第7話 赤子を連れた訪問者
翌日の昼過ぎ。
メアはいつものように執務室で作業していた。
コンコン
ドアをノックする音。声を聞かずとも、扉の向こうにいる人物には予想がついている。「どうぞ」と許可すると、廊下に立ったままの従者は落ち着いた声で言った。
「お客様でございます」
メアはきょとんとする。なぜなら、メアが今いるこの屋敷は普段訪問者が来るような場所ではないからだ。わざわざ城ではなくこの屋敷を訪ねてきたということは、メアに用があるということ。思考を巡らせるが、心当たりはない。文通をしている多数の相手からも、近いうちに訪問するといったことは聞いていない。本当に、誰だろうか。見当もつかない。他国の上流階級の人間であれば、国王である父や王妃の母のいる城に行くはずなので、少なくともそうではない人。仕事関係ではないということだろうか。「お客様」というくらいだから、メアの知っている人物ではあるのだろうが、果たして仕事以外でわざわざ足を運んでくるような知人がいただろうか。
歩きながらそんなことを考えていると、いつの間にか目の前には応接室の扉があった。パメラが開き、メアは恐る恐る足を踏み込む。
「お待たせいたしました—」
目の前に立っている人物を見て、メアは口角があがる。
「お邪魔しています、メアさん—いえ、失礼いたしました。ここでは王女とお呼びするべきですね」
まだ生まれてまもない赤子を抱えながら、その女性は丁寧にお辞儀をする。
「クレア先生、お久しぶりです。ご出産おめでとうございます」
目の前の女性はメアの恩師—クレアだった。音楽学校の生徒の頃から世話になっていて、なんでも相談できる相手だ。最近はクレアも忙しく、それにメアが仕事で学校に行ったとしても毎日会うわけではないので、会うのはおよそ半年ぶりといったところだろうか。
テーブルを挟み、向かい合ってソファに座る。
「お祝い、感謝申し上げます。まさか、王女にそう言っていただけるとは」
「どうか、畏まらないでください。いつものままで構いません」
ここがカペル家の屋敷というのとパメラがいるということで畏まっているのだろうが、どうも心地悪い。慕っている相手に自分を王女と呼ばせるのは、メアの趣味ではない。
「…パメラさま、王女に馴れ馴れしく話すのは、従者である貴方さまにとって実に腹立たしいことかと思いますが、どうかお許しください」
礼儀正しい恩師は、パメラに一言断りを入れる。パメラとほとんど話したことのないクレアにはどう見えているのかは分からないが、彼女は穏やかな人間なのでそこまで気にしなくても良いとメアは思う。
「わたくしのことはお気になさらず。王女がそうおっしゃったのですから、構いません」
メアはソファに腰掛けるように促す。それと同時に、パメラではない別の従者がおかわりの紅茶と焼き菓子を乗せたワゴンを押して部屋に入ってきた。クレアの方が早く応接室に入っていたので紅茶はすでに二名分用意されていたが、話すには焼き菓子が必要不可欠だ。それにメアは、焼き菓子を頻繁に食べないので(正確には健康に悪いとパメラに止められるので)メアからすればこの上なく好都合だ。
「昨日、ちょうど仕事で学校に行きまして。先生はまだ復帰されないかと校長先生に尋ねたばかりだったのです。先生のお顔を拝見できず寂しく思っていましたので、久しぶりにお会いできてとても嬉しいです」
「あら、そうだったの。それはごめんなさい。でも、そういうふうに思っていてくれてありがとう。私もメアさんに会えて嬉しいわ。寂しかったもの」
無意識に口角が上がってしまう。大好きな先生にそんなことを言われたので、今日亡命しても構わないと思った。
この国に住んでいる者の中で、王女である彼女に敬語を使わないで許されるのは父と母、そしてクレアくらいだろう。だから、メアはこの恩師のことを好いている。
生徒の頃、王女だからといって教師たちはメアに対して敬語で話してきたり、過剰に贔屓してきたりした。国王や王妃の反感を買わないための対応だったと今なら思う。子供も馬鹿じゃないので、周りの子とは違う対応をされていると気づくまで、そう時間はかからなかった。その理由が自分が王女であるからということも。何故自分は普通の子供になれないのかとどれほど思ったことか。
でも、クレアだけは他の子供たちと同じように接してくれた。忘れ物をしたら注意してくれたし、贔屓もしなかった。メアはどれだけ嬉しかったことか。この人といる時だけは普通の子供になれる、そう思った。
「ん…まぁ…ふぅ…」
