけど、雛乃は滑らかに言葉を紡ぎ続けた。時にエモーショナルに、時に理知的に。もちろん内容も、しっかりと文献で調べたことを自分なりの解釈を交えて話している。そんな彼女のスピーチは、他の発表者より一段上回っていた。
「Thank you so much for your kind attention」
雛乃のスピーチは聴衆を魅了した。スピーチが終わっても、まだ壇上には余韻というかオーラの痕跡が残っていて拍手は鳴りやまない。妹ながら、能力のすばらしさに感嘆せずにはいられない。そしてほろりと涙がこぼれる。
そして結果発表。僕は客席から雛乃が一等賞になるよう祈った。でもあんなに良いスピーチだったのに、結果は銀賞だった。金賞は有名なお嬢様学校の制服を着た小柴聖良さんという女の子で、確かに彼女は上手だったけど僕は雛乃のスピーチが文句なしに一番だったと思う。
スピーチを終え、銀賞のトロフィーを手にした雛乃は満足そうな顔をしているけど、やはりどこか悔しそうだ。僕がねぎらいの言葉をかけると眉をハの字にして、
「しょうがないよー。大賞の子は帰国子女で、十年アメリカにいたんだって。しかも聖ライラック学園のお嬢様だったし」
「でも悔しいかも。あー悔しい、悔しい。お兄ちゃんに美味しいものを買ってもらわないと家に帰れない。宇治抹茶白玉プリンが私を呼んでる……」
そう言って雛乃は僕のほうをちらりと見た。僕が何も言わないと、何度も「悔しい」を繰り返し、一歩も歩こうとしない。僕がやれやれと腰に手を当て雛乃に「近くの甘味処でも行こうか」と言うと、彼女は急に元気を取り戻し、「おごりだかんね」と僕にすすすとすり寄ってくる。
まったく、弁論大会のときはあんなに凛々しく格好良かったのに、今はただのおねだり妹だ。でもこうやって僕に甘えてくれるのは正直嬉しい。雛乃はハイスペックでどんどん僕の先を進んで行くけど、まだまだ子どもの部分が残っていて僕は少しホッとするのだ。
妹離れできない兄は雛乃の頭を軽く撫で、そして近くのカフェで妹との楽しいひと時を楽しんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます