第8話 英雄
エリオットの中心に
「もう少し足を下げるんだ」
「はい」
返事をしたのは、近くの教会に住んでいて、たまに稽古に来る十歳の少年—マテオ。今日は城にきていたので教えているところだ。
十歳の平均といえる身長で、肩まで伸びた黒髪を無造作に下ろしている。教会に住んでいるはずだが、ズボンはところどころ破れていて、元は白いはずの布が薄汚れている。今日は履いているが、たまに靴を履いてこないこともある。あまり容姿にこだわらないタイプなのか、はたまた別の理由があるのか。今は南の情勢の悪化により、あまり裕福な時代ではないがそれにしても、という服装である。
「少し休もうか」
休むことなく稽古をしていたので、休憩を取ることにした。マテオはすんなりとやめ、リオネルの背中を追ってついてくる。マテオはおとなしい性格で、良くも悪くも指示には従順だ。
「今日は髪を結っていないのか」
庭のベンチに座って水分補給をしながら、隣の少年に尋ねる。先日稽古に来た時は、この長い髪を下の方で結っていた。
「シスターがまだ寝ていたので、結ってくれる人がいなかったのです」
リオネルは勝手に自分で結っているのだと思っていたので、そういうことかと納得する。
「シスターは優しいんだな」
「別に僕はこのままでもいいのですが」と付け加えた。
おや、とリオネルは思う。
「誰にも言わず教会を出てきていいのか?」
シスターは一人だけではないはずなので誰にも結ってもらえなかったということは、おそらく教会にいる大人は誰一人として起きていない。無断で出てきていいものなのだろうか。多分、だめだ。
「いつも怒られます。でも、寝ているから仕方ありません」
やはりな、心の中で呟く。シスターなのだから無理やり起こしても良いと思うのだが、今のマテオにはできないだろうと思った。マテオは今起きてる状況の上でしか動くことができない。どういうことかというと、先ほどの例でいうと、シスターが寝ているのにわざわざ起こそうと思わないことなどだ。これは気遣いではなく、指示が与えられていないから必要以上は動かない、という思考回路である。マテオは出された指示からそれ以上でもそれ以下でもない行動しかしない。彼のその性格は出会った当初からだった。
時は半年ほど前の暑い夏の日。
夕方の稽古を終えて木製の剣を片手に城に戻ろうとしていると、何十メートルも先にある城の敷地に入るための門のところに、一人の少年が立っているのを見つけた。遠かったけれど、自分のことを見つめているとリオネルはすぐに気がついた。
「お知り合いですか?」
ベルも少年の存在に気がつき尋ねてきた。
「いや、見覚えのない子だ」
そう言いながら、リオネルは少年のもとに歩いて行く。徐々に少年の姿が見えてきた。古びた上下の服に、結った髪。服からして教会の子供ではない。そして、一番目についたのは腰に下げていたもの—剣だ。一番外側が鞘である限り、中に入っているのは木刀ではない。つまり、人を傷つけられる本物の
不思議に思いながらもリオネルは尋ねる。
「名前は」
無表情の少年は軽く一礼をしてから言った。
「マテオと申します」
マテオ—名前はもう少し違うと思っていた。なぜなら、彼は黒髪だったからだ。この辺りの人間はだいたい金髪なので、東の方の子かと思ったのだ。予想外にここら辺でよく聞く名前だったために言葉に迷うが、すぐに気になっていたことを質問する。
「その剣はどうした。本物だろう」
「はい、自分で作りましたが実際に使える剣でございます」
口調からしておとなしい子なのだろうか。
「持ち歩いては危ないと大人に言われなかったのか」
「いいえ、一人ですので」
——。
リオネルは自分の失言に気がつく。この国は特別裕福というわけではないが、だからといって子供が一人でふらふらと生きているような国でもない。それ故、リオネルはまさかそんな返答が返ってくるなんて思ってもいなかった。
「—配慮が足りなかったことを詫びる。本当に一人で生きているのか?教会にも住んでいないのか?」
「…教会、というものが何なのかはわかりませんが、一人で生きております」
教会を知らない上に、独特な発音とイントネーションの言葉で遠い国の生まれであることがリオネルの中で確定した。にもかかわらず、なぜマテオがこの国の言葉を話せるのか。答えは簡単。
実は三大国の言葉は統一されてていて、大国の人間とコミュニケーション取れるようにするため、その言葉を小さな国で学ぶのことは珍しいことではない。きっとマテオもそうやって学んだのだろう。
「それで、なぜここに来た」
「皇太子さまに剣術を教えていただきたく参りました」
おかしな話である。
別の国から来たとはいえ、剣術教室などそこら辺に山ほどあるのですぐに見つられるはずだ。わざわざ城にまで出向いて皇太子に剣術を習おうとする人間などいない。目の前の少年を除いて。リオネルは確かに腕の立つ剣士ではあるが、彼に勝るものなどこの国にはいくらでもいる。自分でもそれを認識している。