クレアの腕に抱かれた赤子が可愛らしい声を出す。小さな生き物とはなぜこんなにも愛しいのか。
「女の子ですか」
クレアは名家の生まれで、結婚相手も同じような家柄らしい。そんな二人のもとに生まれた子なので、もちろん上等な服を着ている。ふわふわでいかにも女の子という服で、母親譲りの大きな瞳が可愛さをさらに引き立てている。
「ええ、言っていなかったのよね。連絡ができていなくてごめんなさい」
「いえ、お忙しかったのでしょう?それに、私に手紙を書くよりもその子との時間を大切にした方が良いと思いますから」
子供はあっという間に成長する。それは年の離れた弟がいるメア自身が実感していることだ。フラムを見るたびに、この前まで両手で抱えられる程ではなかったかと思う。
無論、五人目ならばそんなことわかりきっているとは思うが。
「この子を最後にしようと思って」
まぁ、そうだろうなとメアは思った。五人もいれば後継には困らないだろうし、家の中は賑やかだろう。クレア自身も、ついこの前三十路に突入したので、これ以上の子供を持つと体力が心配になってくる。
「きっと、上の子たちからたくさんの愛情を受けて育つでしょうね」
赤子に微笑み、手を振りながら言った。この子が成人する頃に自分は何をしているのだろうか、メアはそんなことを考えた。誰かと結婚して子育てをしているのだろうが全く想像がつかない。この恩師のように笑っているのだろうか。
「今日はこの子を連れて挨拶に来たのだけど、これも渡そうと思って」
いっときの沈黙を破るように、クレアはテーブルの上に一枚の巻かれた紙を出して言った。何年も昔のものだと一目でわかるくらいに古びていた。「丁寧に保管していたのだけれど」クレアは呟いた。メアは彼女の言いたいことが分からないまま、手に取る。こんな紙のためにわざわざ屋敷を訪れるなんて。
「これはなんでしょう?」
話の先が見えずメアは尋ねる。それを見て恩師は微笑み、いつもの優しい口調で言った。
「あら、覚えていないの?開いてごらんなさい」
どういうことだろうか。言葉に従い、紐を解いて紙をくるくると開く。
「あ…」
そこには、幼い子供が描いたであろう文字並べられていた。紙の一番上に、まだ拙い文字で『メア・カペル』と書かれている。なぜすぐに気が付かなかったのか。記憶を遡ってみるが…思い出すのは難しそうだ。
「…私の作文ですか」
「ええ」
驚いた。まだこんなものが残っていたとは。いくら王女の書いたものとはいえ、学校の中では一生徒だ。そんな生徒が書いた作文—言ってしまえばたかが紙切れを、十年近く保存していたなんて。目の前の女性は本当に聖人なのだと改めて思った。
「こんなもののためにわざわざ…」
「私にとっては、大切な生徒が一生懸命書いた作文よ」
クレアは優しい。どんなに王女でも、普段イタズラをする子供でも、平等に接する。人の努力や成果を素直に認めることができる人間だ。なるべくして教師になったと言っても過言ではないだろう。
紙の上部を見る。そこにはタイトルが書かれていた。
『私の楽しい未来』
楽しい未来—そんなものを夢見ていた時期があっただろうか。子供の時から夢など見る性分ではなかったはずだが。
「将来の自分を想像して書くという授業をした時のものよ。文を書く練習を兼ねての授業だったから…あなたが八歳くらいの時かしら」
なるほど、と心の中で呟いた。それならば、メアがこんな内容のものを書いた理由に納得がいく。普通の八歳の子供には書きやすい話題だったはずだ。皆、未来に夢と希望を持ち、必ず叶うと信じて疑わない。そんな年頃だと分かっていて、クレアもこの話題を選んだのだろう。
—八歳の頃の自分は、果たしてどんな気持ちで書いたのだろうか。
「ところで、なぜ先生が持たれていたのですか?生徒に配らなかったのですか?」
授業内で書いたものなどは、先生が確認して評価をつけた後、生徒に配るのが普通だ。
「いいえ、皆には配ったのよ。もちろん、メアさんにも」
メアはますますクレアが持っていた理由が分からなくなってきた。どういうことか、というような表情を浮かべていたら、クレアは遠い昔を懐かしむ笑みを浮かべて、言った。
「本当に覚えていないの?作文をみんなに配って授業を終えると、あなたが後ろの席から小走りで私のもとに来たのよ」
本当に覚えていない。当時のメアからすればただの学校生活の一部なので、記憶に留めるほどの出来事ではなかったのだろう。
