影を喰らう者-魔法審問官カイの事件簿

三坂鳴

序章: 影なき殺人

まだ夜明け前、カーヴァレンド王国の労働者街は冷たい霧に包まれていた。

石畳を這う湿気は、薄明の空気に溶け込み、まるで街全体が静かな眠りの中にいるようだった。

その静寂を破ったのは、一軒の小さな木造の家から響く甲高い悲鳴だった。


通報を受けて現場に駆けつけた衛兵たちは、思わず息を呑んだ。そこにはリザードマンの職人グリース・ヴォルカが、無惨な姿で横たわっていた。

彼の名はこの街で知られており、鋭い爪と器用な尾を生かした武器や工具の製作で評判だった。

だが、その卓越した才能の持ち主が、血まみれの惨劇に飲み込まれていた。


グリースの全身は無数の刺し傷で覆われ、体は異様なほど乾ききっていた。

深い傷から内臓が露出しているにもかかわらず、床や家具には血痕が一切なかった。衛兵たちは言葉を失いながらも、さらに奇妙な点に気づく。

遺体が何の影も落としていなかったのだ。

家の中を照らすランプの明かりに反射するべき影はどこにも見当たらず、ただ不気味な光景だけが目の前に広がっていた。


「影がない……?一体、これは……」


衛兵の一人が震えた声で呟いた。

床には煤のような黒い痕跡で描かれた魔法陣があり、その中心には古代文字で「食」とも「影」とも読める記号が刻まれていた。

現場を取り囲む住民たちの間には、不安のさざ波が広がっていった。


「魔法審問官に連絡を!」


ある住民の叫びがその場を切り裂き、王都の魔法審問所へと事態が伝えられた。


審問官カイ・ヴァレンスの到着

霧の中を進む馬車が労働者街に到着した。

そこから降り立ったのは、王国でも若き才能として名を知られる魔法審問官カイ・ヴァレンスだった。

彼の黒いローブには、王国の紋章が刻まれた銀のバッジが輝き、腰には細身の剣と魔法の道具を収めた革袋が下げられている。

栗色の短髪と鋭い灰色の瞳が印象的な彼は、現場に漂う不穏な空気を一瞬で察した。


「ここが現場か……」


カイは冷静な目でグリースの家を見上げた。

家の中は作業場と住居が一体となった簡素な造りで、普段は整然としているはずだった。

しかし今は、木材や金属片が散乱し、焦げたような臭いが鼻をついた。天井に取り付けられた魔法灯は、薄暗く不規則に点滅している。

カイは家の中に足を踏み入れると同時に、微かな魔力の残滓を感じ取った。

皮膚を刺すような感覚に、彼は眉をひそめる。


「これは……魔術が使われた形跡だな。」


現場調査


「状況を説明してくれ。」


カイは現場に立ち尽くしていた衛兵に指示を出した。


「午前3時頃、近所の住民が物音を聞きつけて様子を見に行ったところ、扉は開いており、この状態だったと……家には壊された形跡はありません。」


衛兵が震える手で指し示したのは、遺体のそばに描かれた奇妙な魔法陣だった。

カイはその魔法陣に膝をつき、じっと観察した。描かれた線には煤のような黒い痕跡があり、中心には古代文字で「食」「影」と読める符号が刻まれている。


「何かを召喚した痕跡か、それとも……」


カイは呟きながら、腰の袋から水晶玉を取り出し、魔法陣の上にかざした。水晶玉は青白く輝き始め、微かな音が空間に響く。


「反応はある。だが……途切れているな。魔力がどこかへ『移動』している。」


その後、カイは遺体を詳しく観察した。刺し傷の数、影の欠如、血痕のない異常さ。これらの要素が普通の殺人ではありえないことを示していた。


「刺し傷、血の欠如、影の喪失……。そしてこの魔法陣。単なる犯罪ではないな。もっと大きな『意図』が隠されている。」


カイは鋭い目を周囲に向け、さらに調査を続ける決意を固めた。この事件が、ただの殺人事件ではないことは明白だった。


捜査の始まり

こうして、カイ・ヴァレンスの手による不可解な連続殺人事件の捜査が幕を開けた。静寂を破った影なき殺人は、カイをさらなる深淵へと誘おうとしていた。

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