「悪いが俺は剣術を教えていないんだ。そこら辺を歩けば教室などたくさんある。他を当たってくれ」
少年は一瞬黙り込んだが、すぐに先ほどと同様、無表情のまま言った。
「サイラスという人に言われて参りました」
側から見れば、まるで噛み合っていない会話—
しかし、リオネルは驚きのあまり目を見開いた。
「その人と会ったのは、この国に来てからか…?」
「…はい」
横にいるベルに目を向けると、彼も驚いているようだった。少年は何か問題か、というような顔をしている。
問題、ではない。いや、ある意味で言えば問題だ。
サイラスという人物がこの少年を自分の元に向かわせた理由が、リオネルはなんとなくわかった。
「マテオと言ったな。事情は理解した。俺は朝と夕に稽古をしている。毎日でなくても良いから気が向いた時に来るといい。しかし、今日はもう戻らなくてないけなくてな。明日からならば教えられる。それでも良いか?」
これまで表情が変わらなかったマテオの顔が少し緩んだ気がした。
「構いません。本当に、ありがとうございます」
それだけ言ってから、一礼して去ろうとした。リオネルはマテオの言っていたことを思い出し、呼び止めた。
「待て、寝るところはあるのか」
「いいえ」
リオネルは薄情な人間ではないので、できる限り手を差し伸べる。
「だったら、教会に行くといい。名前と事情を説明したらきっと引き取ってくれる。教会まで一緒に行こうか?」
「お心遣い感謝します。ですが、自分で探すので大丈夫です」
「そうか。もし見つけられなかったら戻ってくるといい。万が一引き取ってもらえなかった時も教会を説得するから遠慮せずこい。城の衛兵たちに俺に用があると言えば通してくれるように話は通しておく」
これがリオネルにできる最大限のことだった。どんな事情があって一人なのかは知らないが、道に寝ている子供を放ってはおけない。マテオは感謝の言葉と一緒に頭を下げて、夕陽の下を歩いていった。
「そうか、そうだよな」
横に座る少年に言った。少年は変わらず無表情で水を飲んでいる。漆黒の瞳も笑っていない。それを見てリオネルは既視感を覚えた。どこかで見たことのある目。
—ああ、そうか
子供の頃のヴィーヴィオ王国の王女、メアも同じような目をしていた。
その頃のリオネルには、世界が希望に満ちたキラキラとしたものに見えていたのに、メアの瞳はまるで違った。何か、色のついていない灰色の世界でも映っているかのように思えた。周りに見せないだけで今もこんな目をしているのかもしれないが。この少年には、世界がどのように見えているのだろうか。
「…リオネルさまは、英雄になりたいと思ったことはありますか」
マテオは不意に投げかけた。
英雄—それは、優れた才能と技術を持ち、人々のために偉業を成す人のこと。または勇者ともいうだろう。
「どうして急にそんなことを聞くんだ」
「教会の子どもたちが言っていたのです。英雄になりたいと」
騎士しかいない国で生活するこの年頃の男児なら誰もが憧れる存在。ましてや教会という子供が多くいる施設で、その話題が出るのは当たり前とも言える。
しかしリオネルには、ただの雑談とも取れるこの質問の奥に大切な—それこそ『マテオ』という一人の人間を作り上げている部分が隠れているような気がした。
「俺は—夢見たことは、あったよ。でも、俺はなれなかった。おそらく、この先もそうなることはないだろう」
リオネルは優しい声色で言った。
「…どういうことですか?」
リオネルは知っている。英雄という存在がどれだけ残酷なものであるかを。
英雄とは、優れた才能と技術を持ち、人々のために偉業を成す人のこと。
それゆえ、時には己の命を犠牲にすることだってある。
リオネルは昔、目の前で英雄が死ぬその瞬間を見たことがある。人々を救うために自分の命さえも捧げた英雄を見ると、なるものではないと思った。いや—
なる勇気さえもなくなった。
自分の命よりも他人を優先するなんて常軌を逸している。そんなこと、自分にはできないとリオネルは思った。
言っていることがわからないというような顔をしているマテオに、リオネルは同じ質問をした。
「マテオはどうなんだ。なりたいと思うか」
マテオは遠くを眺めて見て言った。
「憧れは、あります。でも考えるだけ無駄です。そんな夢を見たところで叶いませんから」
その姿は少し寂しそうで、まるで夢を諦めた大人だった。まだ、そんな年頃ではないだろうに。
「そうか?マテオならなれると思うのだが。だって、こんなに努力しているのだからな」
お世辞なんかではない。リオネルは本気でそう思っている。彼は出会った頃から騎士と言ってもおかしくないほどの技量と勇気があった。そこで満足してもいいのに、これ以上の高みを目指している。