「そして、その作文を私に差し出して『先生が持っててくれませんか』って言ったのよ。驚いたわ。そんなこと初めて言われたし、何よりとても上手く書けていたんだもの。だから『お父様やお母様にお見せしなくていいの?』と尋ねると、あなたはすぐに首を振って言ったの。『こんなの見せたら、お父様に怒られちゃう。お母様も悲しんじゃうかもしれない』って。私はよく分からなかったけれど、あなたがすごく不安そうな顔をしていたからとりあえず預かっていたのよ。いつ渡そうか悩んで、成人したら渡そうと決めていたのだけど、色々重なって今になってしまったわ。遅くなってごめんなさい」
そんなことが。まだ読んでいないので分からないが、父や母に見せられないようなことを書いたということは、ある程度素直な気持ちを書いたのだろうなと思った。
「私も忘れているくらいなのに。大切にとっておいてくださってありがとうございます。あとで部屋に帰って読んでみます」
「あら、今ここで読んでも良くてよ?」
気を遣ったと思ったのだろう。もちろんそれもあるが、何を書いているのか分からないしゆっくり一人で読みたいので、言葉はありがたいが遠慮しておく。メアは紙を巻き直し、後ろに立っているパメラに渡す。パメラはどこか懐かしい顔をしてそれを大切に握った。
一旦話に区切りがついたので紅茶で口を潤す。目の前に置かれたドーナツを手に取り潤されたばかりの口に運ぶ。途端、砂糖の甘さとバターの香りが広がった。これぞ、幸福の至り。
甘いものを食べたがために喉が渇き、再び紅茶を喉に流し込むと白いティーカップは空になってしまった。それに気がついたパメラがおかわりを注いでくれ、さらに気を利かせてクレアのティーカップにも注いだ。
「ありがとうございます」
静かに元の位置に戻ろうとするパメラに彼女は感謝を述べた。
「お口にあったようで何よりです。私の気に入っている紅茶でちょうど昨日手に入ったもので」
「本当美味しい紅茶だわ。やはり、あなたの選ぶものにはずれはないわね」
実は昨日、例の絨毯屋兼カフェの店で飲んだ紅茶の茶葉を一瓶だけ買ってきたのだ。本当は何瓶も買いたかったのだが、最後の一瓶だったので致し方ない。その紅茶を、恩師である彼女に喜んでいただいたのはこの上ない喜びだ。
それからはさまざまな話をした。
仕事の話や雑談など。特に印象に残っているのはクレアの夫の話だった。ほとんど愚痴であったが、そもそも夫婦という関係でなければ夫の愚痴すら出ない。そんなクレアをメアは少し羨ましくも思っている。政略結婚が当たり前のこの時代、似た家柄の相手と結婚したクレアだが、実は二人は両思いだったのだそうだ。両家の親も特に反対せず、好きな人と結婚できた珍しいパターン。王室に生まれたメアには絶対にありえない話だ。だから、羨ましく思うのだけど。好きになった人と結婚して、五人の子宝に恵まれる、メアからすれば夢のような話だ。自分もそうなりたいと夢見て、何度諦めたことか。その時ふと先日父から話されたことを思い出した。
「先日父に言われたのですが、私に会いたいという男性がいるそうで、今度会うことになったのです」
「良い知らせではないの?」
回答に迷う。確かに、誰からもそういう誘いが来ないよりかはいいのかもしれないが、なぜか素直に喜べない自分がいる。
—別に、意中の相手がいるわけでもないのに。
「子供の頃から、自分で選んだ相手と結婚できないことなど覚悟していたはずなんです。なのに、なんだか…」
それ以上言葉が出ない。私は知らない人と結婚することが嫌なのか、そんなこと許されるはずがないだろう、と自分に言い聞かせる。いつだって自分が王女であることを忘れてはいけない。普通の人とは違うことをわかっておかなければならない。普通の人とは違うというのは、別に優越感に浸っているわけではなく、自分はこの国の後を継ぐためだけに生まれてきた存在ということ。
だから、夢を見てはいけない。自由など、保証されるはずがない。
なんと言おうかと考えていると、恩師が口を開いた。
「もしかして、メアさん—好きな人がいるの?」
「———」
その意味以外に受け取ることができないその言葉を、恩師は優しい笑顔で放った。すぐに「いませんよ、そんな人」と言おうとした。言いたかった。けれど、なぜだろうか。頭には白銀の髪を持った子供のような笑顔を見せるあの人が浮かんだ。
言葉に詰まる。好きな人なんて浮かんでくるはずがない。いないのだから。今までそうやって生きてきたから。
きっとあの人が浮かんできたのは、最近いろいろと関わる機会があったからだ。
「いるはずがありません」