そんなマテオならば、世界をも救える英雄になれるのではないかと思ったのだ。
「この程度の努力で英雄になれるのであれば、貴方さまはとっくの昔にそうなっているでありましょう。リオネルさまを越すことは、あまりにも無謀な挑戦です」
マテオは嘘をつけない、つこうとも思わない子供だ。これは謙遜ではなく、本心なのだろう。
事実、リオネルは血反吐を吐くほどの努力をしてきた。どれだけ倒れようと、過呼吸になろうと、稽古を積んできた。
「いや—お前なら俺を超えられる。お前には、困難に立ち向かう勇気がある」
勇気—それはリオネルには持ち合わせていないもの。人には格好をつけているが、本当は勇気なんかない臆病者。怖くて前に突き進むこともできない出来の悪い皇太子だと自分で思っている。
「それに、お前は好きで稽古をしているのだろう?」
マテオはこの国に住んでいるとはいえ、元は東の国の生まれだ。本当は、ここまで熱心に稽古をしなくても良いのだ。
「確かに好きではあります。ですが、元は家族を探すために始めたことです。一人でも生きていけるように」
確かマテオには父と母、そして妹がいたはずだ。家族とは彼がこの国に来る少し前に起きた戦争で離れ離れになってしまったらしい。マテオ曰く、この国はただの通過地点でしかなく、一人で生きていけるようになったら家族を探しに旅に出るのだそうだ。なんて、無謀な挑戦だろうとリオネルは思う。この広い大陸でどこにいるかもわからない、言い方は悪いが生きているかもわからない三人を探すことなど不可能に近い。しかし、もし自分の大切な人がどこにいるかもわからなくなったら必死で探すことだろうリオネルも思う。安否がわからないなら尚更だ。たとえ生きている見込みがなかったとしても—生きているという微かな希望を抱いて、もがくことだろう。幸せな結末を夢見て。
やはりマテオには勇気がある。リオネルは思ってはいるものの本当にそう行動できるかはわからない。
「お前はもう、俺を超えているではないか」
リオネルは優しく笑いかける。マテオは何を言っているんだという顔をしている。
そう、彼はすでにリオネルを超えている。彼の努力の先には愛と勇気があるのだ。でも、リオネルは違う。
リオネル努力の先には何もない。勇気もない。
今まで、ただの罪悪感と後悔だけでここまできたのだ。誰のためでもない。強いていえば、自分のためか。
英雄になれるような器は持ち合わせていない。
「今日はもう終わりにしようか。シスターも心配している頃であろう」
話はもう終わりだという風にリオネルは言った。マテオは何か言いたそうな顔をしていたが「そう、ですね」とだけ言って歩き出した。
「今日もありがとうございました」
城門の手前でそう言って頭を下げた。身を翻して城門を出るマテオに、リオネルはほとんど無意識に声を張って言った。
「夢を見ることをあきらめてはならないよ」
それが、最低限リオネルにできることだった。少年は再び頭を下げて大通りを歩いて行った。
いつの間にか日は完全に昇り、街の人々が活動を始めていた。
リオネルは自室に戻って作業を開始している。先ほどまで汗だくで熱を帯びていた体は、今では冷え切っていた。
そして、目の前に立つベルに尋ねる。
「調査の方はどうだ」
「全く。申し訳ありません」
「…そうか」
今リオネルは、五年前から姿をくらませているこの国の優秀な騎士の居場所をベルに調べさせている。
「サイラス兄さんは、どこにいるのだろうか」
サイラス—そう、城に来るようにとマテオに指示をした人物だ。
彼はリオネルの七個年上で、剣術を教えてもらったこともある。リオネルのことも、とても可愛がってくれていたのだが、どういうわけか例の戦いが終わった五年前から行方が確認できていない。
しかし、マテオと初めて会った時に言っていたことから、この国かもしくは近くにいるはずなのだ。少なくとも、生きてはいる。サイラスという名前はそれほど珍しい名前ではないので、別人という可能性も否定できないが、その可能性は低いだろうとリオネルは思っている。
リオネルを越す優秀な騎士が山ほどいるこの国で、わざわざ彼の元にマテオを行かせるなんて、そんなことはサイラスしかしないと思ったのだ。サイラスの想像するリオネルがどんな人間なのかは知らない。でも、立派な騎士になっていると思っていることは間違い無いだろう。
—あなたが思っているほど、俺は優秀な騎士ではないのだがな
リオネルは呟く。サイラスがそう思っている理由は、やはり英雄の存在だろう。しかし、それはただの希望であり、現実はそう簡単ではない。
—俺は英雄キアノスのようにはなれなかった
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