そうとしか言えなかった。王女であるメアに想い人などいてはならない。メアはわかっている。そんな人を作ったら、辛いのは自分だと。
「恋をすることは悪いことではないのよ」
メアが先ほど言った言葉とはまるで噛み合っていない言葉をクレアは言った。
カーン…カーン…
突然、部屋の中に柱時計の音が響く。三時の合図だ。クレアは驚いて身の回りを片付け始めた。
「もうこんな時間」
急いで立ち上がったクレアは、隣に作った簡易ベッドで寝ていた娘を抱き上げた。
「長居してしまってごめんなさい。とても楽しかったわ」
「こちらこそありがとうございました。私も先生とお話しできて楽しかったです。おみあげまですみません」
実はメアの大好物であるワッフルをもらっていたのである。お辞儀をして、こちらを見ている赤子に手を振る。
パメラと入り口まで見送る。開かれた大きな扉からみえる空はオレンジ色に染まっていた。朝から外に一度も出ていなかったので気がつかなかったが、今日は雪が降らなかったようだ。
「皆さん、今日はお世話になりました。おもてなし大変感謝申し上げます。メアさん、またね」
小さな頃から見ていた優しい先生は、見慣れた笑顔でそういった。それにつられて、メアも口角が上がる。
「わざわざ足を運んでいただきありがとうございました。ご子女の健やかな成長を心から願っております」
クレアは身を翻してドアの方向に歩き出した。しかし二、三歩進んだところで立ち止まり、再びメアの方に向かってきた。そして、片腕で娘を抱き、もう片方の腕をメアの背中に回し、抱きしめた。クレアにこんなことをされるのは何年ぶりだろうか。メアはなんだか、子供に戻った気分になった。事情を知らないパメラ以外の周りの使用人たちは、驚いてどうにか辞めさせようとしているのが伺える。本来、王女に触れるなんてあってはならない。パメラが使用人たちを片手をあげて制したので、一瞬ざわざわとした空気が静まった。
「ど、どうされたのですか」
メアは動揺する。当たり前だろう、何も言わず抱きしめられているのだから。
「あなたは王女ではあるけれど、同時に一人の人間であることを忘れてはダメよ。自分を殺して生きていては楽しくないわ。これは、あなたの人生なんだから」
彼女はゆっくりと腕を外して、目を合わせる。
「私に言えることはこれだけ。では、今度こそ失礼するわね」
それだけ言って扉に向かって歩き出す。オレンジに輝く太陽に照らされながら。もう、振り返ることはなかった。
—これは、あなたの人生なんだから
その言葉が、ずっと頭に残り続けた。
姿が見えなくなるまで見送り、メアは部屋に戻った。
「お渡ししておきます」
メアが椅子に座ったと同時に、パメラは巻かれた古い紙を机に置いた。そういえば、すっかり忘れていた。仕事も大して溜まっているわけでもないし、読んでみるか。
紐を優しく解き、くるくると広げる。縦の長さが手二個分くらいのその紙に、子供らしい大きな文字で書かれた作文を十年越しに読む。
『私の楽しい未来 メア・カペル
私は好きな人と結婚したいです。
周りの人は好きでもない人と結婚しています。私にはなんでなのかわかりません。きっと、大人になったらわかるのかなと思います。
私は好きな人と結婚して、好きな仕事をして、楽しく過ごしたいです。ピアノはしなくていいです。もうたくさん頑張ったからです。でも、ピアノも楽しくなったら嬉しいです。
お母様とパメラと楽しく過ごせていたらいいです。あと、リオネルも。
楽しい未来になってるといいなと思います』
メアは驚いた。子供の頃、こんなにも夢を見ていただろうか。いや、普段は考えていなくてもそういう話題だったから、思っていることを全て書いたのかもしれない。昔の自分が、父と母に見せられないと言った理由が分かる。『好きな人と結婚したい』なんてものを書いた作文など、父の怒りを買うだけだ。パメラに渡しても両親に見せられると思ったのだろう。隠せと言えばよかったとも思うが、勘のいい母にはすぐにバレたはずだ。幼いながらにして、正しい選択だったのかもしれない。
「好きな人と…ね」
メアは呟く。この頃なんだか結婚の話題が多い気がする。もっとも、メアの結婚相手はほとんど決まっているようなものなのだが。
これは私の人生─
だめよ、そんなことを考えていては。
メアは自分に言い聞かせる。忘れてはいけない。王女に自由などないことを。
でも、少しくらいそのような生き方をしてみてもいいかもしれない。
そう思った。
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